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2016年4月2日土曜日

最後の夕刊

 一昨日、最後の夕刊が届けられた。山梨県では「朝日新聞」の夕刊の配達が3月31日で終わりとなった。佐賀、大分に次いで3県目の終了となるそうだ。夕刊購読者の減少が直接の理由らしい。

 高校生の頃から、東京で暮らした時期も含めて四十年ほどの間、朝日の夕刊を読み続けてきた。朝食時に朝刊、夕食時に夕刊。習慣のリズムだった。これからもPC画面で「デジタル夕刊」を読むことはできるが、新聞紙という媒体ではもう読むことができない。さびしさがあるが、すぐに慣れてしまうのかもしれない。

 かつて朝日新聞の夕刊文化欄には、作家や研究者の質の高い寄稿が掲載されていた。しかし、十年ほど前から紙面の内容や構成が変わり、その魅力が失せてきた。時代や流行に迎合しすぎているように思えた。新聞は「新」聞ではあるが、むしろ紙と活字の媒体としての本質的な「古」さがその存在意義だということが理解されていない。

 インターネットの拡大が新聞の衰退を招いたと言われるが、それだけが原因ではない。朝日だけでなく他の全国紙や地方紙も軒並み、内容の水準が落ちている。読むに値する記事が減ってきた。教える仕事のために「教材」として目を通すこともあるが、使えるものが年々少なくなっている。逆説的だが、良い記事や寄稿に巡り合った時の価値は以前よりも増している。
 
 新聞記者も一般の人々も、ネットを情報源とする限り、情報の量と質はほぼ同一、等価になっている。もちろん記者は独自取材ができることが違うが、それがどこまで「独自」なのか、ほんとうに「取材」なのか、疑問に思うこともある。さらに踏みこんで言うと、思考や表現の質も似たような水準になってきたのではないか。わざわざ読むには値しないと判断されれば、読まなくなるのは自然の原理だ。

 今後、購読者が少ない県(山梨のように人口が少なく、経済力も弱い県)から次第に夕刊は終了となるだろう。最終的には、夕刊という制度そのものが終わりを迎える。宅配制度に支えられた朝刊はこれからも長い間存続するだろうが、その内容や形態は変革を余儀なくされる。おそらく現場の記者は相当な危機感を持っているだろう。

 これまで夕刊を我が家まで配達していただいた方々、長い間、ほんとうにありがとうございました。

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