これから何回かに分けて、『若者のすべて』の言葉を読むことに集中していく。今回は、第1ブロック、AメロBメロの部分の言葉を1行ずつ追っていきたい。
真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
歌の話者であり主体である《僕》は、「真夏のピークが去った」という季節の推移から歌い始める。この季節は、夏がその光と輝きや暑さという感覚の頂きを過ぎて、終わりにかけてなだらかにその感覚を失っていく時節だ。また、何かが「去る」「去った」という感覚は、志村正彦が繰り返し描いたものだ。
聴き手は夏が去り行く季節を背景にして物語が語られることを予想し、その物語を追跡しようとする。季節感を伝えるのは、志村正彦特有の感性だ。彼にとって季節は、歌を着想する導きのようなものだろう。季節とその移り変わり、それに対する感覚あるいは記憶、そのようなものと共に、ある情景が浮かび上がり、主体の想いがあふれ、言葉が動き、メロディとリズムが流れ、歌の世界が創り出されることが多い。
しかしこの歌では、季節の推移を「テレビ」の「天気予報士」の伝える言葉で表現している。歌の主体《僕》自身の季節の感覚というよりも、テレビというメディアの他者からの伝聞として、夏の季節の推移を歌に登場させている。歌の冒頭から、物語の語り方は複雑であることに留意したい。
また、この行からは、歌の主体《僕》は室内にいて、テレビの天気予報を見ているという日常的な光景が伝わってくる。
それでもいまだに街は 落ち着かないような気がしている
「それでも」とあるのは、夏のピークが去った時期にもかかわらず「いまだに」、「街」は「落ち着かないような気がしている」からだ。ここでは「ような」「気がしている」というような、ある種の迂回した言い方がされている。そして、夏の雰囲気がまだ濃厚に残る街で、《僕》は夏をまだ終わらせたくないようにもでもある。
この場面で、歌の主体《僕》が室内にいて外の雰囲気を感じ取っているのか、あるいは、街へと繰り出してその雰囲気の只中にいるのか、は分からない。
夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
夏の夕方、暑さや熱、湿気と空気の感触、街の気配と人の往来、その風景の中で「夕方5時のチャイム」の音が降りそそぐ。夏の街の「落ち着かない」ざわめきに対して、音色が時の区切りを告げる。
歌の主体《僕》は、「今日は」と限定し、その音が「なんだか胸に響いて」と感じる。「なんだか」とあるように、その理由は《僕》にとっても曖昧なものかもしれない。また、なぜ胸に響くのかという問いに対する答えは、歌の言葉からは見つからない。明示的にその理由を伝えることは、歌の意味を限定してしまうので、そのような閉じられた解釈を志村正彦は避けたかったのだろう。あるいは、聴き手自身が自分の「胸に響く」ような、チャイムやその他の音色の記憶とそれに関わる出来事を想起できるように、聞き手にとって自由に想像できる余白を歌の内部に挿みこんだのかもしれない。また、「胸に響いて」の「て」という接続助詞も彼が愛用するものだが、この「て」はその後に余白を置くような効果がある。
「夕方5時のチャイム」が鳴り響くことで、主体の胸にもある想いが響く。「夕方5時のチャイム」に直接結びつく想いなのか、間接的に導かれる想いなのかは分からない。ここではまだ語られることのない想いは、おそらく、《僕》が繰り返し想いだす、ある出来事に対するものだろう。また、「天気予報士」の言葉を聞き、街のざわめきのようなものを聞き、夕方5時のチャイムを聞く、というように、《僕》は「聞く」こと、聴覚に鋭敏であることにも気をつけたい。
「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて
《僕》は、反復して想起する出来事を、「運命」という括弧つきの言葉に「なんて」「便利なもの」という形容を加えて表現している。私たちが運命的なあるいはそれに類する出来事(あくまでそう感じるという意味での)に遭遇したとして、それを表す他の適当な言葉が思い浮かばなかったり、その言葉によって説明して納得しようとしたりして、とりあえず、「運命」という「便利な」言葉を使うことがある。
《僕》にとって、「夕方5時のチャイム」に直接あるいは間接的に関わる出来事は、おそらく「運命」を感じさせるようなことだったのだろう。しかし、《僕》は「運命」という言葉で言い表すことに何らかの抵抗や躊躇も感じている。結果として「運命」という言葉を使うことは、その出来事を「ぼんやりさせて」しまうからだ。この場合の「ぼんやり」は、本来は明確にすべきことを曖昧にすること、向かい合わないで遠ざけること、を指す。「ぼんやり」させることで、《僕》はその出来事を遠ざけてしまう。《僕》はまっすぐに歩むべき道を迂回してしまう。
さらに言うと、「『運命』なんて便利なもので」と表現した結果、主体《僕》の心が変化して、「ぼんやり」したものに変わっていくという解釈も可能だ。この場合、《僕》は、ほんの少しの間、現実感を喪失し、白日夢のような心境に陥る。後半の歌詞の一節に「途切れた夢の続き」という言葉があることにもつながっていく。
『若者のすべて』の隠された主題は、夢ではないだろうか。この夢は、若者の漠然とした夢でもあり、私たちが毎夜見る夢、無意識が紡ぎ出す夢でもある。
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