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2013年6月23日日曜日

ファブリックとしての『若者のすべて』-『若者のすべて』1 (志村正彦LN 34)

  『若者のすべて』を初めて聴いた時、歌われている世界にすんなりと入っていけなかった記憶がある。歌の世界をたどりきれないような、もどかしい想いにとらわれた。きわめて微妙で複雑な物語がそこにあるような気がした。そのような印象の原因はどこにあるのか。その解析から、『若者のすべて』論を歩み始めたい。

 この歌は、志村正彦の歌によくあるように、《歩行》の感覚とともに進んでいく。再引用になるが、「志村正彦LN2」では次のように書いた。

 「若者のすべて」の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られる、とひとまずは言えるだろう。

 あらゆる物語には、それが歌として語られるものであっても、物語を語る話者による時間と空間と主体の枠組み、「いつどこでだれが」という枠組みがある。『若者のすべて』には、語りの現時点である「今」という時に、都市の街路という場で、主体《僕》が歩いていく、という枠組みを認めることができる。

 その歩行という枠組みに、幾つかのモチーフが絡まってくる。その中でも、「最後の花火に今年もなったな」と語り出される「最後の花火」のモチーフは、《僕》による説明やそこに至る文脈がないまま、唐突に物語の中に登場する。この部分は特に、意味の把握しにくい言葉で描かれてもいる。
 歩行する《僕》に交錯するかのように、楽曲の面でも、印象深いサビのメロディが使われている。落ち着いた抑制された声でややゆっくりと歌われる歩行の部分に対して、強い対称を成している。「最後の花火」のモチーフは、特に歌の結末部に近づくにつれて、想いを押し出すかのように力強く歌われる。

 『若者のすべて』の中には、歌詞の面でも楽曲の面でも、二つの異なる世界が複合している印象を受ける。そのような印象を持ち続けていたのだが、今回、「若者のすべて」についての発言をたどりなおしたところ、『FAB BOOK』にある興味深いことが書かれていた。
 取材者は、『若者のすべて』が「Aメロとサビはもともとは別の曲としてあったもので、曲作りの試行錯誤の中でその2つが自然と合体していったそうだ」という重要な事実を伝え、さらに「最終段階までサビから始まる形になっていた構成を志村の意向で変更したもの。その変更の理由を「この曲には”物語”が必要だと思った」と、志村は解説する」という経緯を説明した上で、志村正彦の次のコメントを載せている。

ちゃんと筋道を立てないと感動しないなって気づいたんですよね。いきなりサビにいってしまうことにセンチメンタルはないんです。僕はセンチメンタルになりたくて、この曲を作ったんですから。

 つまり、『若者のすべて』は、二つの異なる、「別の曲」、別の世界が(とはいっても、絶対的に異なる世界ではないのだろうが)「自然」に複合されて生まれた作品であるという、ある意味で、驚くべき、しかし感覚としては腑に落ちるような事実が明らかにされている。 ものを創造するときに、ある二つの異なるものを複合させたり、複数のモチーフを合体させたりすることは、意外によくあることだろう。意識的な行為としても、無意識の次元での選択としても、あるいは単なる偶然の結果としても、むしろ普遍的なことである。
 志村正彦は、その上で、「筋道」を立て、「感動」に至る過程を練り上げ、「物語」を創造していった。

 『若者のすべて』の中には、歌詞の面でも楽曲の面でも、二つの異なる世界が複合している。「フジファブリック」という名の「ファブリック」、「織物」という言葉を喩えとして表現してみるならば、『若者のすべて』の物語には、《歩行》の枠組みという「縦糸」に、「最後の花火」を中心とする幾つかのモチーフが「横糸」として織り込まれている、と言えよう。
 しかし、この「縦糸」の枠組みと「横糸」のモチーフ、そして言葉と楽曲の織物は、聴き手がその繊細な世界を時間をかけて丁寧にたどるという主体的な行為によってはじめて読み解かれるものだろう。ただ受け身で聞いているだけでは、『若者のすべて』の物語を歩んでいくことはなかなかできない。冒頭に書いた私の「すんなりと入っていけなかった」という記憶は、そのことに関連している。聴く経験をまだ深めることができなかったからだろう。

 ファブリック、織物としての『若者のすべて』。物語を時系列で描くのではなく、しかも明示的に語っていくのでもなく、その中心にある想いの部分、彼の言う「センチメンタル」な部分を、所々に空白部を入れて、歌詞の世界で展開し、その複雑な構想に併せるように、メロディやリズムとその配置を工夫することで、志村正彦は極めて独創的な歌を造りあげた。書かれた詩では表すことが難しい、歌であることの特性を最大に活かした構造だと考えられる。
 (この項続く)

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