『陽炎』の草稿と完成版を比較すると、〈残像〉部分と〈出来事〉部分との関係性が異なることに気づく。この二つの部分を完成版の歌詞で引用する。
〈残像〉部分
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける
〈出来事〉部分
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける
『陽炎』完成版の〈残像が 胸を締めつける〉〈出来事が 胸を締めつける〉という二つのフレーズは、〈胸を締めつける〉という表現が同一である。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるというニュアンスになるだろう。〈残像〉と〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部が象徴する〈心情〉や〈感情〉に作用していく。
〈残像〉部分では、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛着や愛惜が感じられる。その延長上にある〈出来事〉部分で焦点化される〈無くなったもの〉と〈あの人〉も、喪失感を伴う愛惜の情を読みとることができる。
〈残像〉部分と〈出来事〉部分では共に、〈残像〉と〈出来事〉がもたらす愛惜の情が〈僕〉に迫ってくる。この二つの部分はある種の叙情性を帯びているともいえる。
これに対して『陽炎』草稿では、〈残像が 胸をしめつける〉と〈出来事が 僕をしめつける〉という二つのフレーズは、〈胸をしめつける〉と〈僕を締めつける〉というように、〈胸〉と〈僕〉という明確な対比を成している。その結果、〈残像〉部分と〈出来事〉部分には対比の関係性が強くなる。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるのではなく、〈残像〉と〈出来事〉との間に微妙ではあるがある種の断絶を感じとることもできる。〈僕をしめつける〉にはそのような強い意味作用がある。
〈残像〉部分にある、少年時代のノスタルジアや故郷への愛惜の想いは遠ざかり、その反対に〈出来事〉部分では、〈無くなったもの〉や〈あの人〉に関わる過去の重層的な〈出来事〉が〈僕〉という存在をしめつけるように迫ってくる。〈出来事〉が〈僕〉を圧迫し、拘束する。〈出来事〉は追憶や愛惜の対象というよりも、〈僕〉に対して苦しみをもたらすもの、抗うことのできないものと受けとめることもできる。〈出来事〉は心の傷に触れるような何かかもしれない。
〈出来事〉部分の〈無くなったもの〉〈あの人〉が、どういうものか、どういう人かは歌詞の言葉からは不明である。作者志村にとっては特定のもの特定の人であるのだろうが、志村はそれをあえて語らなかった。むしろ、志村はそれを語ることを避けたのかもしれない。その結果、〈無くなったもの〉〈あの人〉という抽象度の高い表現となった。同じような心的機制が〈僕をしめつける〉という表現に働きかけ、〈胸を締めつける〉への修正となった可能性がある。意識的な判断かもしれないが、むしろ無意識的な選択であろう。精神分析的な観点からは、〈僕をしめつける〉という表現の強さや生々しさを抑圧したとも考えられる。『陽炎』草稿の〈僕〉という字に対する二重の×による抹消は、その抑圧を示している。
しかし、志村が最終的に〈出来事が 僕をしめつける〉ではなく、〈残像が 胸を締めつける〉を完成版の歌詞にした判断は妥当だったと思われる。
志村はおそらく〈僕をしめつける〉が歌詞としては重すぎる意味合いを持つことを意識的そして無意識的に避けたのだろう。ある言葉が突出すると、歌われる世界が破綻してしまうこともある。歌というものは、その歌詞にも楽曲にも調和が求められる。調和とはバランスでありハーモニーである。そして、歌い手と聞き手との間にも調和が形成されるときに、その歌の普遍性は高まる。歌が人々に共有されてゆく。
『陽炎』は日本語ロックとしてきわめて完成度の高い作品である。三回に分けて、『陽炎』草稿には完成版には現れなかった表現を通じて『陽炎』の潜在的なモチーフが刻み込まれていることを論じてきた。
最後に完成した『陽炎』のミュージックビデオを見てみよう。
この映像のなかの特に冒頭の志村の表情には独特の陰影がある。何かに囚われた緊張感がある。『陽炎』草稿の〈僕をしめつける〉という表現は歌詞からは消えてしまったが、この映像で〈出来事が 胸を締めつける〉を歌う志村正彦の声や表情にはそのモチーフの痕跡がある。曲が進行して、最後の最後の〈陽炎が揺れてる〉でそのモチーフが転調し、微かなものかもしれないが、〈僕〉が何かから解放されてゆく。筆者はそのように感じる。根拠はないのだが、そのように考える。
〈残像〉も〈出来事〉も、過去も現在も、喪失も追憶も、愛着も愛惜も、〈陽炎〉も〈僕〉も、すべてが揺れていく。
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