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2013年6月26日水曜日

メロディの配置と物語-『若者のすべて』2 (志村正彦LN 35)

 この曲のメロディの配置は、『FAB BOX』所収のDVD『FAB MOVIES  DOCUMENT映像集』で確認することができる。『若者のすべて』のレコーディング風景を撮影した映像に、録音時に使った歌詞のプリントが映っていて、Aメロ等を示す符号も付けられている。今後の考察のためにも、その映像を参考にして、全詞を引用する。

1.A)真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
    それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

  B)夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
    「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


    サ)最後の花火に今年もなったな
    何年経っても思い出してしまうな

 
    ないかな ないよな きっとね いないよな
    会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


2 A)世界の約束を知って それなりになって また戻って

  B)街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
    途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  サ)最後の花火に今年もなったな
    何年経っても思い出してしまうな


    ないかな ないよな きっとね いないよな
    会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  C)すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

  サ)最後の花火に今年もなったな
        何年経っても思い出してしまうな


        ないかな ないよな なんてね 思ってた
        まいったな まいったな 話すことに迷うな


        最後の最後の花火が終わったら
        僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 
 前回触れたように『FAB BOOK』では「Aメロとサビはもともとは別の曲としてあったもので、曲作りの試行錯誤の中でその2つが自然と合体していったそうだ」と報告されているが、この2つとは「A・B・Cメロ」系列の曲と「サビ」部分の曲のことであろう。確かに、この2つはかなり異なる雰囲気を持っている。歌詞の内容もかなり異なる。
 「A・B・Cメロ」系列、歌の主体《僕》の《歩行》をモチーフとする系列は、現在を時の枠組みとして、現在の《僕》の想いを中心としているが、「サビ」部分、《最後の花火》の部分は、過去から現在へと至る時の枠組み、《僕》の回想、現在から過去へそして過去から現在へと至る《僕》の想いを中心としている。

 また、『FAB BOOK』の「最終段階までサビから始まる形になっていた構成を志村の意向で変更したもの」という説明から考えると、最終以前の段階では、「最後の花火に今年もなったな」あるいは「ないかな ないよな きっとね いないよな」から歌い出されていたと想定できる。
 「最後の花火」から始まるとしたら、聴き手は、いわゆる「花火物」と受け取ってしまうかもしれない。夏の花火の季節の出会いと別れというテーマは定型的なものであり、そのような歌は数多くある。聴き手はこれから展開される物語をある程度予想してしまうだろう。
 それに比べて、「ないかな ないよな きっとね いないよな」から歌い出される場合は、「ない」の連続の響きと「ない」対象を明示しない表現の巧みさが、聴き手に物語の展開を読み切れないような効果を与えるかもしれない。それでも、続く「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」から、物語の予想が始まってしまうだろうが。

 最終段階つまり現在の『若者のすべて』では、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」と歌い出される。この言葉からは、その次の展開が容易には予想できない。この一節は、物語というよりもそれを語る主体のあり方そのものを語っている。物語の端緒であり、物語の枠組みもそれとなく示している。
 まだ歌い始めの段階では、歌の主体は《僕》と名付けられてもいない。ある主体が、季節の変化を「テレビ」からの伝聞で聞きながら、同時に、「街」のざわめきも聞き取っている。この定型を離れた表現から、物語が語り出される。幾分かの謎と予感のようなものを持って、聴き手は物語の枠組みの中に入り込んでいく。『FAB BOOK』では「その変更の理由を『この曲には”物語”が必要だと思った』と、志村は解説する」と記載されているが、聴き手はその変更を了解できるだろう。

 志村正彦は、落ち着いた抑制した声と幾分かゆっくりしたテンポで歌い出す。一語一語、一音一音聴きとりやすい、言葉の譜割が的確で、自然な日本語の響きを持った美しい繊細な声が、『若者のすべて』の全編を貫いている。
 彼は、よく言われるように、ライブなどで音程が不安定な時もあり、「歌唱力」という尺度では評価が高くはないのだろうが、言葉を、その意味と響きを聴き手に伝えるという、「歌そのものの表現力・伝達力」という尺度からすると、かなり上手な歌い手だったのではないだろうか。

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