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2020年4月5日日曜日

隔たりのある笑い

 前回、志村けんの姓「志村」について述べた。今回は志村けんの「芸」について触れたい。とは言ってもそのことを書ける知識も見識もないので。この間に読んで教えられることが多かった二つの記事を紹介したい。

  西条昇氏(フリーの放送作家、お笑い評論家を経て、現在は江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)は、『普遍的笑い、比類なき観察眼で 志村けんさんを悼む』(朝日新聞2020.4.1)という追悼文で次のように書いている。


 私が20代の時、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家を1年だけ担当しました。テレビで見るのとは全く違う、志村さんの笑いへの厳しい姿勢にとにかく驚きました。

 私たちが出したコント案が加藤茶さん、志村さんに次々に却下され、ゼロから考え直すことは日常茶飯事です。たばこの煙がモクモクとする会議室で、数時間も机に突っ伏しながらネタを考えます。志村さんは物静かに考えられていました。そんな中でアイデアの出発点となるのが、加藤さんと志村さんが「あの映画のこの場面が面白かった」と何げなくつぶやく一言でした。

 加藤さんもたくさんの映画を見られていましたが、志村さんの勉強量はすさまじかった。まだ日本で発売されていない海外のコント番組のビデオを輸入業者を通じて取り寄せておられました。自宅にはコメディー映画のビデオも大量にあり、早送りで見ながら面白い所だけ通常再生して確認すると伺ったこともあります。テレビ画面上では飲み屋の延長のようなノリで振る舞っておられましたが、志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出されたものなのです。


 「志村さんの勉強量はすさまじかった」「志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出され」ということを知ると、もう一人の「志村」のことを思いだざずにはいられない。あたりまえのことだが、この勉強量や知識量は表には出てこない。表に出てきたのでは「笑い」も「音楽」も「芸」として成立しないからだ。そのことはしかし、あまり省みられない。


 話題作『ポスト・サブカル 焼け跡派』の著者「TVOD」の一人であるコメカ氏は、『たけしと何が違うのか――コントで勝負した志村けんは、最後の世代の「喜劇人」だった』(文春オンライン)で、ビートたけしと対比しながらこう述べている。


 インターネット以降の世界では、芸人もミュージシャンも作家もみな生身の人間であることをわたしたちは実感として知っている。だが、70~80年代にテレビで活躍しその存在を確固たるものにした志村けんというキャラクターは、その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアンの、最後の一人だったのではないだろうか。

 だから私たちは、そういう平板な(これは揶揄ではない)キャラクターが消失してしまったことを上手くイメージできない。ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できないのと同じことだ。

 70年代までの日本には、お茶の間のブラウン管を通し平板なキャラクターたちのドタバタ劇に笑っていられる状況が、良くも悪くもあった。その残滓の消失を、恐らく私たちはいま実感しているのである。


 「その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアン」というコメカ氏の捉え方には、なるほど、と頷くものがあった。
 同時代の視聴者としての実感としても、テレビのブラウン管の向こう側にいる存在は、端的に、向こう側の人だった。televisionという言葉どおり、その技術は「tele」遠くにあるものをこちら側に近づけた。日常を日常にもたらした。
 ザ・ドリフターズの時代のテレビ番組では、向こう側とこちら側はブラウン管で隔てられていて、その隔たりによって、「笑い」という非日常と日常がゆるやかに接していた。

 あの時代、ブラウン管のテレビという機械には確固たる存在感があった。茶の間で君臨していたが、それはある種の異物でもあった。電源ボランを押すと非日常が日常と接続し、離すと断絶していった。
 今日、ブラウン管が液晶などのフラットパネルに変わった。その形が象徴するかのように、向こう側とこちら側とはまさしく「フラット」に接続する。小さなフラットパネルをポケットに入れて持ち歩くこともできる。異物感はなくなり、接続が常態化される。そして、「tele」遠くにあるものをこちら側にもたらすのではなく、すべてのものが私たちの身体の近くに接しているような感覚をもたらす。

 ブラウン管のテレビが茶の間に君臨していたあの時代、ザ・ドリフターズや志村けんの時代を思い出す。あの笑いとあの隔たりの感覚が懐かしい。それはゆるやかさでもあった。
 笑いとは隔たりの感覚によって人を解放するものである。隔たりのある笑いがさらに遠ざかっていく。


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