2026年2月18日水曜日

高橋亜子氏の脚本-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説

 原作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、単行本で618頁の分量の長編小説である。この舞台を見るにあったてまず関心があったのは、この長編小説をどのように脚本化していくのか、ということだった。「世界の終わり」パートと「ハードボイルド・ワンダーランド」パートという二つが独立して交互に進行していく展開をどう構成するのか。この長編小説のたくさんの重要なシーンからどの箇所を選んでいくのか。舞台の演出以前の脚本の段階に興味があった。

 結論から言えば、高橋亜子氏の脚本はこのかなり長い小説を2時間40分ほどの舞台に的確に集約させた。(もちろん、いろいろな脚本の可能性はあるだろうが)。 高橋氏はパンフレットの中で次のように述べている。


 原作では「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」、それぞれの世界が交互に描かれます。脚本化にあたって核となるのは、このパラレルワールドをどう組み立てていくかです。膨大な原作の描写の中から私が抽出したのは"私と"僕”の心が、目の前で起きる出来事と呼応する場面です。”僕”は影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく。一方"私"は原作の猫写によると、ある地点から人生をねじまげるように生きており、心を閉ざした孤独な生活をしている。そんな二人の心が揺れる瞬間、それを辿っていけば、やがて物語の核心にたどり着けるはず。そう思いながらブロットを組み立てて行きました。


 この舞台では、〈僕〉と〈私〉の〈二人の心が揺れる瞬間〉を辿ることで物語の核心にたどり着くという方針が貫かれていた。

 舞台は「世界の終わり」パートから始まった。冒頭で金色に輝く〈一角獣〉が登場して、奇妙な動きを続けていたことがまず目を引いた。いくぶんか不気味であるが、照明の光の効果によって不思議な美しさも感じさせた。さらに、〈門番〉が登場して、〈僕〉(駒木根葵汰/島村龍乃介、私が観劇した回は島村だった)からその〈影〉(宮尾俊太郎)を切り落とす。〈僕〉の〈心〉が文字通り揺さぶられて、本体と影に分裂する。そのシーンがYouTubeの〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 ゲネプロ〉の冒頭にある。その後〈僕〉は図書館で少女(森田望智)に出会うことになる。



 冒頭場面の後で「ハードボイルド・ワンダーランド」パートが始まる。〈私〉(藤原竜也)は、「シャフリング」を開発した博士の孫娘、ピンク色の服を着た女性(富田望生)によって地下にある博士の研究所に連れて行かれる。その後〈私〉は図書館で司書の女性(森田望智、一人二役)に出会うことになる。

 このように、小説の中の重要なシーンが的確に脚本化されて、舞台で演出されていた。


 先ほどの引用で高橋氏は、原作「世界の終わり」パートの〈僕〉は〈影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく〉、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの〈私〉は〈ある地点〉から〈心を閉ざした孤独な生活をしている〉と延べている。この〈ある地点〉での出来事が重要なのだが、原作でも舞台でも明示されることはない。「ハードボイルド・ワンダーランド」パートでは全く語られることがなく、「世界の終わり」パートでは記憶の彼方におぼろげに示されるだけである。

 小説の「世界の終わり」パートの〈僕〉は、〈どうして僕が古い世界を捨ててこの世界の終りにやってこなくてはならなかったのか、僕にはその経緯や意味や目的をどうしても思いだすことはできなかった。何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ〉と語る。〈僕〉と図書館の女性〈君〉がかつての記憶を取り戻そうとする過程が中心的なモチーフとなる。この記憶そのものが〈僕〉にとっての、そして〈私〉にとっても〈ある地点〉に相当するだろう。

 これに対して中編小説『街と、その不確かな壁』では、この〈ある地点〉は、〈僕〉が〈十八歳の夏〉の時に〈川縁の草の上〉で〈君〉が〈本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中〉と言う地点に該当する。(なお、長編小説『街とその不確かな壁』では〈十七歳〉であり、人称代名詞も〈ぼく〉と〈きみ〉という表記に変わっている)

 その後〈君〉は〈僕〉の入る世界から消え去ってしまう。『街と、その不確かな壁』『街とその不確かな壁』では〈僕〉はその出来事を覚えていて〈君〉と再開するために〈街〉を訪れようとするのだが、「世界の終わり」パートの〈僕〉はその記憶を失ったままなぜか〈街〉に入り込んでしまう。

 つまり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の小説も舞台も、〈僕〉の過去の出来事、記憶の世界、高橋氏の言う〈あの地点〉が欠落している。これが小説や舞台の理解を困難にしている原因である。もちろん、読者も観劇者もその出来事や記憶をおおよそ想像して、その欠落や不在を補填することはできるとも言えるが、やはり、『街と、その不確かな壁』『街とその不確かな壁』を読んでいなければなかなか難しいかもしれない。

    (この項続く)


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