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2013年6月7日金曜日

時間 (志村正彦LN 32)

   志村正彦の生と死をどのように受けとめるのか、そして私たちの生と死をどのように考えるべきなのか、そのような問いに対して、メレンゲとGREAT3は、各々の新作や今回の新宿ロフトライブで、作品や演奏を通じて、私たち聴き手に応えてくれた。
 2012年にリリースされた各々の新アルバム『ミュージックシーン』と『GREAT3』の冒頭曲には、次の一節がある。

  時間はどれくらいあるかい  長いのかい 短いのかい
 本当に君はいないのかい  まだ まだ まだ
  【メレンゲ『ミュージックシーン』(作詞・作曲クボケンジ)』

 残されている 時間はきっと 思うよりも無い
 誰が次の名前なのか 神のみぞ知る
  【GREAT3『TAXI』( 作詞・片寄明人 作曲・片寄明人,白根賢一,Jan)】

 クボケンジと片寄明人の両者に共通している切迫した想い、一種の強迫観念のように去来するものは、《時間》である。
 30歳代半ばのクボは「時間はどれくらいあるかい」という問いかけ、40歳代半ばに達した片寄は「残されている 時間はきっと 思うよりも無い」という断言に近い言い回し、という差異はあるが。このような主題がロックで歌われるのはやはり極めて珍しいことだろう。

 自分自身を振り返っても、ごく若い頃は、時間というものがこちら側から向こう側へとはるかに広がってゆくもの、という果てしなさがあった。しかし、人生の年齢の折り返し点を過ぎた頃からは、むしろ、向こう側からこちら側へと降りたってくるもののように感じ始めた。日々こちら側へ時間は降りてくるのだが、時間の器は有限で、いつか尽きてしまう。そのような《時間》の意識がいつもどこかに張り付いている。

 志村正彦の日記や作品からの印象では、クボケンジや片寄明人が今回の作品で描いたような、「残されている生の時間」というような切迫した意識、強迫観念のようにこびりつくものが彼にあった、とは考えられない。しかし、作品を作らねばならない、それも、より独創的なものを作り続けねばならない、という幾分か強迫的な衝動はあったかもしれない。彼が時にもらした不安もそのことに起因しているのではないだろうか。

 志村にとって、歌を創るための時間を確保し、それに集中することが何よりも切実な課題であった。生きる「実」の時間よりも、歌を作る「虚」の時間の方が重要であった。この一種の転倒は、優れた作品を創造する表現者の本質のようなものだが、彼はその本質を生きぬいた。志村正彦にとって時間は、そのように流れていた。

 5月23日、新宿ロフトで繰りひろげられた、メレンゲとGREAT3のライブ。彼らの力強い演奏、哀しみや様々な葛藤の末に生みだされた言葉が記憶に刻まれた。このライブを実現させた企画担当者の真摯な想いも伝わってきた。
 不在の志村正彦が彼らに、歌い続ける力、何かをなし続ける力を与えている、そのように感じることのできる「有難き」時間を経験した夜であった。

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