2026年3月18日水曜日

『街と、その不確かな壁』の〈暗い夢〉-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説6

  前回は、小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」パートの主体〈僕〉と〈君〉(彼女、司書の女性)との関係を追っていった。今回はその「世界の終わり」パートの原形となった1980年発表の中編小説『街と、その不確かな壁』では〈僕〉と〈君〉(彼女、司書の女性)の関係はどうであったかを振り返ってみたい。

 〈僕〉は〈君〉と再び会うために壁に囲まれた街に入り込む。〈君〉は図書館の司書になっていた。〈僕〉は図書館で夢読みの仕事に就く。

 14節の冒頭。〈僕〉は高熱で寝込み〈暗い夢〉を見る。

 その夜、高熱が僕を襲い、それは一週間ものあいだ続いた。熱は僕の体中の皮膚を水泡でおおい、僕の眠りを略い夢で充たした。夢の大半は性交の夢だった。様々な女と僕は交った。顔見知りの女も居れば、全く見知らぬ女も居た。壁の中の街では僕はあらゆる女と交ることが可能だった。

 そして〈僕〉は何度も吐く。熱と悪寒に襲われる。14節の最後で〈僕〉はこう語る。

 雨。どれほど厚い毛布も、どれほど温かなスープも僕の体を暖めてはくれない。そしてどんなに静かでやすらかな眠りも僕の心を癒してはくれない。どれだけの女と交った後で、あの暗い夢は僕の心から離れてくれるのか?

 『街と、その不確かな壁』ではこの〈暗い夢〉に焦点が当てられている。

 16節の冒頭では〈僕〉と〈君〉の転機が訪れる。

 シャッターを閉め切った僕の部屋の暗闇の中でさえ、僕たちは壁の視線を感じつづけた。 毛布の中の君の体は優しく、温かかった。僕は君のやわらかな首筋を愛し、固い乳房を愛し、なめらかな背中を愛し、そして君の全てを愛した。僕はまるで崩れやすい夢を抱くようにそっと、君と交った。そしてそんな夢の香りが僕たちをすっぽりとくるんでいた。あるいはそれが壁を苛立たせていたのかもしれない。

 僕は君を求め、そして君が僕の夢と一体になってくれることを求めた。それ以外に求めるべき何があったろう? 

 〈僕〉は〈君〉と交わり、〈夢〉の香りでくるまれる。〈君〉が〈僕〉の〈夢〉と一体となることを求めた。村上作品の性愛とその夢の原型となる場面である。

 21節から22節にかけて〈僕〉は〈古い夢〉について語る。

 僕は理解できぬままに様々な形と様々な色あいの古い夢の埃を落とし、手のひらで温め、その夢の世界を追いつづけた。そして何ヶ月かのそんな作業の末に、僕は僅かながらも彼らの波調を感じられるようになってきた。彼らは確かに何らかのメッセージを僕に向けて送りつづけているようであった。僕は日を追うごとに彼らの発する声なき叫びを耳もとに感じるようになった。まるで人知れぬ暗い牢獄に閉じ込められた魂の叫びのように、その声なき声は僕の心を揺さぶりつづけた。しかし僕にいったい何をすることができたろう? そのことばの一片をさえ理解することのできぬこの僕に?

 〈僕〉が夢読みを続けていくと、ある日、不思議なことが起きる。

 目をあけた時、部屋は不思議な光に充ちていた。それは信じがたい光景だった。部屋中の数千の古い夢が、あたかも互いに感応しあうかのようにその深い眠りから目覚め、無数の光とともに僕たちに向けてその永遠の想いを語り始めていたのだ。

  全ての〈古い夢〉は目覚めていた。その〈古い夢〉は〈僕たち〉に幻を見せた。奇妙で不気味な兵隊たちが行進していた。その幻は悪夢のようだった。〈僕〉は〈やめてくれ〉と叫ぶ。やがて、〈古い夢〉は光を失い、消えていった。すべてが終わった。

 この〈古い夢〉が消えた後の23節で〈僕〉は〈君〉と出会った当時を思い出す。

 それから何ヶ月も、僕は君のことばかり考えていたような気がするよ。〔……〕そしてそれが何ヶ月か続くうちにね、僕の想いの中で君はなんだか僕にとって生きることの象徴のようなものへと変っていったんだ。あるいは生き続けることのね。僕はそんな夢の中で暮していたんだ。夢を吸い、夢を食べ、夢と共に眠った。

 〈僕〉はこういう〈夢〉の中で生きていた。〈僕〉は〈そんな気持ってわかるかい?〉と問いかけるが、〈君〉は小さく首を振る。〈僕〉はこう考える。

 どんな夢だって、結局は暗い夢だ。もし君がそれを暗い心と呼ぶなら、それは暗い心だ。頭の中でこねあげられて金粉をまぶしたただの泥土だ。そんな夢はおそらく人を何処にも連れていきはしないのだろう。あのたまりに流れ込んだ水のように、行く先のない地下の暗い水脈を永遠に彷徨うだけのことかもしれない

 結局どのような〈夢〉も〈暗い夢〉だ、というのが〈僕〉の苦い認識である。それは〈暗い心〉にもつながる。〈暗い心〉の〈泥土〉に〈金粉〉をまぶせば〈夢〉になるが、このような〈夢〉は人を〈地下の暗い水脈〉で永遠に彷徨わせる。〈僕〉はこう考える。

僕は僕の暗い夢を、それがどんなに暗いものであっても、あそこに置き去りにして生きるわけには行かないんだ。それを切り離してしまった僕は、もう本当の僕じゃないんだ

 〈僕〉が〈暗い夢〉を置き去りにして生きる〈あそこ〉とは、この壁に囲まれた街である。そして、〈僕〉の〈影〉が〈暗い夢〉を引き受けてやがて死んでしまう。〈影〉を分離した〈僕〉は本当の〈僕〉ではないことに気づく。〈僕〉は〈君〉にこう語る。

この街で君とこうして一締に居る限り、僕には他に望むものは何もない。こんな気持になれたのは生まれて初めてだった。何の不安もないし、何のかげりもない。多分永遠にそうなのだろう。でも街の外では今も時間が流れつづけているんだ。獣たちも死ぬし、影も死ぬ。シャツについたソースのしみみたいに、僕の心からどうしてもそれが離れないんだ

 〈僕〉は自らの〈暗い夢〉つまり自分の〈影〉に向き合おうとする。もう一度〈僕〉は〈影〉と一つになろうとする。そして〈影〉と一緒にこの街を出ることを決断する。「さよなら」と〈僕〉は言い、「さよなら」と〈君〉も言い、二人は別れることになる。つまり、1980年の中編小説『街と、その不確かな壁』では、〈僕〉は〈君〉(彼女、司書の女性)と別れて、自分自身の〈影〉と一緒に現実世界へと帰還する。しかし、なぜ〈僕〉が〈君〉と別れて現実へ戻ったのか。作者の村上春樹はその理由を説明してない。この結末の判断は唐突とすら言える。

 〈僕〉は〈君〉に対して抱いた美しい〈夢〉そのものが〈悪い夢〉であったと気づいたからかもしれない。〈僕〉は自らの〈悪い夢〉の中へもう一度、いや何度も入り込まねばならない。そのためには〈僕〉は〈影〉を取り戻し、一人の〈僕〉、単独者としての〈僕〉に戻る必要がある。矛盾する言い方だが、〈僕〉は〈夢〉から〈悪い夢〉へと覚醒しなければならない。


 1985年の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈僕〉は街に残り、〈影〉だけが現実へと戻っていく。〈僕〉は〈君〉(彼女、司書の女性)の〈心〉を取り戻すために生きていく。舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではこの決断が軸となる。


 このように、『街と、その不確かな壁』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には深い断層がある。さらに、2023年の長編小説『街とその不確かな壁』において、1章では〈僕〉は〈君〉との共生を選んで〈街〉に残り〈影〉だけ現実へ戻るが、最後の3章では〈僕〉は〈君〉と別れて単独で現実世界に帰る。〈僕〉は結果として、喪失した〈君〉との再会と街での共生、喪失した〈君〉の再度の喪失と現実への帰還という二つの選択を経験する。〈僕〉の決断は二重化されている。


 〈僕〉の最終的な決断に関しては、1980年の中編小説『街と、その不確かな壁』と1985年の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の差異を、2023年の長編小説『街とその不確かな壁』が統合したと言えよう。

    (この項続く)


0 件のコメント:

コメントを投稿