2015年7月28日火曜日

柴咲コウ『若者のすべて』 [志村正彦LN110]

 柴咲コウと言えば、やはり、女優という印象が強い。プロフィールを確認すると、廣木隆一監督の『東京ゴミ女』が映画初出演のようだ。この映画は2000年製作、かなり前の作品だが、廣木監督作が好きだったので衛星放送で見たことがある。柴咲コウ演じる役の記憶はほとんどなく、新感覚の女性映画だという印象だけが残っている。その後、柴咲コウは人気女優の地位を築いていくのだが、もともとは歌手志望だったようだ。

 その柴咲コウが志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』を歌った。6月発売のカバーアルバム『こううたう』に収録されている。
 このCDは、期間限定で一部のショップで特製のリーフレットが添付され、その中に本人が選曲について語った「こうえらぶ」が掲載されていたようだが、私はそのエディションを購入できなかったので、残念ながら未読である。『若者のすべて』を選んだ理由は分からないのだが、どのような理由であっても、この曲が選ばれたことは素直にうれしい。

 歌そのものを繰り返し聴いてみる。
 志村の《声》の持つ、ある種のやるせなさ、よるべなさのようなものが脱色され、淡い色調の《声》を柴咲はまとう。志村の『若者のすべて』の複雑な陰影に満ちた言葉の世界に対して、言葉そのものは同一ではあるが、柴咲の歌う世界は、女性の男性に対する想いを述べているようにも聞こえてくる。この歌の主体は、歌詞の中の人称としては「僕」であるのだが、柴咲が歌うと、歌の主体が女性であると解釈してもそんなに違和感がない。そのように言葉がたどれる。
 女性が男性主体の歌詞を歌うという、日本のポピュラー音楽にしばしばある、いわゆる「CGP(Cross-Gendered Performance)」、「歌手と歌詞の主体とのジェンダー上の交差(女性歌手が歌う「男うた」等)」ではなく、女性が女性主体の歌詞を歌う、つまり歌詞の主体が女性に変換されている(実際に「僕」という言葉が換えられているわけではないが)ように、私には聞こえてきた。

 特に、「ないかな ないよな きっとね いないよな」の「な」音の響きは、むしろ女性の《声》に合うような気もする。ただし、志村の《声》の響きに比べて、幾分か単調ではあるのだが。
 志村の歌い方は、やはり、「語り」の要素が強いことも再発見する。語りによって、風景がスクリーンに投影され、外へと広がっていく。そのような流れは柴咲の歌にはない。むしろ、言葉は内に向かい、女性の想いという一点に集約されていく。それはそれで、美しく結晶されていて、この曲の数あるカバーの中でも、柴咲コウの『若者のすべて』は聴く価値のある作品となっている。

 以前書いたことだが、志村の歌う『若者のすべて』の季節は、なぜか「冬」のように感じられる。凍てつく風景に「冬の花火」の最後の光が上る。それに対して、柴咲の歌う『若者のすべて』は、当然かもしれないが、「夏」の季節感にあふれている。明るい光にあふれる空と雲の中を、《声》がゆるやかに漂う。そんな情景が浮かぶ。

  カバーされた全15曲中の第1曲目という重要な位置付けであり、「amazon」などのレビューを読むと、このアルバムで『若者のすべて』という歌を知った人も多いようだ。柴咲コウがこの曲を私たちに贈り届けてくれたことはとても有り難い。

 なお、 『若者のすべて』(フジファブリック)のカバー、あるいはフジファブリック『若者のすべて』のカバーというように音楽サイト等で紹介されているが、限定版同封の「こうつづる」というブックレットには、「作詞・作曲:志村正彦 編曲:関口シンゴ」というクレジットが記載されていた。これを見て大いに肯いた。
 フジファブリックの作品であることはもちろんだが、カバーされる場合は、「こうつづる」に記されているように、あくまで、志村正彦作詞作曲の『若者のすべて』のカバー、というように書いてほしい。少なくともそのように作詞作曲者名を補ってほしい。志村作品を愛する者の一人として、これは譲れない。

2015年7月23日木曜日

『ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~』 [志村正彦LN109] 

 昨日、甲斐市立竜王図書館で開催中の展示「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」を見てきた。甲斐市は十数年前に合併して誕生した市。甲府市の西側に位置する。竜王図書館は私の家からは車で10分ほどのところにあるが、今回初めて訪れた。開架式のスペースが広く、オープンな雰囲気の図書館だった。

 階段を上がり2階の展示ホールへ。宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦のプロフィールと写真のパネル、歌詞のパネルが壁面に飾られている。CDを数枚ずつ入れた展示ケースが二つ。中央の机上に『宮沢和史全歌詞集』『志村正彦詩集』等の著書。感想を記す用紙が置かれていたが、志村正彦についてはメッセージを記入できる特別なノートも用意されていた。
  
 宮沢・藤巻・志村の「歌詞」を紹介する今回の展示は、「歌い手」というよりも「詩人」としての三人に焦点を当てている。図書館らしい視点だが、そのことによって、来館者に彼らの音楽との新たな出会いをつくりだす可能性がある。
 山梨では宮沢和史・THE BOOM、藤巻亮太・レミオロメンの知名度が高く、彼らの代表曲を聴いたことがある人は多いだろうが、彼らの「言葉」をあらためてたどり直すことは「再発見」の経験ともなる。志村正彦・フジファブリックについては、残念なことだが宮沢・藤巻ほどは知られていないので、そのまま「発見」の契機となるだろう。
 そのような展示を甲斐市立竜王図書館が主催したことは大いに評価される。現実の場において何かをなすことはとても大切なことだから。

 ただし、課題もある。歌詞パネルの数が宮沢2点、藤巻3点、志村10点というようにアンバランスなことだ。テーマから考えると、三人の扱いは均等であるべきだろう。(私は志村のファンであるからこそ、なおさらそのように感じた)また、彼らの詩から読みとれる「山梨の風景」について何らかの解説があれば、一般の来館者の関心をより高めることができると思う。甲府の宮沢、御坂の藤巻、吉田の志村という出身地の対比があれば、親しみもわく。

 どのようなイベントにも成果と課題がある。課題については次の機会、あるいは別の機会で向き合えばよい。そのことよりも、一人のロックの聴き手として、今回の試みに踏み出した図書館のスタッフの情熱と勇気をたたえたい。

2015年7月13日月曜日

『路地裏の僕たち上映会』 [志村正彦LN108]

 一昨日の土曜日、7月11日、以前から予定が入っていて、甲府を出発できたのは午後4時を回っていた。「路地裏の僕たち」主催の『フジファブリック Live at 富士五湖文化センター』上映会が富士吉田で行われている。その最後に何とか間に合いたいと車を走らせた。

 夏の観光シーズンを迎えるこの季節、県外ナンバーも多くなり、山梨の幹線道路は混雑する。甲府バイパスから御坂へ進み、河口湖の手前で左折し、3月末開通の「新倉河口湖トンネル」を初めて通る。照明が明るく、道もほぼ直線で、とても通行しやすい。全長2.5キロの長いトンネルだが、少し経つと吉田側の光がかすかに見えてきた。抜けると見覚えのある風景が広がる。志村正彦の生まれ育った場の近くだった。       

 これまでは、甲府から吉田までは必ず河口湖周辺を経由しなくてはならなかったが、今後は、御坂トンネルから下ってそのまま四つほどトンネルを過ぎると吉田にたどりつく。御坂から吉田まで「直結」したような感じだ。甲府と吉田との距離よりがさらに近くなり、時間帯によっては20分ほど短縮されたのではないだろうか。

 新トンネルのおかげで、午後5時過ぎに会場の下吉田第一小学校に到着。茜色の「路地裏の僕たち」Tシャツを着ている方々が忙しそうに動き回っていた。「志村商店」をはじめとする臨時の出店があると知ったので楽しみにしていたのだが、もう店じまいだった。遅く来たのでこれは仕方がない。

 入口には今回制作されたポスターやフライヤーが並んでいた。フジファブリックのCDデザインを数多く担当された柴宮夏希さんの協力があり、「路地裏」らしい雰囲気で味わい深い。グラフィックという点でも、これまでのイベントからさらに進化している。

 体育館に入ると、かなりの人数の熱気があふれる。映像と音響の設備も本格派だ。後方に写真やギターや機材がおぼろげに見える。「飛び箱」や用具らしきものもあったので、ここが小学校の体育館だということを実感した。

 アンコールが始まった。永遠に聴かれ、語り継がれることになるであろう『茜色の夕日』とそのMC。最後の『陽炎』。この二曲に間に合うことができた。

 『陽炎』が今回は特に胸に迫ってきた。
 志村少年が「路地裏の僕」として駆け回った「場」。
 陽炎がそこらじゅうに立つような夏の「時」。

 そのような「場」と「時」を得て、「路地裏の僕たち」の方々そして会場の人々の熱気、迫力のある映像と音響、フジファブリック・メンバーの熱演、志村正彦の「声」、それら全てが溶け合い、下吉田一小の『陽炎』は静かに熱く揺れていた。
 (エンディング近くでギターを激しくかき鳴らす彼。そのシーンが終わると、哀しみにおそわれるのはいつものことなのだが。)

 上映会の終了後、展示コーナーを見た。文字通り、飾りっ気のない展示がこの場にはふさわしい。ゼロ年代を代表するロック音楽家というよりも、「路地裏」の「英雄」としての彼が母校の小学校に還ってきた。この感覚を「路地裏の僕たち」は大事にしているのだろう。

 体育館を出ると、掲示板にクボケンジや片寄明人をはじめとする志村正彦の友人知人のコメントが掲げられていた。2011年の志村展の際に、私の勤務校の生徒たちが授業を通じて書いた文章も再び掲示されていた。
 以前、生徒の文が良かったという感想をよせてくれた地元の方がいらっしゃって、今回も展示することに決めたそうだ。生徒の文が志村正彦ゆかりの人々の文と並んで飾られているのは場違いのような気がして、当事者でもある私は大変恐縮したのだが、このように大切にされているのはとても有り難い。(あの生徒たちも卒業して三年になる。その内の一人は国文科に進み、今年母校に教育実習生として戻ってきた。教職に就くのはなかなか難しい時代だが、彼女が教壇に立ち、いつの日か自らの視点で志村正彦の詩について語ることがあるかもしれないと、勝手に思い描いている。)

 出口付近でチャイムを待っていると、久しぶりにお会いできた大切な方々、昨年の甲府での志村展やフォーラムでお世話になった方々と再会することができた。挨拶の言葉しかかわすことはできなかったけれども、このような機会があるからこそ再び会うことができてとても嬉しかった。

 午後6時、『若者のすべて』のチャイムが鳴りはじめる。小学校横の防災無線スピーカーを皆が見上げている。2012年の暮れ、冬の季節に市民会館前で聞いたときよりも、音が明るくかろやかに響く。この歌はある種の力強さも持っている。「すりむいたまま僕はそっと歩き出して」と歌詞にあるとおり、どのような状況であれ前に歩き出そうと伝えているようだ。夏の季節の始まり、私たちも歩き始めねばならない。       

 主催者と共催者の皆様の自発的な活動に対して敬意を表したい。私も経験者として、準備まで、そして当日の苦労はよく分かる。また、映写技師やプロ機材を使っているので経費もかなりかかったことと思う。彼らは「全国のファンへの恩返し」として企画したと述べているが、私たち各々が自分のやり方で志村正彦を聴き、語り続けることが、彼らへの恩返しとなるのではないか。私もその一人としてこのblogを書き続けていきたい。

 私個人として最も励まされたことを最後にひとつ書かせていただく。
 3回目の上映会の後で、志村正彦の子どもの頃から29歳までの写真の映写があった。その最後に映されたのが「ロックの詩人 志村正彦展」のフライヤー画像だった。事前には全く知らなかったので、とても驚いた。「路地裏の僕たち」の皆様から、昨年7月の甲府展へのエールが送られたような気持ちになった。
 深く、感謝を申し上げます。

2015年7月9日木曜日

去年の7月、今年の7月。 [志村正彦LN107]

 明日は志村正彦の誕生日。彼が元気であれば三十五歳を迎えた日だ。

 昨年7月12,13日開催の「ロックの詩人 志村正彦展」と「フォーラム」は、この時期に合わせて計画された。一年前の今頃は、最後の準備に追われていた。パネルの解説文を時間の許す限り推敲していた。

 思い返すと、私たちの試みがフジファブリックの所属事務所SMAやナタリーのサイトで紹介していただいたのは、全く予想外の出来事だった。そのことには非常に感謝したのだが、反響を呼ぶに従って、予想より大勢の人たちが来場される可能性が出てきた。正直に書くと、そのことがかなりのプレッシャーになった。二日間、私たちがこのイベントを無事コントロールできるのかという不安も生じた。精神的にも時間的にも余裕のない状態だったが、何とか展示の準備を完了することができた。会場での実務の仕事も、友人や協力者、そして会場の係の方に助けられた。無事終了することができた最大の要因は、何よりも来場者の御理解であったと思う。入場までの時間が非常に長くなっても辛抱強く待ち続けていただいた。ほんとうに有り難かった。

 すでに発表があったとおり、7月11日、土曜日に、志村正彦の母校、富士吉田市立下吉田第一小学校の体育館で、彼の同級生グループ「路地裏の僕たち」主催による『フジファブリック Live at 富士五湖文化センターDVD』の無料上映会が開かれる。ゆかりの品も一部展示され、あわせて、12日まで夕方6時のチャイムが「若者のすべて」のメロディに変更されるそうだ。

 「路地裏の僕たち」は、志村の故郷富士吉田で様々なイベントを推進してきた。これまでも、そしてこれからも、志村正彦に関する活動の中心を担う。ゆかりの場所での上映会という今回の企画は「路地裏の僕たち」ならではのアイディアだ。これまでの展示やチャイムに加えて、志村正彦・フジファブリックの音楽そのものを、故郷でのライブを、「映像」という形ではあるが「体験」してもらう会は、新しい試みとしてとても重要なものとなるだろう。

 また、30日まで甲斐市立竜王図書館で、志村正彦、宮沢和史、藤巻亮太の歌詞パネルを展示した「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」が開催されている。まだ見に行ってないのだが、図書館という場所からして、志村正彦の詩集や著書を山梨の人々が知る、良い契機になると思っている。

 昨年の展示やフォーラム、今年の「路地裏の僕たち」主催の上映会や甲斐市立竜王図書館主催の展示。共通するのは、志村正彦の作品を現在の世界に広げ、未来の世界に伝えていくという目的であろう。そのためには、多様な視点や方法があってよいと考えている。
 以前も書いたことだが、富士山の登山ルートには昔のものを含め、幾つものルートがあり、それは全て富士山の頂上を目指している。そのことになぞらえれば、多様性を保ちながら、共通の目標を目指していくのが、志村正彦にふさわしい「歩み」のような気がする。

 去年は間際に台風が到来したが、会期の週末は天気になった。今年も梅雨の長雨が続いたが、今週末は雨もあがるようだ。天気予報士がテレビで良い天気となると言うように祈っている。
 夏の富士に祝福されて、『路地裏の僕たち上映会』は開催されることになるだろう。
 

    週末 雨上がって 街が生まれ変わってく
        紫外線 波になって 街に降り注いでいる
        不安になった僕は君の事を考えている
   
                               ( フジファブリック 『虹』 、 作詞作曲 ・ 志村正彦 )

2015年7月3日金曜日

志村正彦がつなげた偶然-浜野サトル5

 昨日、浜野智氏のサイト「毎日黄昏」(http://onedaywalk.sakura.ne.jp/one/index.html)の7月2日の記事にこう書かれてあった。前回で一休止し再び歩み始めたいと記したが、思いがけない出来事が起こったので、今回はこのことについて「5」として書きたい。現在の氏は「智」と署名されているので、この文では「サトル」ではなく「智」と記させていただく。

 志村正彦というシンガーについてちょっと調べたいことがあって「偶景web」というサイトにたどり着いたときはびっくりした。なぜかといえば、ここには意外にも僕の古い文章についてのあれこれが盛りだくさんに載っていたからだ。

 浜野氏が志村正彦について調べ、この「偶景web」にたどり着く。インターネット特有の遭遇に驚くと共に素直に喜んだ。志村正彦が媒介した「縁」のようなものをとても大切にしたい。

  念のために申し添えると、当然のことではあるが、私は浜野智氏とは一面識もなかった。私は一読者という立場で、彼の著書や、断続的ではあるが、ネットで発表された文を愛読してきた。このwebを始めてからずっと、いつか氏の批評について書きたいと考えていた。私にとって音楽を語る原点として氏の言葉をたどりなおしたかった。二年経ち、ようやくその端緒につくことができた。

 「偶景web」の拙い試みはともかくとして、氏が「志村正彦」を調べているという事実そのものに感激する。理由や経緯は分からないが、志村正彦について関心を持つ。私だけでなく、志村正彦の多くの聴き手にとっても、この出来事は重要なものとなるかもしれない。

 《「偶景web」サイトを見ていて、いろいろなことを思い出した。》と述べられていたが、その契機となったのであれば、今回の試みも意味を持つ。
  「終りなき終り」についての早川義夫の発言、『ボブ・ディラン論集』の件など、一つひとつの挿話が興味深い。早川は浜野に何を語ったのだろうか。70年代初頭、あの渋谷BYGのレコード係として、浜野氏は「はっぴいえんど」や「風都市」の志した日本語ロックの現場近くにいた。
 そして、《「バイオグラフィー=線」ではなく、「一瞬の沸騰=点」をめぐって書きたいと思っていた》という平凡社新書『ボブ・ディラン』の企画。氏にとって第三の批評書、最新のディラン論となるはずのこの書物は、やはり、幻の本になってしまうのだろうか。

 私は何よりも浜野智氏の文体に魅了された。
 「エッジの効いたリズム」のような鋭い硬質な論理、その背後に響くやわらかい感受性の音調。「論理」と「音調」の融合した文体は、「批評」の内部に「歌」(その歌は「歌われない歌」であるのだが)を響かせている。

2015年6月29日月曜日

『ディランにはじまる』-浜野サトル4

 前回紹介した浜野サトル『終わりなき終わり ボブ・ディラン』(『都市音楽ノート』1973年12月10日、而立書房)の最後は、次のように閉じられている。

 だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。

 ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
 
 しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。

 ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。

 著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
 

 最初にディランの歩みをふりかえりたい。

 60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
 この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
 あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。

 次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。

 彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。

 文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
 この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。

  『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)


 この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。

 ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。

 73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
 「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。


[付記]

 四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
 浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
 その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
 そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。

2015年6月21日日曜日

『終わりなき終わり ボブ・ディラン』-浜野サトル3

 二回続けて、浜野サトルの四十年前ほどの批評をこの《偶景web》で紹介したことは、やや唐突に感じられたかもしれない。
 これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。

 ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
 また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。

 浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。

 『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
 (私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)

 彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。

 フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。

 彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
 しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。

『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。

 60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。

 なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。

 70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
 

   (この項続く)

2015年6月10日水曜日

『ポールサイモン パッケージされた少年時代』-浜野サトル2

 前回も今回も、画像は雑誌を机に載せて、そのまま小さなデジカメで撮った。すぐにデータをアップロードして本文に添付。ほんの数分間の作業だ。(昔、展示や図録の仕事のために書籍や雑誌を時々複写していた。専用の複写台と照明を使い、資料を無反射のガラスにはさんで撮影した。今はそのような器具がないので、歪んで不鮮明な画像になってしまった。お許しいただきたい。)

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号に戻ろう。
 雑誌をめくると、48頁から53頁まで6頁にわたり、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』が掲載されている。
 その後、この批評は彼の二冊目の著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)に収録されている。(書籍の方は古書を検索すれば見つかるかもしれない。また、大きな図書館なら所蔵されているかもしれない)

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号、48頁

 この魅力的で優れた批評は次のように語り出される。

 べつだんフジクロームでも他の何であってもいっこうにかまわないのだが、とりあえずはコダクロームにしておくとして、このひとまきのスライド用カラーフィルムという、あきらかに工業文明の申し子である、考えてみればとても奇妙な物体から、人はどのような実感をくみとりう るだろうか。

 浜野サトルの批評は、ある具体的な「問いかけ」から始まる。
 直接、ポール・サイモンと『僕のコダクローム』に向き合う前に、歌のモチーフとなった「カラーフィルム」という「奇妙な物体」からくみとる「実感」を自らに問いかける。
                                        
 続く箇所では、「まず、ぼくの場合なら」とことわり、「黄色の小箱があたりにただよわせている、一種独特の感触」にひかれると述べる。その上で、「中身のフィルムがひらきうるファンタスティックな虚構の世界」と「消費のための産物」である現実的な商品という二つの世界を対比させる。
 ここまでの分析であれば、虚構世界と商品世界という二重性の指摘で終わる。しかし彼はさらに論を進め、「ひとまきのコダクロームは、またそれ以上の何ごとかを、伝達してくれているようだ」と語る。カメラという近代のメカニズムによる表現を通して「人は、何か抽象的なことではなく、この世に存在する具体的なものへの関心を新たにしうるのだ」ということが漠然と伝わる、と述べている。

 第二章の冒頭で初めて『僕のコダクローム』の歌詞四行が引用され、サウンドについても言及される。

 だが、サウンドの魅力に強くひかれたからには、何がうたわれているのかぐらいは、ぜひとも知っておきたい。そこでは、歌としての高い完成度のなかで、サウンドのもつ抽象化されたメッセージと言葉のもつより具体性を帯びたメッセージとがたがいに拮抗し合っているにちがいないのだから。

 ここでは、ポール・サイモンの聴き手や『ニューミュージック・マガジン』の読者に(つまりあの当時の私たちに)に、説得力ある言葉でさりげなく、「何がうたわれているのか」を知ることを諭しているようでもある。サウンドの抽象性と歌詞の言葉の具体性の関係という問題意識は、浜野の「歌」についての批評に通底するものであった。

 序章から続く「コダクローム」をモチーフとする「問いかけ」は、次のような「応答」を生み出す。(新たな「問いかけ」でもあるのだが)

 全体的な明るさのなかに、いや明るいからこそ、いまこの時代に自分の言葉というものはどこにもなく、だからこそコダクロームのようなものがとりあえずどこにもない言葉の代用でありうるのだという、いくぶんかはペシミスティックな意思が聴きとれるのではないか。

 浜野の批評は単なる感想や解釈では終わらない。表現主体とその客体、表現者と受容者およびその場の問題というように、「歌」をめぐる関係性を分析し、立体的に描くところに特色がある。
 この『ポールサイモン パッケージされた少年時代』では、まずはじめに、表現主体と写真による表現をより一般的な観点で考察し、それから個別的な『僕のコダクローム』という歌について、具体的な「言葉」を引用し、表現主体、歌の主体であるポール・サイモンと、表現の客体、歌のモチーフでもある「コダクローム」の関係の分析へ進んでいく。そのような過程を経て、「コダクローム」という表現の媒体が、この時代に「どこにもない言葉」の「代用」でありうるという認識に至っている。さらにこの歌から、幾分か「ペシミスティックな意思」を奏でるような音調も聴きとっている。

 もちろん、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』は、まぎれもなく「言葉」で描かれ、「歌」で歌われている。受容者・聴き手である浜野サトルもまた「言葉」で論じている。
 表現者・歌い手の歌う意志、言葉への欲望。受容者・聴き手の聴く意志、言葉への欲望。その二つが中心となり、楕円をなす場に、この時代の「歌」が成立している。

 浜野サトルの批評にはたえず、この時代の「歌」、「言葉」とはどのようなものであるのか、ありうるのか、あるべきなのか、という「問いかけ」がある。このような真摯な「問いかけ」は、しかも彼のような言葉と論理の水準で語られることは、当時のロック批評には無かった。

         (この項続く)

2015年6月6日土曜日

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号-浜野サトル1

 
 音楽との出会いが記されることはあっても、音楽を語る言葉との出会いが書き記されることは少ない。
 この場合の「音楽を語る言葉」とは身近な誰かの言葉でも、音楽家の言葉であってもいいのだが、私がこれから書こうとするのは、ある批評家の言葉との出会いである。

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号。
 高校に入る年の春だった。甲府の老舗の本屋でこの号を手に入れて愛読した。デジカメで撮影するために書棚から久しぶりに取り出すと、それなりに日を浴びて、紙質も劣化していた。四十年を超える時が積み重なっている。


『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号 表紙画・矢吹申彦


  表紙はポール・サイモン。濃いグレーの背景から少し浮き上がる彼の肖像画。彼の左眼の直ぐ下から鼻や口を覆うようにして、コダクロームの黄色いパッケージが佇んでいる。ポール・サイモンからコダクロームが浮き上がってくるようにも、コダクロームがポール・サイモンを促して、ある風景を描こうとしているようにも見える。

 この表紙はもちろん、ポール・サイモンの1973年のヒット曲『僕のコダクローム』(原題Kodachrome)をモチーフにしている。描いたのは矢吹申彦。『ニューミュージック・マガジン』の69年4月の創刊号から76年3月号の表紙絵・ADを担当していた。

 矢吹の描いたコダクロームは独特の存在感を漂わせている。(この雑誌には「表紙のメモ」の頁があり、コダクロームについて「リアルに!!」、ポール・サイモンについて「今回は髭アリ」などという愉快な言葉が添えられている。)
 「人」と「物」、人とフィルムという記録媒体。この二つの間の静かな「対話」の跡が漂ってくる。しかし、「人」と「物」の重なり合いの構図から、この二つの間の微妙な断層、一種の距離のようなものが描かれているようにも感じられる。

 表紙をめくると、キョードー東京の広告。ポール・サイモン《初来日》、4月9,10日の日本武道館でのコンサートの文字。(「売り切れ近し」の字もある)70年代の前半、ポール・サイモンの人気は日本でも高かった。(それでも、サイモン&ガーファンクルには及ばなかったが)来日に合わせてこの表紙が企画されたのだろう。

 この号に、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』という批評が掲載されている。矢吹申彦の素晴らしい表紙画と浜野サトルの優れた言葉が合奏し、奥行きのあるハーモニーを奏でている。
 『ニューミュージック・マガジン』この音楽誌が輝いていたのはやはり、この時代、69年から70年代半ばの頃だ。矢吹による音楽家の肖像画が表紙を飾り、浜野による批評が誌面に時々掲載された時代に重なる。

 すでに中学生の頃から洋楽のロックを中心に聴いていた。誰もがそうするように、気に入った音楽を友達に語ったり、ラジオ番組のリクエスト葉書を書いたりしていた。未熟なものだったが、音楽だけでなく音楽を語ることにも、楽しさと面白さがあるように感じていた。そのような時を経て、浜野サトルの文章に出会った。彼の批評は、その頃から少しずつ読み始めていた文学や思想の本と同じ水準にあると思われた。ロック音楽を語ることの地平が大きく開かれていくように感じた。

 私と同世代以上のロックやジャズファン、特に『ニューミュージック・マガジン』の読者であった人の中には、彼の名を記憶している方も多いだろう。『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)、『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の著書2冊がある。(ミステリー小説の翻訳や音楽書の編集でも知られる)しかし、およそ80年代以降、音楽メディアの表の場に登場することが少なくなったこともあり、若い音楽ファンにはあまり知られていない存在だろう。

 彼の仕事については私のような一読者より、著名な音楽評論家である北中正和の言葉を紹介したい。(「追憶・松平維秋-4インターネットの窓から」http://www.geocities.co.jp/Bookend/3201/M_SITE/TSUITO/KITANAKA.html ここでは「浜野智」と記されているが、おそらく彼の本名なのだろう。最近はこの「浜野智」名で書いているようだ)


浜野さんはぼくと同世代で、1960年代末からジャズやロックの評論に筆をふるっていて、そのころポピュラー音楽について彼ほど切れ味鋭い評論を書いている人は誰もいなかった。


 あの時代、浜野サトルの「切れ味鋭い評論」は、彼の愛用した語を使うのなら、「単独者」の批評=危機の意識から発せられた「問いかけ」だった。
 彼の批評は、ひとつの「問いかけ」から始まり、もうひとつの「問いかけ」で終わろうとする。「問いかけ」へのとりあえずの「応答」が果たされることもあるが、その「問いかけ」は読者に働きかけ続ける。

 次回は、『ポールサイモン パッケージされた少年時代』の言葉そのものを読み返してみたい。
 

   (この項続く)

2015年5月31日日曜日

キングサリの時間

 
 四月末のことになる。キングサリの花がようやく咲きはじめた。

 二年前の春、園芸店で探し、小さな苗木を見つけた。家人が鉢植えでしばらく育てたが、一度枯れそうになって、庭に植え替えた。一年すると枝は育っていったが、花を咲かせることはなかった。いつか咲くのか、それとも、一度枯れそうになってしまったので咲くことはないのか。待ち遠しいような、心配のような、幾分か諦めも混じる気持ちで、時折眺めていた。

 春の始まりの頃、葉に勢いがあるのに気づいた。今年はもしかするとと期待していると、四月の中旬頃から徐々に、蕾がふくらみはじめた。蕾そのものが花として開かれるのを待つ。それを眺めている私たちも待つ。

 一週間程経って、黄色い、可憐で小さい花々が咲きはじめた。
 蝶々のような形状の花弁。一つ一つは小さいが、それが集まり、たくさんの束となって黄色い鎖をつくる。朝の日差しをあびて、房のようにたわわになり、地面の方へ垂れさがる姿。視覚だけでなく、聴覚も刺激される。打楽器の小刻みなやわらかい音のように、黄色の花の粒々が戯れている。


朝のキングサリ


 亡き父が好きな花だった。庭木として植えられていたが、三年前、庭を作り直す必要に迫られた際、大きくなりすぎて植え替えるのも難しいゆえ、しかたなく伐採した。その代わりに、新しい苗木を植えて、時を待った。今年、キングサリの花に再会することができた。年を超える時の中で花を待つ、という初めての経験をした。

 調べると、キングサリの花言葉は「哀愁の美」、「儚い美」「淋しい美」、「哀調を持った美しさ」らしい。

 朝日をあびるキングサリの黄色は明るい華やかな美にあふれている。夕方になり、周囲の色合いが落ちついてくると、そこはかとなく、黄色が沈んでくる。花言葉のように、幾分か、儚いような淋しいような色調に見えてくる。夕方のキングサリは、自らの花の房の量感をもてあましながら、とりとめもなく、想いにふけっているようだ。朝と異なり、弦楽器の奏でるメロディ、「哀調」を帯びてはいるが、起伏の少ない抑制のとれた旋律がふさわしい。


   どうしたものか 部屋の窓ごしに

   つぼみ開こうか迷う花 見ていた     (志村正彦作詞作曲 『花』)

 
 志村正彦、フジファブリックの『花』をこのところ最もよく聴いている。

 「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」。この眼差しが志村正彦そのものである。そして、「つぼみ開こうか迷う」というのは彼でしか成しえない表現であろう。

 彼がこのとき見ていた花が何の花か、路地の花か鉢植えの花か、何もかも分からない。彼の心のありかも分からない。
 しかし、彼が、「つぼみ開こうか迷う」花の時間、蕾から開花へと至る時間そのものを慈しんでいることだけは分かるような気がする。ほんとうは分かってはいけないのかもしれないが、分かりたいという心持ちになる。

2015年5月28日木曜日

「がんばる甲州人」のオープニング映像 [志村正彦LN106]

 二週間ほど前になるだろうか。NHK甲府、夜6時台のローカルニュース「まるごと山梨」を見ていた。偶々、火曜日だった。この曜日には時々、「がんばる甲州人」(一昨年の夏、志村正彦を取りあげたことがある)シリーズが放送される。そんなことをぼんやりと意識していたところ、オープニング映像が始まった。

 記憶にある以前のものとは違っていたので画面に視線が止まった。4月からキャスターも交代したので新しいものに変わったのだろうか。過去に取材した素材をつなぎ合わせたタイトルバックの映像がメロディと共に終わろうとする頃、一瞬、志村正彦が歌う映像が流れた。驚いた。彼の像が消えると共に、「がんばる甲州人」のタイトル文字が浮かび上がった。

 一昨日の火曜日、「がんばる甲州人」の放送が予告されていたので、確認するために録画しておいた。やはり、志村正彦の歌う姿がテレビ画面に一瞬(というか、一瞬にもう一瞬を重ねたくらいの間だったが)ではあるが映し出されていた。あの特徴あるシャツは、富士吉田ライブでのものだろう。

 フジファブリックの富士吉田市民会館のライブ素材を使ってオープニング映像が作成された。しかも、「がんばる甲州人」の代表としての扱いだ。事態がそのように了解できた。彼はもちろん、「甲州人」などという狭い枠組みに収まるはずもない存在なのだのが、それでも、こうして地元番組に繰り返し登場するのは、一人のファンとして、とても嬉しい。

 彼の名は示されてはいない。視聴者の大半は、この歌う若者が誰であるのかは知らないだろう。(残念ながら、山梨では彼の知名度はそう高くない。辛うじて名は知っていても、名と顔が結びつく人は少ないだろう)
 それでもいい。 「志村正彦」という固有名を離れても、彼の像がこのようにして茶の間の人々の「まなざし」に届いている。有り難い。
 その出来事、その偶景から、一瞬の、ほのかなものではあるが、何か力のようなものが与えられた。

 一昨日は偶然、『郡内織の傘にかける』というテーマ。郡内織というのは富士吉田や西桂町を中心とする郡内地域の織物を指す。その若き経営者、がんばる甲州人を取材した番組だった。地場の産業にとっては厳しい時代だが、郡内織の歴史が途絶えることのないように頑張っている方々がいる。心から声援を送りたい。(私も最近は、「ふじやま織」のロゴのネクタイ、赤と銀の格子模様、青色の縦線のグラデーション、その二本がとても気に入っている。色合と柄が微妙に和風で微妙にモダン、生地も軽やかなのがいい。)

 志村正彦の映像がいつまで使われるのかは分からない。このところは隔週で放送されているようだが、NHK甲府火曜日の「がんばる甲州人」をこれから注意して見てみたい。


[付記]
この記事は当初は[偶景]シリーズに分類しましたが、その内容から、[志村正彦LN106]に変更させていただきました。

2015年5月24日日曜日

二年の月日を超えて [諸記]

 
  「志村正彦ライナーノーツ[LN]」は、十回に及ぶ武道館ライブのエッセイの連載中に百回を超えた。2012年3月から今日までおよそ二年の間にこの回数となり、ページビューも十万回に達することができた。
 もともと志村正彦を巡る出来事、ある種の《偶景》を契機に書き始めることになった。出来事で区切るのなら、2012年12月の富士吉田での同級生による志村正彦展と『若者のすべて』チャイムから、2014年11月のフジファブリック武道館ライブまでの二年間となる。その間、2013年の夏の『茜色の夕日』チャイムやそれを巡るNHKの番組、2014年夏の甲府での志村正彦展もあった。
 この二年という時間は非常に濃縮されたものであり、それらの経験を通じて感じたこと考えたことがこのblogの原動力となった。
 そのような凝縮された「季節」もある転機を迎えているような気が今している。


 武道館ライブをめぐる批評、「声」から描きだされ、「月」で閉じられたエッセイの歩みは、志村正彦は彼の遺した音源の中に「作品」として存在している、という当然で自然であり、自明で明確な地平に辿りついた。だからこそ、今後は、音源の声と言葉にさらに焦点を当てて、読むこと、聴くことを深めていきたい。
 「志村正彦LN」は、 漠然とではあるが、少なくともあと二百回ほどは書くべきことがある予感がしている。その航路もほのかには見えている。時間との闘いになるが、これからも書き続けていきたい。

 最近は掲載の間隔が以前より空いてしまっている。納得のいくものとなるまで(とりあえずの納得ではあるのだが)、非才ゆえに時間がかかってしまう。武道館ライブについて断続的だが半年を要した。この間、少しだけでも記しておきたい他の事柄があったが、時機を逸してしまった。遡って書くこともできるのではあるが、逸してしまったものをどうするかという課題が浮上してきた。
 その解決策として、これからは、断片的なもの、相対的に短いものも、随時、書きとめていくようにしたい。「私」を一つの「まなざし」として設定し、その「私」の前で通り過ぎていくいくものを「声」として語る短い文となるだろう。《偶景》スタイルの短文エッセイ。ある意味では「twitter」に近いものかもしれないが、字数はより長いものとならざるをえない。

 このblogは今後、二つの様式のテクスト、「志村正彦LN」を中心とする批評的エッセイ(その全体としても部分としても「連載」となる)と、《偶景》風の短文エッセイとを、ファブリックのように織り交ぜて進んでいく。対象となる作品や出来事、テーマやモチーフもより多様なものとなるだろう。