2020年4月12日日曜日

フジファブリック『桜の季節』[S/R001]

 「コロナ危機」への対策として、勤務先の山梨英和大学は「緊急クローズ」宣言を出した。学生・関係者の来校が原則禁止。教職員の自宅研修・自宅勤務も始まっている。今、五月以降の遠隔授業の準備に追われている。

 この危機の中で自宅勤務となった方はまだ幸せだろう。通勤して勤めざるをえない方の感染への不安、仕事を奪われて自宅に留まざるをえない方、住む場所がない方の不安と窮乏を思うと、心が痛む。言葉にはどうしても現実との隔たりがある。書くことには距離がある。軽さも伴う。なんともいえない気分になるが、僕にできることはこのblogを続けることしかないので、その原点を確認して歩みを進めたい。

 以前から考えていたことを始めたい。ロックを聴き始めてからもう四十数年の歳月が経った。その間に聴いてきた数々の名曲がある。中にはもう忘れられてしまったような作品もある。また、比較的最近聞いてとても気に入った曲もある。
 このような状況下だからこそ、ネットの映像や音源を活用して、それらの名曲を紹介したい。説明はあまりしないで歌詞を載せるというスタイルでいきたい。

 シリーズ名は「Songs to Remember」の略記[S/R]にした。この名は、Scritti Politti スクリッティ・ポリッティの1982年のアルバム『Songs to Remember』から取った。学生の頃愛聴していたアルバムだ。 "Jacques Derrida" という歌もあって、愉快でラディカルな作品だった。

 一曲目は何にしようと数日考えていた。[S/R]は邦楽、洋楽を問わず、時代もジャンルも関係なく取り上げていく。それでもこの季節にやはり思い浮かんだのは、2004年4月14日リリースのフジファブリック『桜の季節』だ。16年前の曲になる。

 今年の春は、桜を見ることもなく、桜が過ぎ去っていった。日常の風景が少し異なって見えてきた。
 志村正彦は、「ならば愛をこめて/手紙をしたためよう」と歌っている。この「ならば」の前に挿まれる仮定の言葉は無限にあるのだろう。




 フジファブリック 『桜の季節』 
  (作詞・作曲:志村正彦)


  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない



2020年4月5日日曜日

隔たりのある笑い

 前回、志村けんの姓「志村」について述べた。今回は志村けんの「芸」について触れたい。とは言ってもそのことを書ける知識も見識もないので。この間に読んで教えられることが多かった二つの記事を紹介したい。

  西条昇氏(フリーの放送作家、お笑い評論家を経て、現在は江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)は、『普遍的笑い、比類なき観察眼で 志村けんさんを悼む』(朝日新聞2020.4.1)という追悼文で次のように書いている。


 私が20代の時、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家を1年だけ担当しました。テレビで見るのとは全く違う、志村さんの笑いへの厳しい姿勢にとにかく驚きました。

 私たちが出したコント案が加藤茶さん、志村さんに次々に却下され、ゼロから考え直すことは日常茶飯事です。たばこの煙がモクモクとする会議室で、数時間も机に突っ伏しながらネタを考えます。志村さんは物静かに考えられていました。そんな中でアイデアの出発点となるのが、加藤さんと志村さんが「あの映画のこの場面が面白かった」と何げなくつぶやく一言でした。

 加藤さんもたくさんの映画を見られていましたが、志村さんの勉強量はすさまじかった。まだ日本で発売されていない海外のコント番組のビデオを輸入業者を通じて取り寄せておられました。自宅にはコメディー映画のビデオも大量にあり、早送りで見ながら面白い所だけ通常再生して確認すると伺ったこともあります。テレビ画面上では飲み屋の延長のようなノリで振る舞っておられましたが、志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出されたものなのです。


 「志村さんの勉強量はすさまじかった」「志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出され」ということを知ると、もう一人の「志村」のことを思いだざずにはいられない。あたりまえのことだが、この勉強量や知識量は表には出てこない。表に出てきたのでは「笑い」も「音楽」も「芸」として成立しないからだ。そのことはしかし、あまり省みられない。


 話題作『ポスト・サブカル 焼け跡派』の著者「TVOD」の一人であるコメカ氏は、『たけしと何が違うのか――コントで勝負した志村けんは、最後の世代の「喜劇人」だった』(文春オンライン)で、ビートたけしと対比しながらこう述べている。


 インターネット以降の世界では、芸人もミュージシャンも作家もみな生身の人間であることをわたしたちは実感として知っている。だが、70~80年代にテレビで活躍しその存在を確固たるものにした志村けんというキャラクターは、その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアンの、最後の一人だったのではないだろうか。

 だから私たちは、そういう平板な(これは揶揄ではない)キャラクターが消失してしまったことを上手くイメージできない。ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できないのと同じことだ。

 70年代までの日本には、お茶の間のブラウン管を通し平板なキャラクターたちのドタバタ劇に笑っていられる状況が、良くも悪くもあった。その残滓の消失を、恐らく私たちはいま実感しているのである。


 「その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアン」というコメカ氏の捉え方には、なるほど、と頷くものがあった。
 同時代の視聴者としての実感としても、テレビのブラウン管の向こう側にいる存在は、端的に、向こう側の人だった。televisionという言葉どおり、その技術は「tele」遠くにあるものをこちら側に近づけた。日常を日常にもたらした。
 ザ・ドリフターズの時代のテレビ番組では、向こう側とこちら側はブラウン管で隔てられていて、その隔たりによって、「笑い」という非日常と日常がゆるやかに接していた。

 あの時代、ブラウン管のテレビという機械には確固たる存在感があった。茶の間で君臨していたが、それはある種の異物でもあった。電源ボランを押すと非日常が日常と接続し、離すと断絶していった。
 今日、ブラウン管が液晶などのフラットパネルに変わった。その形が象徴するかのように、向こう側とこちら側とはまさしく「フラット」に接続する。小さなフラットパネルをポケットに入れて持ち歩くこともできる。異物感はなくなり、接続が常態化される。そして、「tele」遠くにあるものをこちら側にもたらすのではなく、すべてのものが私たちの身体の近くに接しているような感覚をもたらす。

 ブラウン管のテレビが茶の間に君臨していたあの時代、ザ・ドリフターズや志村けんの時代を思い出す。あの笑いとあの隔たりの感覚が懐かしい。それはゆるやかさでもあった。
 笑いとは隔たりの感覚によって人を解放するものである。隔たりのある笑いがさらに遠ざかっていく。


2020年3月31日火曜日

「志村」という姓 [志村正彦LN252]

 志村けんが急逝した。知名度が抜群に高い人だけに衝撃が大きい。ご冥福を祈りたい。

 小学生の頃、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』はそれこそ子ども全員が見ていた驚異的な番組だった。僕が熱心に見ていたのは、志村けんの前任者、荒井注の時代だった。ザ・ドリフターズはもともと音楽バンドということもあって、この番組はコントだけでなく歌や合唱もあった。「ドリフのズンドコ節」は最高だった。志村けんの加入時には高校生になっていたのでこの番組からはもう遠ざかっていたが、当時の感覚でも志村けんは新しいタイプのコメディアンだった。舞台に登場するとたちまちその場の雰囲気を変えてしまうようなインパクトがあった。
 ここ十年ほどは、志村正彦と姓が同じであることで何となく親しみを抱くようになった。志村正彦のファンなら、ネットで「志村」を検索すると「志村けん」がヒットするという経験をしたことがあるだろう。

 昨夜、追悼番組としてNHKが志村けんの「ファミリーヒストリー」を再放送していた。2018年5月に放送されたものだが、その際にこの番組を見ていた。言うまでもなく、志村けんのルーツそして「志村」という姓への関心からだった。

 山梨で「志村」は比較的多い姓である。山梨県人なら誰でも志村という名の知人が何人かいるだろう。ネットで県別の姓のランキングを見ると、志村は15位である。全国では467位だからあきらかに山梨に数多くある姓となる。志村姓の県内在住者は約7000人いるらしい。歴史的には「甲斐志村氏」という捉え方のようだ。

 直観にすぎないが、志村けんは山梨と何らかの関係があるのではと考えていた。「ファミリーヒストリー」では山梨の歴史研究家平山優氏が、志村けんの先祖は武田家家臣の山県昌景の家臣の可能性が高いと述べていた。その山県の家臣に「志村又左衛門」という人がいて、その子孫の一部が武蔵国に移り住んだそうである。志村けんのルーツは山梨にあるという説だった。説はあくまでも説だが、志村けんと志村正彦、二人の志村には、大きく捉えれば「志村」という姓の接点があると考えてもよいだろう。その他にも、志村けんは山梨とのゆかりがあったようだ。

 新型コロナウイルスは世界を一変させた。
 このブログに関係することではやはり、ライブハウスをはじめとする音楽の場が事実上閉鎖されていることだ。音楽家も現場の働き手も経営者も厳しい状況に追い込まれている。フリーランスの立場の方々の不安を思うとここに記す言葉もない。終息を待つしかないが、終息が見通せない。何をもって終息とするかも不明なところが焦燥感につながる。

 こんな時こそ音源が不安な心を和らげてくれるかもしれない。志村正彦・フジファブリックの『ルーティーン』のことを想った。歌詞を引きたい。


  日が沈み 朝が来て
  毎日が過ぎてゆく

  それはあっという間に
  一日がまた終わるよ

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  さみしいよ そんな事
  誰にでも 言えないよ

  見えない何かに
  押しつぶされそうになる

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある

  日が沈み 朝が来て
  昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね


 新型コロナウイルスは世界を一変させた。わずか二、三ヶ月の間で、人々の日常が壊された。
 日常とは、「昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね」という祈りがもたらすものであり、ほんとうは奇蹟のようなものかもしれない。

2020年3月25日水曜日

3月26日放送予定の志村正彦番組のこと[志村正彦LN251]

 3月26日(木) 午後3時08分から、NHK総合テレビで『にっぽん ぐるり「若者のすべて~フジファブリック・志村正彦がのこしたもの~」』(NHK甲府制作)が再放送される。そのことで少し気になることを今回は書きたい。なお前回の記事でこの番組が全国放送されると書いたが、放送されない地域もあるようで、訂正させていただく。

 最初にこの前放送されたBSテレビ東京『あの年この歌 3時間スペシャル 名曲~レア曲 昭和・平成ベスト100』の映像を振り返りたい。『若者のすべて』映像(月刊MelodiX! 2007/11/24)で次のテロップが表示された時のことである。


  桜井和寿 草野マサムネ 柴崎コウ 奥田民生など
  多くのアーティストにもカバーされた名曲「若者のすべて」


 これを見た瞬間、何かが足りないと思った。何だろうかと考えたらすぐにあることに気づいた。槇原敬之の名がないことだ。言わずもがなであるが、彼が違法薬物所持の疑いで逮捕されたことの影響であろう。
 数多くある『若者のすべて』カバーの中で、槇原versionの評価が高いことは衆目の一致するところであろう。『Listen To The Music The Live ~うたのお☆も☆て☆な☆し 2014』DVDにライブ映像を収録。昨年10月リリースのカバーベストアルバム「The Best of Listen To The Music」に音源収録。昨年11月放送のNHK「SONGS」で『若者のすべて』を歌い、コード進行に言及しながらこの歌を絶賛した。槇原敬之は『若者のすべて』ルネサンスの中心にいるアーティストである。

 槇原敬之の逮捕を知った時に『若者のすべて』を次の一節が思い浮かんだ。 


   世界の約束を知って それなりになって また戻って


 「世界の約束」、世界には約束があり法がある。若者はその「約束」に対して「それなりになって また戻って」というように行きつ戻りつして大人になっていく。五十歳の槇原はまだ「世界の約束」を守りきれてない。まだ「若者のすべて」の只中にいるのかな、というのが正直な感想だった。アーティスト特有の悩みや不安はあるだろう。それでも「世界の約束」の中で生きていかねばならない。素晴らしい歌い手であるから、いつの日かまた『若者のすべて』を歌う機会が戻ってくることを期待したい。

 この件に関連して考えたことがある。この番組はすでにNHK甲府とNHKBSでオンエアされたが、冒頭部分でNHK「SONGS」の槇原敬之『若者のすべて』の歌とコメントの映像の一部が使われている。気になるのは、明日のNHK総合の放送でこのシーンがどうなるのかということだ。
 このシーンは削除されるのだろうか。そうなるような気がするが、番組を見るまでは分からない。そのことに特別な関心があるわけではないが、やはり気になるところではある。

 「若者のすべて」のすべての中で様々な出来事が起きるのかもしれない。


2020年3月22日日曜日

コメントの紹介と対話 [志村正彦LN250]

 志村正彦ライナーノーツは今回で250回目。この連載を始めたときには漠然と300回くらい続くかなと思っていたので、その行程の6分の5の地点までたどりついた。平均して一年間で30回くらいなので300回に到達するには二年近くかかるだろう。(ブログ開設が2012年末だから2022年になるかもしれない。十年で300回という計算になる)多くもなく少なくもない数だろうが、300回に向けて書いていきたい。

 前回の記事に二人からコメントが寄せられた。とてもありがたい。
 bllogerのコメントは隠れてしまいがちなので、今回は紹介させていただくと共に、二人の発言に触発されて考えたことを記したい。

 最初の方からは、「1回目のテレビ出演は民生さんの「音楽戦士 MUSIC FIGHTER」(10/26オンエア)ではないかと思います」と教えていただいた。「滅多にない地上波、特別思い入れのある楽曲、しかも憧れの民生さんの番組ということで、気合が入りまくったのでしょうね。すっかり声かれちゃってて」とその様子と感想が書かれていた。

 二人目の方からは、「『音楽戦士 MUSIC FIGHTER』はYouTubeにアップされてますのでよかったら是非チェックされてみてください!」という情報をいただいた。早速検索してみると、「2007年 音楽戦士 MUSIC FIGHTER奥田民生とフジファブリック」という動画が見つかった。志村さんと民生さんのコメントが興味深かった。残念ながら『若者のすべて』の演奏シーンはなかったが、この番組の雰囲気は伝わってきた。
 そして次の言葉が心の中に刻まれた。一人目の方と二人目の方の順でここに引用させていただく。


一度ゆっくり休んでほしかった、と思わずにはいられません。
でもそんな彼の作った楽曲を愛しているので、結局は感情の持っていき場がなくなってしまうのですが。


2007年頃の志村くんは、恋をしていたらしいので音楽制作の苦しさとは別に少しくらい幸せな時間があったはずと思いたいです。後のインタビューで結局独りになってしまったと言ってましたが。


 愛が込められた言葉である。音楽を深く聴くためには、その音楽家を愛することが必要だ。時が経つ共に、この愛は純粋なものになっていく。作家とその作品に対する愛、創造する行為への愛はそのような本質を持つ。

 「MelodiX! 2007/11/24」の『若者のすべて』では、志村のやわらかくて切ない声が届いてくる。やや上方に向けられた眼差しも綺麗に何かを見据えている。でも、あきらかに痩せている。一生懸命に歌っている姿が、逆に痛ましい。「一度ゆっくり休んでほしかった」という言葉に深く頷く。それでも、「音楽制作の苦しさとは別に少しくらい幸せな時間があったはずと思いたい」とされる時間もあったのかもしれない。

 二人のコメントを読んでからあらためて、BSテレビ東京で発掘された「MelodiX!」の映像を見ると、「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」のところで、志村がまぶたを閉じる瞬間の表情が切々とこちらに迫ってくる。あの言葉とあの表情が『若者のすべて』の核にあるのだろう。それは志村正彦固有のものである。この曲は多くのアーティストに歌われてきた。ただし、「まぶた閉じて浮かべているよ」のところをリアルに歌ったヴァージョンを聴いたことはない。
 この歌は、「まぶた閉じて浮かべている」ようにして歌い、そして聴く作品であろう。

 この曲がたくさんカバーされてきたことは素直にうれしい。でもカバーされればされるほど、『若者のすべて』は、志村正彦という作家の作品であるという原点に戻ってくる。歌を創造するという原点に回帰してくる。
 その原点に、作家とその作品に対する愛が存在している。


 【追伸 2020.3.23】
 前回の記事への新たなコメントで、YouTubeのチャンネル名maimimainに、『若者のすべて』演奏シーンを含む「音楽戦士 MUSIC FIGHTER」の映像があることを教えていただいた。早速見たが、「練習しすぎて声嗄れてて、本番で声が出なくて。で、うちひしがれて」という志村さんの発言がよく理解できた。特に「まぶた閉じて浮かべているよ」「同じ空を見上げているよ」のところが苦しそうだ。でも確かに、コメントを寄せられた方の「一生懸命歌ってる志村くんに心打たれます」という言葉のように、声の不調に抗うようにして、歌の真実をなんとか伝えようとしている。その志と姿に志村正彦を感じる。

 それから番組の告知をひとつ。
 NHK甲府制作の『にっぽん ぐるり「若者のすべて~フジファブリック・志村正彦がのこしたもの~」』が、3月26日(木) 午後3時08分からNHK総合で放送される。すでにNHK甲府とNHKBSでオンエアされているが、今回は地上波の全国放送なのでより多くの人々にこの番組が届くだろう。


2020年3月16日月曜日

「青春を彩ったレジェンドたち」BSテレビ東京『あの年この歌 …昭和・平成ベスト100』[志村正彦LN249]

 昨夜、3月15日(日)19時00分~21時48分、BSテレビ東京で『あの年この歌 3時間スペシャル 名曲~レア曲 昭和・平成ベスト100』が放送された。事前にFujifabric_infoから、2007年の志村正彦・フジファブリック『若者のすべて』の映像がオンエアされるという情報が伝えられていたので、この日を楽しみに待っていた。

 3時間に及ぶ長い番組だった。おそらく最後の頃と予想していたらやはり夜9時半近くになって、志村正彦・フジファブリックの映像が登場した。この番組は「昭和・平成ベスト100」を10のテーマ別に10曲(10人)を選んでいた。志村正彦『若者のすべて』が最後のテーマ「青春を彩ったレジェンドたち」の第10位となったのである。
 ご覧になっていない方のためにそのシーンをテキストで記したい。このシーンのナレーションは次のように始まった。

 それぞれの青春に欠かせない名曲を歌ったアーティスト。
 まさに憧れの存在だった彼らも平成と共にその多くが世を去っていった。今回は平成に亡くなった中で各世代の青春を鮮やかに彩ったアーティストをランキング。

 テロップに「*40代~70代の男女を対象にネットでアンケート調査」とあったので、ネット調査をもとにしたランキングのようだ。この後、志村正彦が紹介された。「10位 フジファブリック 志村正彦  1980年-2009年」という表示と共に志村正彦の顔写真(撮影:江森康之)が画面に映し出される。ナレーションは次の通りである。
                                               
 10位 フジファブリック 志村正彦。
 ほとんどの楽曲の作詞作曲を手がけていた志村。
 彼が急逝した後、残されたメンバーはバンドを継続、数々の名曲を歌い継いでいる。生前の志村が代表曲『若者のすべて』を歌う貴重な映像が、テレビ東京に残されていた。

 こう説明された後、志村正彦が歌う映像が始まった。テロップに「月刊MelodiX! 2007/11/24」とあるが、今も続いている音楽番組である。放送されたのは次の部分。最後の一節を除いて歌詞も表示された。

 それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている
 夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
 「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて
 最後の花火に今年もなったな
 何年経っても思い出してしまうな
 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」の代わりに画面では次のテロップが表示された。

 桜井和寿 草野マサムネ 柴崎コウ 奥田民生など
 多くのアーティストにもカバーされた名曲「若者のすべて」

 全体で1分38秒ほどの時間だった。フルコーラスでなかったのが残念だが、この番組の構成上は仕方がない。いつかフルヴァージョンを放送していただけたらありがたい。「MelodiX!」の枠内はどうだろうか。

 『若者のすべて』に続いて、10の曲、アーティストが紹介された。以下がその順位である。

 1.坂井泉水(ZARD)
 2.萩原健一
 3.はしだのりひこ
 4.加藤和彦
 5.村下孝蔵
 6.大滝詠一
 7.ムッシュかまやつ
 8.忌野清志郎
 9.HIDE、TAIJI
 10.志村正彦(フジファブリック)

 この並びに志村正彦がいることは端的に凄い。志村の一般的な知名度は高くない。視聴者の中には誰かと思った人も少なくないだろう。しかし、志村という名前を知らなくても『若者のすべて』を聴いたことはあるかもしれない。記憶のどこかにこの曲の旋律や歌詞の断片がそっと入っていることもあるだろう。知名度の問題は別にして、志村が忌野清志郎、大滝詠一と共に「平成に亡くなった中で各世代の青春を鮮やかに彩ったアーティスト」に選ばれたことをここで特筆しておきたい。志村の世代とは所謂「失われた世代」、現在30歳から40歳前後の世代が中心だろう。確かに「失われた世代」の無や空白を彩る歌でもある。

 10曲がオンエアされた後、出演者の一人ミッツ・マングローブがこう話した。

フジファブリックが入っているのはうれしいですね。今同じ事務所なんですけど、私が事務所に入る前の年に志村さんはお亡くなりになっていて。このバンドのギタリストが今ボーカリストとして歌ってて。ほんとこの「若者のすべて」っていうのは、もう若者じゃない世代なんですけどこれが流行った時って、これはすごい曲だと思って、聴いてたんで。

 昨年来の様々な番組を含め、志村正彦や『若者のすべて』へのリスペクトが伺える発言が多い。この番組全体を通じて志村の歌うシーンが繰り返し紹介されていた。制作者の想いを強く感じた。

 志村は当時のテレビ番組出演について『東京、音楽、ロックンロール 完全版』の「interview」(p225)で次のように振り返っている。

 次のシングル”若者のすべて”でテレビ何本か出ましたけど、苦い思い出ですね。頑張ったんですよ。テレビだから、テレビ出る前に歌の練習してたんです。そしたら、練習しすぎて声嗄れてて、本番で声が出なくて。で、うちひしがれて、フジファブリックはテレビに出れないなって思ってですね。テレビに出てそういうパフォーマンスをされてる方に、とても尊敬を抱くようになりました。2回目はちょっとペースがつかめて、声もちゃんと出たんですけど。でも、今もちょっと出るのは怖いです。(後略)

 以前この箇所を読んだときに、出演したテレビ番組のことが気になっていた。「何本か」とあるが、この「月刊MelodiX! 」(2007/11/24)がその中の一本だろう。この番組では志村の声はそれなりにしっかりと出ているので、この「2回目」だったのかもしれない。

 この映像の印象を書きたい。
 11月の放送ということで、晩秋を思わせるセットを背景に、志村は両国国技館ライブの時と同じTシャツの上にグレー色のパーカを着て、アコースティックギターを奏でながら歌っている。ドラムは城戸紘志。五人の演奏のアンサンブルはいつもどおり安定している。
 志村の視線は上の方に向けられている。どこか遠くの方を見つめている表情である。しかし、「まぶた閉じて浮かべているよ」のところになると、まぶたを閉じる。何かを思い浮かべるように。そしてもう一度まぶたを開く。このまぶたの開閉は『若者のすべて』の歌を支える仕草であり、歌の表情そのものでもある。

 引用箇所に「頑張ったんですよ」とあるが、そのことが充分伝わってくる映像だった。『茜色の夕日』に続く重要な楽曲であり、その出来映えに自信を持っていた作品。志村正彦はこれからの自分のあり方をこの歌にかけていた。
 しかし、『若者のすべて』は彼が想像してほどには聴き手を獲得できなかった。その歌が2020年の今、「昭和・平成ベスト100」の「青春を彩ったレジェンドたち」の10曲のひとつとして評価されている。
 このblogで何度か書いてきたが、この歌が浸透していくためには数年から十年の時間が必要だった。それゆえにこれからはおそらく、その何倍もの時間、数十年という時を経ても、『若者のすべて』は人々に聴かれていくのだろう。

2020年2月23日日曜日

NHK ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」[志村正彦LN248]

 2月11日にNHK総合で放送された、ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」が、明日2月24日(月) 午前5時10分から再放送される。未見の人にとっては最後のチャンスとなるかもしれない。

 今日はこの番組とNHK甲府で制作された一連の番組について振り返りたい。再放送も多かったので時系列で整理しておきたい。


①2019.12.13(金) NHK甲府
 ヤマナシ・クエスト「若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」

②2019.12.20(金)   NHK甲府ラジオ局
 かいらじ  *関連のラジオトーク番組

③2020.1.24(金) NHK BS1(にっぽんぐるり)
 ヤマナシ・クエスト「若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」(再放送)*①にテロップが部分的に追加され、より正確な表現に修正された。このヴァージョンが保存版となるべきだろう。

④2020.2.11(火) NHK総合
 ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」

⑤2020.2.24 (月)   NHK総合
 ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」(再放送予定)


 一連の番組の制作はNHK甲府が中心となった。NHK甲府の取材者やディレクターが時間をかけて撮影したものを二つの番組「ヤマナシ・クエスト」「ひとモノガタリ」として編集構成したのだろう。企画段階からこの二つの番組の構想があったのかもしれない。

 NHKの「ひとモノガタリ」公式サイトでは、「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」は次のように紹介されていた。


フジファブリックのボーカルとして活躍したミュージシャン・志村正彦が亡くなって10年。彼と同年代の人たちはいわゆる「失われた世代」と呼ばれ、就職氷河期の中社会に出て生きてきた。志村の曲はそんな彼らに何を残したのか?これは、一人の若者が人生をかけて残した音楽と、かつて若者だった人たちの物語。


 志村正彦の人と物語の紹介から始まり、「失われた世代」の人と物語に焦点を当てていた。番組制作者の意図は、「失われた志村正彦」から「失われた世代」への架橋を果たすことだったと思われる。

 この偶景webでは、 2015年11月2日の記事「今の子供たちの世代、僕らの世代。-『若者のすべて』19[志村正彦LN115]」で、世代論的な視点から志村正彦と『若者のすべて』について論じている。できればこのテキストを読んでいたきたいが、そこで引用されている志村の発言(「Talking Rock!」2008年2月号、文・吉川尚宏氏)をここで再掲載したい。志村は『若者のすべて』の歌詞を作る過程についてこう語っていた。


最初は曲の構成が、サビ始まりだったんです。サビから始まってA→B→サビみたいな感じで、それがなんか、不自然だなあと思って。例えば、どんな物語にしてもそう、男女がいきなり“好きだー!”と言って始まるわけではなく、何かきっかけがあるから、物語が始まるわけで、同じクラスになったから、あの子と目が合うようになり、話せるようになって、やがて付き合えるようになった……みたいなね。でも、実は他に好きな子がいて……とか(笑)、そういう物語があるはずなのに、いきなりサビでドラマチックに始まるのが、リアルじゃなくてピンと来なかったんですよ。だからボツにしていたんだけど、しばらくして曲を見直したときに、サビをきちんとサビの位置に置いてA→B→サビで組んでみると、実はこれが非常にいいと。

しかも同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて。ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない!


 「ないかな/ないよな」という「ない」の反復には、多重の無や不在の感覚が織り込まれている。自分自身、自分と他者との関係における不在や不充足の感覚を基にして、「ない」「失われた」という時代や社会の感覚に広げていく。「“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませる」とあるように、その過程を詩的表現の方法として実現させたのが志村らしい。「ないかな/ないよな」の無と不在の響きに手繰り寄せられるようして彼は『若者のすべて』の歌詞を書いた。

 志村が「失われた世代」を描こうと意図してこの歌を作ったというよりも、「ないかな/ないよな」という詩的表現によって「失われた世代」のモチーフにたどりついたということだろう。世代論的なものを意図して作られた作品はメッセージ性が強くなる傾向がある。志村の場合、直接的なメッセージは少ない。彼の歌の特質は意識的なものよりもむしろ無意識的なものを取り入れていくことにある。『若者のすべて』の「すべて」は、文字通り、「すべて」の意識的無意識的なモチーフを織り込んでいるのではないだろうか。だから結果として、志村と同世代の「失われた世代」のこころに響いていった。詩的言語は、メッセージでは「ない」ものを伝える。

 この番組について正直に書くと、志村正彦『若者のすべて』と「失われた世代」を直接的に結びつけすぎたという印象が残る。制作者は、志村正彦没後十年という時の流れから「時代」や「世代」を重視する意図を持っていたのだろう。一つの番組で表現できることには自ずから制約や限界がある。全体として言えば、志村正彦という存在を世に広く伝えることができたことは功績である。二つの番組を通じて、長い時間をかけて丁寧に取材した関係者の映像の価値は高い。片寄明人、樋口寛子、藤巻亮太、路地裏の僕たち、各地で取材した人々。彼らの発言はどれも真摯なものだった。
 なかでも、高校生バンドから「富士ファブリック」までのメンバー、ドラムス渡辺隆之・ベース渡邊平蔵・キーボード小俣梓司の証言はきわめて貴重だった。特に印象に残ったものを二つの番組からここに記しておきたい。


・『茜色の夕日』について
 自分の心として吐き出せた。歌詞もそうだしメロディもそうだし吐き出せた。 (渡辺隆之さん)
 この曲は魂があるから、この曲で自分は勝負したいってことを言っていたんで。(渡邊平蔵さん)
・富士吉田ライブに関連して
 曲だってあんだけ何曲も何曲も作り込んで。あいつが一曲作るのにどれだけ大変か見てますから。(小俣梓司さん)


 三人の言葉は、オリジナルメンバーとして身近にいた友人だからこその証言である。僕のような単なる聴き手は想像するだけであるが、このような証言によって、志村正彦の曲への想いや制作の過程をある種の実感として受けとめることができる。
 一人のファンとして、一連の制作についてNHK甲府に感謝したい。それと共に今後も、志村正彦・フジファブリックの番組を継続していただければ有り難い。
 志村正彦の人と音楽そのものについて、さらに取材し証言を集め、資料や映像を掘り起こして集大成した番組がいつか制作されることを切望している。

2020年2月11日火曜日

映画『イエスタデイ』のジョン・レノン

 今夜2月11日 18:05~18:34、NHK総合の「ひとモノガタリ」という番組で「若者のすべて~失われた世代のあなたへ~」が放送される。志村正彦(フジファブリック)と彼が遺した曲を支えにして生きる人たちをテーマにしたそうだ。昨夜のNHK甲府の「Newsかいドキ」で冒頭が少し紹介されていた。あと数時間後の本放送を待ちたい。

 前回書いた映画『イエスタデイ』でジョン・レノンが登場するシーンがyoutubeにあった。4分ほどの場面である。この映画は昨年10月に公開されたので上映の機会は少なくなってきた。それでも東京、大阪、兵庫などでは2月から3月にかけて上映する映画館もある。ご覧になる予定の方はこの記事はスルーしていただくことにして、今回はその映像を紹介したい。




 この映像だけを取り出すと、まるでこのシーンが中心のようであるが、映画全体からするとあくまで一つの挿話に過ぎない。しかし、前回書いたように、このジョン・レノンのシーンを中心に据える見方もあるだろう。僕はそう見た。ジョンの登場シーンのためにこの映画は作られたのではないかと。それはそうとして、まるで、ジョン・レノン登場シーンとそれ以外のシーンが、パラレルワールドになっているような関係なのだ。『Yesterday』と『Imagine』がパラレルになっているとも言える。

 このシーンをよく見ると、ジョンの家の前の船底を上にして置かれた小舟に「Imagine」と書かれていることに気づく。この船の名は「Imagine」号なのだ。船が逆さまなので文字も逆さまであり、逆さまのパラレルワールドに相応しい。
 ジャックとジョンの次の会話の場面が胸に刻まれる。


 Jack  So good to see you. How old are you?
 John  78.
 Jack  Fantastic! You made it to 78.


 映画『イエスタデイ』のジョン・レノンが78歳まで生き続けていたことは「Fantastic!」以外のなにものでもない。この後で二人はハグをする。映画という虚構の人物と現実の人物の虚構の抱擁のように。

 40歳で亡くなった「ビートルズのジョン・レノン」が存在する世界。
 78歳まで生き続けた「船乗りのジョン・レノン」が存在する世界。
 この二つの世界に対して、もう一つの世界を想像する。
 「ビートルズのジョン・レノン」が78歳まで生き続ける世界。
 僕たちは第三のパラレルワールドを「imagine」することができるだろう。




【付記】 前回の記事について「偶景webを通勤時に読んじゃだめですね(;_;) パラレルワールド... 」と呟いていただきました。(;_;)という顔文字、充分にimagineできました。


2020年2月2日日曜日

映画『イエスタデイ(Yesterday)』

 甲府の映画館シアターセントラルBe館にときどき出かける。街中での映画とランチがこのところの唯一の愉しみである。少し前に、映画『イエスタデイ(Yesterday)』[2019年、監督ダニー・ボイル・脚本リチャード・カーティス]を見てきた。予告編で知って上映を待っていた作品だ。

 youtubeにある予告編を見てみよう。




 公式サイトではこう紹介されている。

舞台はイギリスの小さな海辺の町サフォーク。シンガーソングライターのジャック(ヒメーシュ・パテル)は、幼なじみで親友のエリー(リリー・ジェームズ)の献身的なサポートも虚しくまったく売れず、音楽で有名になりたいという夢は萎んでいた。そんな時、世界規模で原因不明の大停電が起こり、彼は交通事故に遭う。昏睡状態から目を覚ますと、史上最も有名なバンド、ビートルズが存在していないことに気づく─。

自分がコレクションしていたはずのビートルズのレコードも消え去っている摩訶不思議な状況の中、唯一、彼らの楽曲を知っているジャックは記憶を頼りに楽曲を披露するようになる。物語はジャックの驚きや興奮、戸惑いや葛藤、そして喜びがビートルズの珠玉の名曲とともに語られていく。何気なく友人たちの前で歌った“イエスタデイ”がジャックの人生や世界までも大きく変えていくが、夢、信念、友情、愛情…ビートルズの楽曲が人生のすべてのシーンを豊かに彩る。

 この紹介通り、ビートルズをモチーフにした音楽映画である。いわゆる「売れない音楽家」のサクセスストーリーでもあり、素晴らしいラブストーリーでもある。wikipediaでは「ファンタジー・コメディ映画」とされていたが、そんなジャンルがあることを始めて知ったが、確かに「ファンタジー」であり「コメディ」でもある。とても質の高いエンターテイメント映画であり、ビートルズ・ファン、ロック音楽ファンにとっては必見の作品である。

 シアターセントラルBe館では2月6日まで上映。全国ではすでに公開が終わっている段階だが、まだ上映中か上映予定の映画館もいくつかあるので、近くで見ることができる方にはお勧めしたい。(これから書くことは「ネタバレ」となっていることをお断りします)

 終わり近くに全く想像していなかったシーンがあった。

  ジャックがある海辺の家をたずねると、「ジョン・レノン」が現れたのだ。

 風貌はそっくりだが、それなりに高齢になったジョンを見た瞬間、涙があふれてきた。とどめることができなかった。
 要するに、ビートルズが存在しなかったパラレルワールドで、「ビートルズのジョン・レノン」ではない「ジョン・レノン」が存在しているのだ。その「ジョン・レノン」は40歳で亡くなることなく、現在まで生き続けている。老いてきたが元気に暮らしているのだ。

 このシーンのためにこの映画は制作されたのではないかというのが僕の直観だった。「ジョン・レノン」が現在まで生き続けているというのは「夢」にすぎないのだろうが、この映画『イエスタデイ』は映画という「夢の中の夢」として、きわめて美しく、そしてある種の必然性を備えて描いている。

 出逢いの後のジャックとジョンの会話が素晴らしい。リアリティがある。ジョンは船乗りとなり世界をまわり、今は78歳。そしてジョンは、エリーとの関係に悩むジャックに対して、エリーへの「愛」を伝えることを説く。このシーンが転換点となって、映画はクライマックスとハッピーエンドにたどりつく。

 ネットで調べると、ダニー・ボイル監督がジョン・レノン登場シーンについて語ったインタビュー記事が見つかった(取材・文:編集部・市川遥)。取材者が配給会社に問い合わせたところ、「フィルムメーカーとジョン・レノンを演じた俳優は、ジョン・レノンの人生と思い出に敬意を表すため誰が演じているかを公表しないという契約をしています。彼らの希望を尊重し俳優の名前は公表致しません」という回答があったそうだ。パラレルワールドのジョン・レノンは、「名前」の公表されないない「俳優」によって演じられた。パラレルワールドのジョン・レノンという夢への尊厳が貫かれている。

 ボイル監督はこのシーンについて「あえて、ヒメーシュと彼を会わせなかったんだ。撮影でドアが開く、あの瞬間までね。だからヒメーシュにとって、あの一瞬はものすごい瞬間だったわけだよ(笑)」と語っている。このような演出の配慮によって、あの場面は役者にとっても、そして観客にとっても「ものすごい瞬間」となったわけである。
 一歩間違えば荒唐無稽な夢物語に陥った場面が、自然に受け入れられる展開になったのは、制作者のきめ細かい心配りがあったからだろう。
 さらに監督はこう述べている。


映画が変わるシーンでもある。ジャックが突然、本当にたくさんのことに気付くわけだから。映画の魔法だよ。恐怖や暴力は、絶対的な美しさと驚異の瞬間によって克服できる。僕たちは、ちょっとの間、そんな勝利は可能だって信じることができるんだ。暴力は勝たない。美しさと真実、イマジネーションが勝つんだ。とても特別で、とても誇りに思っているシーンだよ


 「美しさと真実、イマジネーションが勝つんだ」という監督の発言は、この映画の究極のテーマである。まさしく「Imagine」である。
 そして、「船乗りのジョン・レノン」が存在し続ける世界を「Imagine」すること。同時に、「ビートルズを創ったジョン・レノン」が存在した世界を「Imagine」すること。この二つのパラレルワールドは、互いに互いを「Imagine」する世界なのかもしれない。その世界では「ジョン・レノン」が存在してる。

 最後に思い出語りをしたい。ロック音楽を聴き始めた70年代前半、僕はジョン・レノンにのめり込んでいった(僕だけでなくあの頃は誰もがそうだったが)。当時すでに、ジョン・レノンはライブ活動からは遠ざかっていた。日本でジョンのライブを見ることは不可能だった。しかし、オノ・ヨーコの方は実験的な音楽をライブでも試みていた。

 1974年8月、僕は新宿厚生年金会館でオノ・ヨーコ&プラスティック・オノ・スーパー・バンドのライブを見た。オノ・ヨーコの声とパフォーマンスに圧倒された。スティーヴ・ガッド、ランディー・ブレッカー、マイケル・ブレッカーという豪華なメンバーもいた。終了後、オノヨーコが投げキッスをして車に乗り込んで去って行くのをたまたま目撃した。当時は何もかもが鮮烈だったが、さすがに四十数年が経つと、靄がかかった断片しか思い出せないが。

 かなり後になってから知ったことだが、この頃はジョンとヨーコは別居状態で、ジョンにとって「失われた週末」の時代だったそうだが、この映画の「船乗りのジョン・レノン」もまた妻との間にそのような日々があったことをうかがわせる話をしていた。パラレルワールドのそれぞれで二人のジョンは、愛とそこから得た真実において同等の経験をしているようだ。

 1980年、ジョン・レノンの生は閉じられてしまった。40歳という早逝の人生だった。ロック音楽家には夭折や早逝が少なくない。彼らのパラレルワールドを「Imagine」することは、夢の中の夢のような行為かもしれないが、僕もある音楽家のパラレルワールドを想像した。

  You may say I'm a dreamer
  But I'm not the only one
  I hope someday you'll join us
  And the world will be as one



2020年1月22日水曜日

新しいスポーツ-『熊の惑星』[ここはどこ?-物語を読む 10]

 ハリーポッターがベストセラーになったのは、何年前のことだったか。確かシリーズ続編の発売日には徹夜組も出るくらいの人気作だった。かくいう私は一作も読んでいない。流行に背を向けるひねくれた性格のせいだが、それも中途半端なひねくれ方なので、映画は観た。その中で一番印象に残ったのは、彼らが魔法学校で行う不思議なスポーツだった。一回観たきりなのでうろ覚えなのだが、空飛ぶホウキにまたがった少年たちが2つのチームに分かれ、何かをゴールに放り込んだり、羽の生えた球を捕まえたりして、点数を競うようなものだった。こういう新しいスポーツのルールや戦術を覚えて観戦するのが好きで、特にこれはぜひ自分でもやってみたいと思った。残念ながら空飛ぶホウキは手元になく、あっても重くて飛べないと文句を言われるかもしれず、それに忘れていたが、はしごの三段目から上に上がれない高所恐怖症だということもあって、実現は難しい。

 突然話は変わるが、ここ数年、家人はシングルのB面を集めたCDをよくかけていて、特に「セレナーデ」と「ルーティーン」は繰り返し聴いていた。どちらも代表曲にあげられることはあまりないが、聴けば聴くほど心の深いところに届いてくるような名曲である。そして「セレナーデ」と「ルーティーン」の間にはそれとは似ても似つかない一曲が流れてくる。その名も「熊の惑星」。このヴァリエーションの豊かさこそがフジファブリックと言えようか。

フジファブリックにとって初めての、加藤氏作(!) の曲が仕上がった。謎の曲。だから謎の歌詞を書いた。かなり好評。
(志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』2007.7.12 「加藤曲」より抜粋)

 作詞者本人が書いているのだから間違いない。何度聴いても謎の歌詞である。歌が進むにつれて聴き手の予想はことごとくくつがえされる。


 世界初の貴重な映像 僕は感動
 動物界に君臨する巨大な王様


(聴き手=私予想)テレビでよくやる動物もののドキュメンタリーを見ているのだな。この一本を撮るためにどれほどの時間と労力が費やされたのか。まして動物界に君臨する巨大な動物(象? 熊? くじら? タイトルを思い出して熊だと確定)の世界初の生態はとても貴重で興味深い。なるほど。


 太刀打ちできる人間はほとんどいないね
 アジア一のワザの使い手ぐらいだろうねえ

 戦いが始まるぜ!
 北欧の熊に対するのはヒゲの太極拳野郎

(聴き手=私予想)動物と人間が戦うのか。格闘家が牛や熊と戦って勝ったという伝説があったけれど、そういう番組なんだな。(どこまで真剣勝負なのかはわからないが、大山倍達やウィリー・ウィリアムスなどが牛や馬と戦ったという話はある。市井の人でも山で熊に遭遇して撃退したという武勇伝も新聞で読んだ)。


 夢の対決を見てるんだ 旗を取り合うのよ

(聴き手=私予想)??? 旗を取り合うってどういうこと?

 
 私には見える。この最後の一行を書き終えたとき、志村正彦はにやりと笑ったに違いない。混乱する聴き手を思い浮かべながら、仕掛けたいたずらが成功した子供のように。
 熊と人間が格闘するのではなく、旗を取り合う戦い。これは全く新しいスポーツである。なにしろ動物と人間の戦いだからスポーツというのもおかしいが、他にことばが思いつかないので、とりあえずスポーツにしておく。 さてどんなスポーツなんだろう。


 ちょっと考えてみた。
 長距離の障害物競走。コースには高い壁や足を取られそうな網や蟻地獄のような砂の穴や幅の広い川や揺れる吊り橋などがある。最後つるつる滑る坂の上に旗が立てられていて、それを取った方が勝者である。普通にやれば熊が勝つに決まっているので、熊の苦手そうな障害をたくさん用意してある。北欧の熊が相手だから真夏なら少し人間に有利か。ただし、アウェイ(熊の惑星)での戦いとなれば、圧倒的に不利な気がする。

 あるいは、それぞれ自分の陣地に旗を立て、人間側は頭脳を使い、投石機とか落とし穴とか様々な防御態勢を整えて、「はじめ」の合図で熊人間双方が相手陣の旗を取りに行く。もちろんすんなりいかないようにお互いに防御しつつ、相手の隙をうかがって早く旗を取った方が勝ち。旗の周りを火で囲っておけば、熊は近づけないかもしれないが、さすがにそこまでするとちょっとずるい気もする。

 どちらも太極拳の動きで互角の戦いができるかは微妙である。はたして志村正彦は一体どんなスポーツを想定していたのだろうか。(何も考えていなかった可能性もあるが)。
 いずれにしても「太刀打ちできる人間はほとんどいない」のだし、ハリー・ポッターと違って、参加するにはかなり勇気のいるスポーツではある。

2020年1月13日月曜日

松任谷由実『ノーサイド』

 2019年は、ラグビーワールドカップで日本代表が大健闘した年としても記憶されるだろう。一ファンとしてWCを大いに楽しんだ。
 年が明けて、1月11日、新しい国立競技場でラグビー大学選手権が開催され、早稲田大学が明治大学に勝利し大学日本一になった。新国立も満員だった。12日にはトップリーグが開幕した。日本代表大活躍の影響で各会場とも観戦者がかなり増えた。今回のラグビー人気は本物になる予感もする。

 昨年大晦日の紅白歌合戦。流行り歌に疎いのでせめて紅白だけでもと毎年欠かさずに見ている。年々歌はつまらなくなっているというのが正直な実感だが、その中でひときわ歌として輝いていたのは、ラグビーをテーマにした松任谷由実の『ノーサイド』だった。ラグビー日本代表のメンバーも登場し、ワールドカップの映像が流れる中でユーミンが想いを込めて歌い上げた。G 鈴木茂、Ds 林立夫、B 小原礼、key 松任谷正隆が演奏した。松任谷正隆がローズピアノでイントロを弾くと、耳に馴染んだあのメロディーが広がっていく。
 歌詞の前半を引用したい。


   ノーサイド (作詞・作曲 : 松任谷由実)

 彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った
 長いリーグ戦 しめくくるキックは ゴールをそれた
 肩を落として 土をはらった
 ゆるやかな 冬の日の黄昏に
 彼はもう二度と かぐことのない風 深く吸った

 何をゴールに決めて
 何を犠牲にしたの 誰も知らず
 歓声よりも長く
 興奮よりも速く
 走ろうとしていた あなたを
 少しでもわかりたいから

 人々がみんな立ち去っても私 ここにいるわ


 眼差しの向こう側に「彼」がいて、こちら側に「私」がいる。「私」はただひたすら「彼」を見ているが、距離はある。グラウンドの中と外で隔てられている。その距離感がユーミンの歌の基底にある。
 「彼」が「枯れた芝生の匂い」を「深く吸った」とあるが、ここでは「私」は想像の翼によって「彼」に近づく。しかしその後「私」はふたたびグラウンド全体を見渡す場所に戻って、キックが「ゴールをそれた」軌道を追いかける。「彼」と「私」との距離は近づいたり遠のいたりする。

 次の連では、「歓声よりも長く 興奮よりも速く 走ろうとしていた あなた」に焦点が合う。「歓声よりも長く 興奮よりも速く」はなんと卓抜な表現なのだろう。ラグビーの得点シーンは、たとえばサッカーに比べると時間がかかる。何度もアタックする。ボールを回し、走り、起点を作り、その反復がある。もともとボールを後方に渡すという「理」に反した攻め方ゆえにラグビー固有の時間の流れ方がある。だからこそ、応援する側から言うとそのプレーに対する「歓声」は長い。しかし、インゴールにボールをグラウンディングする時間は一瞬の出来事として生起する。ゴールの「興奮」は時間が凝縮されている。だからこの「歓声よりも長く 興奮よりも速く」走るというのは、ラグビーの攻撃の描き方としてきわめて的確なのだ。そしてその走る姿が「あなた」に収斂していく。「彼」が「あなた」に転換されることによって、「私」と「彼=あなた」の距離が極限まで縮まるかのようだ。その「あなた」を「少しでもわかりたいから」、「人々がみんな立ち去っても私 ここにいるわ」と歌うのは、ラグビーに対する愛の賛歌となる。「あなた」はラグビーそのものなのだろう。

  「ノーサイドNO SIDE」は試合終了を示す。その瞬間、自陣と敵陣の区別はなくなり、勝者のサイドも敗者のサイドも無くなる。互いの健闘をたたえ合い、互いを尊重し合う。ノーサイドという境界を消失させる行為は、歪んだ対立が顕在化するこの時代に省みる価値がある。
 ふと思った。『ノーサイド』の歌詞の「彼・あなた」と「私」にある一種の距離や境界も最後に消えていったのではないかと。歌い手と歌われる存在や対象との間にある境界も、歌が終わる瞬間に消失していく。

 「しめくくるキックは ゴールをそれた」というシーンについても語りたい。これはかつての全国高等学校ラグビー大会決勝の「伝説の一戦」から素材を得ているようだ。決まれば同点で両校優勝となるゴールキックを左に外し、その直後ノーサイドの笛が鳴ったそうである。
 こういう劇的なシーンはラグビーで時に遭遇することがある。

 昨年のラグビーWCフランス対アルゼンチン戦を東京・味の素スタジアムで観戦した。山梨で合宿したフランスチームを応援するつもりで行ったのだが、会場に行く途中で陽気なアルゼンチンサポートとも出会い、はじめからノーサイドの気分だった。
 フランスが2点差でリードしている試合の終了間際、アルゼンチンがPGを獲得した。約50メートルのロングキックが決まれば劇的逆転だったが失敗した。まさしく「しめくくるキックは ゴールをそれた」。試合はノーサイドを迎えた。

 もうひとつ思い出を語りたい。もう二十年近く前の出来事だ。
 2001年12月旧国立競技場で、ラグビー関東大学対抗戦の「早明戦」早稲田大学対明治大学の闘いがあった。
 早稲田が1点のビハインドで迎えた後半ロスタイム、ペナルティーのチャンスを得て、武川正敏が蹴ったボールはポストの間を通り抜けた。キックはゴールをそれなかった。早稲田が土壇場で試合をひっくり返し、勝利を掴み取った。現地で僕は父と妻と一緒にこの試合を見ていた。僕が母校の早稲田大学ラグビーのファンだったので、父も熱心に応援してくれるようになっていた。勝利の瞬間の父の笑顔が忘れられない。翌年も観戦し、その次の年もチケットを購入したが、父は体調を崩し国立には行けなかった。その半年後父はなくなった。早稲田のラグビーを見ると父を思い出す。2001年の早明戦はいまだに最も記憶に残る試合だ。みんなで校歌をうたったことも胸に刻まれている。

 武川正敏は山梨のラグビー強豪校である日川高校の出身である。そのこともあり、あの日は特に彼を応援していた。彼は昨年から早稲田のヘッドコーチに就任している。あの日の伝説のキックの経験は後輩たちへ受け継がれていくのだろう。

 紅白歌合戦で歌い終わった後、田中史朗は「皆さんの支えがあってベスト8にいけたのでうれしいですし、ほんとうに日本がONE TEAMになって、この歌も聞けてほんとうにうれしいです。ありがとうございます」と言った。ユーミンは「たくさん勇気をもらいました。この曲にこんなチャンスを与えてくれてありがとう!」と涙ぐみながら選手に語りかけていた。
 「チャンス」を与えてくれたというユーミンの言葉に感銘を受けた。『ノーサイド』というひとつの歌が、ラグビーを祝福し、ラグビーから祝福されていた。


2020年1月5日日曜日

『ミュージック・マガジン』の「50年の邦楽アルバム・ベスト100」[志村正彦LN247]

 2020年の元日、フジファブリック・山内総一郎氏の慶事が伝えられた。今後、フジファブリックはさらに変化していくのだろう。
 2019年は志村正彦・フジファブリックにとって特別な年だったので、例年以上に集中して様々な事柄を追ってきた。年を越えてしまったが、今回は音楽雑誌『ミュージック・マガジン』について書きたい。

 去年2019年は、1969年4月創刊の雑誌『ミュージック・マガジン』の創刊50周年の年だった。2019年4月号は、特別付録として創刊号を復刻して同封した。久保太郎編集長は「『ミュージック・マガジン』は、創刊50周年を迎えました」という巻頭言でこう述べている。


 洋楽、とりわけロックを単なるエンターテイメントではなく、人々の意識を変え、社会変革をもたらすものと捉え、その音楽の紹介のみならず、批評のスタイルまでを文化として導入し、確立しようということが創刊の目的でした。その姿勢は、今回復刻した創刊号に色濃く表れていますし、後にロックだけでなく世界の様々なポピュラー・ミュージックや邦楽に批評の対象を広げても、本誌が一貫して持ち続けてきたものです。


 僕が読み始めたのは1974年頃だった。編集長の言葉にある通り、ロックは「人々の意識を変え、社会変革をもたらすもの」という意識が読者にもあった。当時は洋楽のロックが中心で、時代が経つにつれてワールドミュージックや邦楽も取り上げるようになった。以前も書いたが、僕にとって『ミュージック・マガジン』(『ニューミュージック・マガジン』の時代だが)は主に、浜野サトルの批評を読む媒体として位置づけられていた。     

 4月号の復刻に続いて、『創刊50周年記念復刻 Part 1 ニューミュージック・マガジン1969年5月号~8月号』『創刊50周年記念復刻 Part 2 ニューミュージック・マガジン1969年9月号~12月号』の復刻版も出された。
 5年ほど前、古書市場で1970年から2012年までの500冊ほどのセットを運良く購入できた。その後も空白の号を買い集め、現在は定期購読している。創刊年の1969年は数冊だけ持っていなかったが、今回の復刻版を含めると50年間のすべての号が揃ったことになる。この雑誌は比較的部数も多かったので古書の価格もそんなに高くないのが幸いだった。この雑誌は日本におけるロックの受容の歴史を語る上で必読の資料である。(日本文学の教員として、雑誌全号のコレクションの大切さを痛感している。インターネット以前の時代の資料は雑誌などの「物」としてあり、「物」として収集保管していかなければならないが、これがけっこう大変である。)

 2019年4月号の本編には、特集として「創刊50周年記念ランキング~2020年代への視点(3)~50年の邦楽アルバム・ベスト100」が掲載されている。あくまで「50年の邦楽」あり、ロック、ラップ、電子音楽、アイドルまで「ポップス」の枠に括られる全てが対象となった。50人の選者が各々50枚のベストアルバムを選出して集計した結果、1位から10位までは下記の通りである。


 1. はっぴいえんど『風街ろまん』
 2. シュガー・ベイブ『SONGS』
 3. 大滝詠一『ロング・バケイション』
 4. ゆらゆら帝国『空洞です』
 5. イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サバイバー』
 6. フィッシュマンズ『空中キャンプ』
 7. ザ・ブルー・ハーツ『THE BLUE HEARTS』
 8. 細野晴臣『HOSONO HOUSE』
 9. 荒井由実『ひこうき雲』
 10. サディスティック・ミカ・バンド『黒船』


 リストは100位ではなく200位まで掲載されていたが、フジファブリックは一つも入っていなかった。50人の選者の各々のリストも載っていたので探してみると、志田歩氏の43位にフジファブリック『フジファブリック』、高岡洋詞氏の46位にフジファブリック『フジファブリック』、山口智男氏の19位にフジファブリック『TEENAGER』が挙げられていた。志田氏はこの雑誌でフジファブリックの記事を書いたこともあり、作品を高く評価していた。高岡氏と山口氏はおそらく若いライターだと思われる。この三人の見識によって3枚がリストアップされた。
 50人が50枚、合計2500枚のうちの3枚である。2500枚といってもかなりの重複があり、50年の間には膨大な数のアルバムがリリースされたことを考慮すると、3枚入っていたのは喜ぶべきなのだろう、と書きたいところだが、これは多いに不満であり疑問である。志村正彦・フジファブリックのアルバムに対する正当な評価があまりにも少ないのは、現在の音楽ジャーナリズム(そんなものがまだあるとして)の視野の狭さのせいであろう。

 10位までのリストに示されているように、いわゆる「はっぴいえんど史観」、細野晴臣やYMOを中心とする評価軸が強すぎるようだ。音楽は所詮「好み」の問題であるが、音楽ジャーナリズムの評価としてあまりに偏りすぎている。また、ジャックス『ジャックスの世界』がまったく入らなかったのは、この作品が1968年リリースで対象外だったからなのだろうが、少なくともこのアルバムが入るように1968年を起点にできなかったのか。(「はっぴいえんど史観」を徹底するために1968年を除外したとも考えられるが、まあこれは勘ぐりすぎだろう)

 年初なので僕も10枚を選ぶことにした。よく聴いたアルバムを選んだだけのきわめて個人的なリストである。ただし、起点は1968年にして、順位は付けずにリリース順に記した。


    ジャックス『ジャックスの世界』1968年9月
    荒井由実『ひこうき雲』1973年11月
    四人囃子『一触即発』1974年6月
    RCサクセション『シングル・マン』1976年4月
    PANTA & HAL『マラッカ』1979年3月
    フリクション『FRICTION(軋轢)』1980年4月
    ムーンライダーズ『青空百景』1982年9月
    THE BOOM『サイレンのおひさま』1989年12月
    早川義夫『この世で一番キレイなもの』1994年10月
    フジファブリック『フジファブリック』2004年11月


 リアルタイムで聴いたのは四人囃子『一触即発』以降である。『ジャックスの世界』と『ひこうき雲』は70年代後半に出会った。フジファブリックは『アラカルト』から『CHRONICLE』までの全アルバムを挙げたいくらいだが、メジャー1作目に代表させた。
 並べてみると「ロックの歌」「ロックの詩」が好きなのだとあらためて気づく。個々のアルバムについて触れる余裕はないが、いつかこのblogで書いてみたい。

 1968年の『ジャックスの世界』から2004年の『フジファブリック』まで36年の歳月を必要とした。早川義夫・ジャックスが日本語ロックの創始者であり、志村正彦・フジファブリックが日本語ロックの可能性を極めたというのが僕にとっての歴史である。