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2013年3月20日水曜日

「複合体」としての歌そして言葉(志村正彦 LN5)

 今回から、『若者のすべて』の歌そのものに焦点を当てていきたい。「志村正彦LN 3」で書いたような、イベントの「場」に立脚して、「偶景」のようなものに触発されながら歌を「語る」のではなく、歌そのものを「論じる」ことに踏み込むことにする。その前に、歌を論じる際の「方法」について述べたい。
 
 志村正彦の創造した作品はすべて、歌われた「歌」である。歌は、歌詞という形に結実した言語記号としての「言葉」の部分、メロディーやリズムなどの純粋な「音」の部分、発声やアクセント、言葉の句切り方や響きを含む「声」の部分、そして歌を歌うパフォーマンスを担う歌い手の「身体」の部分、歌われる「場」そのものなどの、多様な要素から成る「複合体」として存在していると仮に言うことができる.。複合体としての歌は、一つの全体としてあり、それを構成している言葉、音、声、身体、場などの個々の部分に還元することはできない。個々の部分を分析し、個々の側面から歌を照射しても、一つの複合体としての歌を再現することは不可能である。
  
 そのような前提は、歌を論じようとする者にとって困難な壁として立ち塞がる。ただし、高度な水準で言葉、音、声、身体、場などを分析しうる才能であれば、各々の部分を正確に分析し、それらを組み合わせ、立体的な像を形作り、その歌に限りなく近づくことも可能かもしれないが、非才の私には無理なことである。

 そもそも、音楽を奏でたことも学んだこともない私のような者が志村正彦の歌を論じる資格などない。そう考えれば沈黙しかないのだが、沈黙より言葉を紡ぎ出す方をどうしても選びたいという切迫した想いがあるので、わずかばかりではあるが、私が学んできた方法である、詩や物語の枠組やその話法の分析に依拠して、歌の言葉という側面から論を進めさせていただきたい。

 志村正彦の場合、前回述べたように、歌の言葉の組織の仕方の中に空白部がある。歌そのものが、言葉によって、空白部を含む複合体のように構築されている。複合体としての歌の内部に複合体としての言葉がある。だから言葉を中心にして分析していっても、複合体の構造へある程度までたどりつけるかもしれない。そのようなことを漠然と考えたことも理由の一つとしてある。

 難しげな言葉と苦しげな記述が続いているかもしれない。もとより、論を難しくしたいのではない。しかし、志村正彦が造りあげた、極めて高度であり、聴き手に自由に開かれている作品群に接近するには、方法と言葉をある水準まで練り上げていくことがどうしても必要である。この種の言葉には考える機能と伝える機能の二つがある。厳密に考え、わかりやすく伝えること。この二つを共存させられるのかこころもとないが、この「志村正彦ライナーノーツ」と共に、言葉のレッスンに励みたい。

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