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2013年6月2日日曜日

GREAT3 『彼岸』『綱渡り』 (志村正彦LN 31)

 20分ほどの休憩の後、GREAT3が登場した。メレンゲと同様、ライブを見るのは初めてだ。2004年から8年間の活動休止を経て、昨年5月、彼らは新メンバーを迎えて活動を再開し、11月に新しいアルバム『GREAT3』をリリースした。

 その活動休止の間に、片寄明人は志村正彦と出会った。彼は、志村からの依頼を受けて、フジファブリックのメジャーデビュー作『フジファブリック』のプロデューサーとなる。片寄も志村の詞と曲の独自性を高く評価した。また、志村が影響を受けたブラジル音楽にも造詣が深かった。そのような音楽的な絆と共に、志村も年は離れているが(いやそれ故にというべきか)、片寄という人間に魅力を感じ、親しくなっていった。

 片寄が、それまでの沈黙を破って、2010年7月に発表した、志村正彦、フジファブリックについて書いた長文のノート『フジファブリック1~10』(片寄明人 公式Facebook、https://www.facebook.com/katayose.akito/notes 。いつかこのノートの内容に詳しく触れてみたい)は、愛のあふれる文章であり、貴重な証言であり、志村正彦を知るためには必読の資料である。

 この日、45歳の誕生日を迎えるギター・ヴォーカルの片寄明人、同年齢のドラム白根賢一。新加入のベースjanは23歳、ギターのサポートメンバーで新作の共同プロデューサーでもある長田進は55歳になる。20歳代、40歳代、50歳代という「多年齢」編成のロックバンドは珍しい。私のような世代としては、その事実だけでも圧倒的に支持したくなるバンドだ。

 新作1曲目の「TAXI」から始まる。暗いうねりと明るい響きが共存している白根のドラムとjanのベース、強さと抑制された感触が溶けあっている長田のギター、広がりのある透明感と憂いや哀しみを織り交ぜたような声を持つ片寄のボーカル。もともとGREAT3 はデビュー作から「大人っぽいロック」を志向していたが、現在のGREAT3は正真正銘の「大人のロック」、熟成と激しさが調和しているロックを奏でていた。
 
 数曲の演奏後、大切な友だちへ捧げるという意味のMCの後、『彼岸』が静かに歌われだした。この『彼岸』(作詞・片寄明人 作曲・白根賢一)については、GREAT3の公式HP(http://great3official.tumblr.com/post/34143721828/great3-9)で、「GREAT3マネージャー突然の逝去から始まり、この約7年間に両手では数え切れないほど自分の身に起きた、大切な友人達との別れ」がテーマだと告げられている。この大切な友人達の一人が、志村正彦である。この澄みきった哀しみと美しさを持つ希有な曲について、その言葉の世界について、私などに語るべきことはない。この歌は、心を澄ませ、耳を傾け、言葉と対話すればよい。ただ一つだけ、いつも感じていることを述べたい。

 この歌は、「 泣き疲れた その後に 僕がどうやって 歩き出すのか それを見守ってる 近くて遠くから 心で 今も 君を感じてる わかるんだ」と始まり、「泣き疲れた その後に  心の内側 君を感じてる わかるんだ」と終わる。最後の一節は最初と比べて、言葉の間に沈黙が挟まれている。この歌を聴くたびにいつも、最初の「わかるんだ」と最後の「わかるんだ」のところで、心の中に一瞬、沈黙が流れる。その言葉、声の感触に、心が佇む。

 ホールにいた皆がこの『彼岸』の言葉と音に耳を澄ましていた。この曲が終わるとすぐに、余韻の間もなく、メドレーのように続いて『綱渡り』(作詞・片寄明人 作曲・片寄明人/白根賢一/jan)が歌われだした。この選曲が示しているように、『綱渡り』は『彼岸』との深いつながりがあり、アルバム『GREAT3』の鍵となる曲の一つだ。
 「由来なんて分からない 祈りたいから来るだけ」と歌いだされ、この歌の舞台が「鳥居」や「鎮守の森」のある神社らしいことが伝わってくる。歌の主体はこう囁く。

  参道には光 有限なる命 
  悲しいことばかり多すぎた

  何にも願わないで そっと鏡の前で
  有難きを祈り 捧げる

  あるがまま 受け入れて

  昔の自分だったら 落ち込んで泣いてるだけ 
  崖っぷちを歩いてる 日々 死ぬまで綱渡り

 「有限なる命」、「悲しいことばかり」の現実を前にして、歌の主体は何も「願わない」。他に何かを願うというのは、その他に依存することになる。
 この場面で、「鏡」が登場する。「鏡」は神社の中心をなすもので、その意味づけは難しい。『彼岸』の歌詞の文脈から言えば、この場合の「鏡」は鏡の本質である光の反射を比喩とする、自分自身を、自分の生を照らし返す純粋な機能としてあるのだろう。その「鏡」を前に、歌の主体は自身を振り返り、「有難き」が対象として浮かび上がる。
 
 「有難き」とはどのようなものか。「有難き」とは文字通り、有ることが難しいものである。言葉そのものを受けとめて考えるのならば、有ることが難しいものとは、そもそも、有ることそのものではないだろうか。有るということ、ここに今存在していること、そのものが難しいこと、ある意味では有りえないことである。有りえないことであるからこそ、主体は「有難き」を祈り、「あるがまま受け入れて」生きていく。
 しかし、「有難き」現実は、「崖っぷちを歩いてる」ような「日々」、「死ぬまで綱渡り」の現実でもある。そのこともまた、歌の主体は「あるがまま受け入れて」いる。一瞬で、「有難き」存在が失われてしまうことがある。損なわれてしまうことがある。「有難き」を「綱渡り」のようにして、日々、私たちは歩み続ける。

 片寄明人がここで歌っているのは、「有難き」に対する思考、一種の「存在の哲学」の原型のようなものだろう。志村正彦を含む「大切な友人達」の生と死が、片寄にこのような思考をもたらした。それは非常に苦しい哀しい歩みでもあった。片寄は憂いや不安にも向き合い、「有難き」に耳を傾け、音楽を造る。
 最近のロックの歌詞には、どこかの書物から引用したような世界観や宇宙観をつぎはぎしたようなものがあるが、片寄の場合は異なる。自分自身の経験から手繰りよせた言葉を、しなやかで美しいビートとサウンド、透明な響きのある声で、「日本語のロック」として歌う。21世紀の10年代、わたしたちのロックもそのような境地にたどりついた。

 他に、白根賢一がドラムをたたきながら歌った『交渉No.1』(作詞・片寄明人/白根賢一 作曲・白根賢一,jan。この歌には、「3.11」後の現実、東日本大震災と福島原発事故に対する、よく考え抜かれた言葉による応答があり、必聴の作品である)と、アンコールでjanが歌った『Santa Fe』』(作詞・作曲 jan。ルー・リードの名作『ベルリン』を想起させる)が素晴らしかった。GREAT3はやはり表現者3人のユニットなのだなという感想を強く持った。
 ライブは、アンコール2曲目の『Emotion』の印象的なベースライン(ゴールデン・カップスを継承するかのように)と光量を増した照明が特別な高揚感を聴き手に与え、終了することとなった。

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