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2013年3月7日木曜日

冬の季節の『若者のすべて』 (志村正彦LN 2)

  「夕方5時のチャイム」 のイベントの数日前、『若者のすべて』のビデオクリップをある場所で久しぶりに見ていた。画面には志村正彦の穏やかな表情。彼に向けた視線を少しだけ右に傾けると、奥にある窓の外から12月の富士の山が、唐突に視界に入ってきた。甲府盆地でも、富士吉田に比べるとこじんまりとした姿にはなるが、冬の秀麗な富士が見える。
 
 偶然の構図によって、映像がその周囲の現実の風景と思いがけない合成の像として現れることがある。『若者のすべて』の志村正彦の声の抑制された響きと、モノクロームに近い色調の映像と、富士のやや霞がかった白と灰色のグラデーションが解け合い、あたかも富士の山を背景に志村正彦が歌っているかのような像がもたらされた。偶々現れた光景、いわば「偶景」のようなものが、私の心の中のスクリーンに投射されたのである。

 その瞬間、『若者のすべて』が冬の歌のように感じられた。詩の中の「最後の花火」は「冬の花火」かもしれないという、ありえない想像にとらわれた。冬の花火には、たとえようのない寂しさや儚さもあるのだが、夏の花火にはない、清澄であるがゆえの静けさと透明感、外気の冷たさゆえの光の和やかさや温かさがある。

 「真夏のピークが去った」と詩の一節にあるように、この歌の舞台が夏の終わりであることはまちがいない。「冬の歌」のように感じたというのは、聴き手の恣意的な想像にすぎない。でも、しばらくの間、その空想と戯れたかった。冬の光をまとった「冬の花火」。さらに、非現実的な形容ではあるが、モノクロームのような色調の花火、「色のない花火」、というように、連鎖していった。

 空想の連鎖に終止符を打って、少し考えてみることにした。『若者のすべて』の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られるが、「夕方5時のチャイム」と「街灯の明かりがまた一つ点いて 帰りを急ぐよ」というフレーズが、歌の時の推移の一つの可能性を示している。

 夕方5時、そして街灯の明かりが点き、「帰りを急ぐ」というのは、季節の中では最も冬にふさわしい状況ではないのか。日の短い、すぐに暮れてしまう冬の季節に、私たちはそれぞれの場所に帰りを急ぐ。
 この歌にはもともと多層的な響きがある。『若者のすべて』の「すべて」には、夏も冬も含すべての季節感が込められているのかもしれない。強引な解釈をするつもりはないが、そのような読みを誘発する、言葉の連なりの独特さが志村正彦の歌には存在している。
      
 『若者のすべて』は2007年の11月に発売されている。リリースの順によって偶々そうなったようだが、冬の入り口のような季節にこの歌は世に誕生した。5年前の冬にリリースされたこの歌は、3年前の冬にその作者を失った。そしてこの冬、チャイムにアレンジされて、作者の故郷で奏でられる。冬の季節の『若者のすべて』、そのような想いを心に包み込みながら、富士吉田に出かける日を待つことにした。            

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