2026年1月3日土曜日

破魔弓や山びこつくる子のたむろ 蛇笏


 新年になると想い出す句がある。

  以前、芥川龍之介の〈元日や手を洗ひをる夕ごころ〉について書いたことがあるが、今日は、飯田蛇笏が正月の風景を詠んだ次の句を紹介したい。


  破魔弓や山びこつくる子のたむろ  蛇笏


 蛇笏が「雲母」昭和二年二月号の「山廬近詠」で発表した十三句のうちの二番目の句がである。時節から題材は年末年始に関するものが多い。

 正月。神聖な破魔弓に守られるようにして、子供たちがたむろをつくり、その声が山びことなってこだましている。

 このような山国の情景が伝わってくる。蛇笏の住む村の子供たちの姿を描いたものだろう。そのなかには蛇笏の子どもが含まれているかもしれない。破魔弓は、弓の弦を鳴らす音には邪気を払う力があるという古来の教えから、男の子の健やかな成長と災厄から守るお守りとして、12月中下旬から1月中旬頃まで飾られる。


 飯田蛇笏と芥川龍之介は大正12年から手紙の交流や書籍の贈呈をするようになった。

  龍之介は〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉という句を蛇笏に贈っている。〈春雨〉は冬から春へと移り変わる時期に降る霧雨。春が近づきつつある季節に〈甲斐の山〉には残雪が置かれている。この残雪を置く高峰、峻厳な山には、孤高の存在としての飯田蛇笏が重ね合わされている。蛇笏はおのれのなかに残雪のようなもの、厳しい冬の残像を抱えた孤高の俳人だと龍之介は感じていたのではないか。さらに言うと、龍之介が青年時代からの数回にわたる山梨への旅で実際に見て感銘を受けた甲斐の山々の記憶も刻まれているだろう。

 蛇笏は明治18(1985)年生まれ、龍之介は明治25(1992)年生まれ。七歳ほどの違いがあるが、俳句そして甲斐の山の風景を通して、この二人の間には深い心の交流があった。


 昭和2年4月10日、龍之介は蛇笏に宛てたの書簡で、「破魔弓」の句について〈人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候〉と書いている。

 「破魔弓や」の句からは子供たちの生命力あふれる声が聞こえてくる。新年という新たなものが始まる季節。子供たちの元気な声が山々に反響し、山国の厳しい冬に暖かさや明るさをもたらす。龍之介は子供たちの命の声による〈山びこ〉に〈人に迫るもの〉を感じとったのではないだろうか。

 龍之介が東京と山梨という場の差異を意識して〈東京にゐては到底出來ず〉と率直に述べたのは、青年時代から何度が山梨を訪れ、山梨という場、土地の雰囲気、山々の風景をある程度まで実感として受けとめていたからであろう。〈健羨に堪へず〉は単なる儀礼ではなく、龍之介の本心からの言葉だと思われる。

 筆者は、龍之介の〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉と蛇笏の〈破魔弓や山びこつくる子のたむろ〉との間に、〈山〉を媒介とする交響のようなものを感じる。蛇笏の「山びこ」は龍之介の記憶のなかの〈甲斐の山〉を想起させた。これは無意識の作用かもしれない。


 龍之介は東京と山梨の生活や風景の違いをかなり意識していた。

 大正十五年刊行の『梅・馬・鶯』では七十四の代表句を自ら選んでいる。実はこのなかで都道府県相当の名が句に詠まれているのは、〈木がらしや東京の日のありどころ〉と〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉の二句だけである。この東京と甲斐(山梨)という選択と対比にも龍之介の意図を読みとってしまうのは筆者の考えすぎだろうか。



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