2026年1月25日日曜日

〈僕〉と〈影〉―舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 先日、舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の東京公演を見てきた。  

 原作の村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、脚本高橋亜子、演出・振付フィリップ・ドゥクフレ、主演藤原竜也でホリプロによって舞台化された。


 この日の東京は厳しい寒さが予想されたので、午後1時過ぎに甲府駅を発った。新宿で降りて、SOMPO美術館の開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」を見た。最も好きな画家、中村彝の「頭蓋骨を持てる自画像」と、三十年ぶりほどになるだろうか、再会することができた。佐伯祐三や松本竣介の名作もあった。新宿という場におけるモダンな絵画の歴史を概観できる展覧会だった。

 新宿を後にして池袋に向かった。会場は東京芸術劇場プレイハウス。午後6時半からの開演だった。




 この舞台について語る前にまず、原作について述べたい。

 村上春樹の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1985年6月の刊行だからすでに四十年を超える年月が経つ。僕は刊行直後に読んで感銘を受けた。単行本で六百頁を超える分量、話者兼人物の「私」が語る「ハードボイルド・ワンダーランド」の章と話者兼人物の「僕」が語る「世界の終り」の章が交互に配列され、全四十章で構成されるなど、本格的で実験的な長編小説だった。現在という時代、東京を舞台とする画期的な作品であり、当時はまだ東京で暮らしていたのでこの小説をリアルタイムで愉しんだ。

 「世界の終り」のパートは『文學界』1980年9月号に発表された中編小説『街と、その不確かな壁』が原型となっている。村上はその「世界の終わり」パートに新たに書いた「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを複合させて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を作った。さらに2023年4月、『街と、その不確かな壁』を書き直して第一章にした上で第二章と第三章を新たに書き加えて、長編小説『街とその不確かな壁』を刊行した。

 つまり、《街とその不確かな壁》の物語は、1980年の『街と、その不確かな壁』、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」パート、2023年の『街とその不確かな壁』と三度にわたって書き直され、書き継がれていった。


 《街とその不確かな壁》物語は三つのヴァージョンがあるが、その共通するあらすじについて簡潔に述べたい。

 一人称の話者兼人物である〈僕〉が、現実とは異なる世界、無意識の領域にある世界、高い〈壁〉に囲まれた〈街〉の世界に入り込む。その際に自身の〈影〉が門番によって引き剥がされる。〈影〉は人の〈心〉を表している。

 舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では冒頭近くで、〈門番〉が〈僕〉から〈影〉を切り落とすシーンが演じられた。小説ではそれまでの過程が語られるのだが、舞台では突然の出来事としての演出効果を狙ったのだろう。〈僕〉とその〈影〉の切断からこの舞台は始まる。


 〈壁〉のある〈街〉ので〈僕〉は〈君〉に再会することができた。そして、古い〈夢〉を読みとる〈夢読み〉の仕事に就く。(この〈君〉は、現実世界で〈僕〉がかつて愛していた少女であり、ある時消え去ってしまったが、〈街〉の世界で図書館で働いているという設定。この〈街〉の世界では〈君〉も〈影〉、〈心〉を失っている)

 〈僕〉は〈君〉の〈心〉を取り戻そうとするが、それは極めて難しい。その試みをめぐる〈僕〉と〈君〉の交流が物語の中心軸となる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈君〉が自らの〈心〉、自らの過去を想起する契機となるのは、母親が口ずさんでいた音階のある言葉すなわち歌であった。また、歌は「世界の終り」パートと「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを媒介するものとなる。「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの最後では、〈私〉はボブ・ディランの『激しい雨』を聴きながら深い眠りに入る。

 「世界の終り」パートの最後の場面で〈僕〉の〈影〉は、〈僕〉に対して、一緒に〈街〉から脱出しようと提案する。ここが最後の場面となる。〈僕〉はどうするのか。〈僕〉のこの選択が 《街とその不確かな壁》物語の中心的テーマとなる。

 この結末部は三つの作品で異なる。

 〈僕〉と〈君〉はどうなるのか。〈僕〉はどうすればよいのか。〈僕〉は、〈影〉と一緒に現実世界へ戻るのか、それとも〈君〉と一緒に〈街〉の世界で暮らしていくのか、それとも〈影〉とはいったん離れてから単独で現実世界に回帰するのか。その選択によって物語は変化していく。

      (この項続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿