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2013年3月18日月曜日

志村正彦の歌の分かりにくさ(志村正彦LN4)

 志村正彦の歌、その言葉の世界には、ある特有の分かりにくさがある。言葉の意味をたどっていっても、その意味がたどりきれない。その言葉が展開される文脈、背景が理解しにくい。歌が繰り広げられる舞台が明瞭でない。通常「僕」「私」という言葉で指示される、歌の話者や歌の世界の中の主人公としての主体の把握が難しい。そのような想いを抱いたことがある聴き手が多いであろう。少なくとも私にとって、彼の歌はそのように存在している。例えば、『桜の季節』はその代表ともいえる歌であろう。

 もともと、歌や詩の言葉には、意味の飛躍があり、文脈も複雑である。隠喩の解釈が難しい場合もある。しかし、志村の場合、隠喩などの表現は比較的少なく、難解で抽象的な言葉もほとんど見あたらない。にも関わらず、歌の言葉全体を通して聴くと、どこかで意味が意味として結実していかないことがある。あるいは複数の意味が考えられ、どれかに決定できないこともある。このことも志村正彦の歌のある種の分かりにくさとなっている。

 しかし、その分かりにくさは、分かることを阻むような、あるいは、分かろうとする者を拒むような、閉じられた狭隘さではなく、歌の構築の仕方が背負わざるを得ないような、不可避のものであり、その分かりにくさは、むしろ、分かろうとする行為や解釈の空白部として、聴き手に開かれている。

 志村正彦の歌の聴き手はそのような空白部に触れることによって、彼の歌の魅力に惹きつけられ、彼の歌と対話することになる。分かりにくさの迷路のようなものをたどっていくうちに、聴き手はやがて、その空白を、自分自身の空白としても感じ、それを重ね合わせることで、聴き手にとっての歌の意味が浮かび上がってくる。

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