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2020年2月23日日曜日

NHK ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」[志村正彦LN248]

 2月11日にNHK総合で放送された、ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」が、明日2月24日(月) 午前5時10分から再放送される。未見の人にとっては最後のチャンスとなるかもしれない。

 今日はこの番組とNHK甲府で制作された一連の番組について振り返りたい。再放送も多かったので時系列で整理しておきたい。


①2019.12.13(金) NHK甲府
 ヤマナシ・クエスト「若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」

②2019.12.20(金)   NHK甲府ラジオ局
 かいらじ  *関連のラジオトーク番組

③2020.1.24(金) NHK BS1(にっぽんぐるり)
 ヤマナシ・クエスト「若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」(再放送)*①にテロップが部分的に追加され、より正確な表現に修正された。このヴァージョンが保存版となるべきだろう。

④2020.2.11(火) NHK総合
 ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」

⑤2020.2.24 (月)   NHK総合
 ひとモノガタリ「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」(再放送予定)


 一連の番組の制作はNHK甲府が中心となった。NHK甲府の取材者やディレクターが時間をかけて撮影したものを二つの番組「ヤマナシ・クエスト」「ひとモノガタリ」として編集構成したのだろう。企画段階からこの二つの番組の構想があったのかもしれない。

 NHKの「ひとモノガタリ」公式サイトでは、「若者のすべて~“失われた世代”のあなたへ~」は次のように紹介されていた。


フジファブリックのボーカルとして活躍したミュージシャン・志村正彦が亡くなって10年。彼と同年代の人たちはいわゆる「失われた世代」と呼ばれ、就職氷河期の中社会に出て生きてきた。志村の曲はそんな彼らに何を残したのか?これは、一人の若者が人生をかけて残した音楽と、かつて若者だった人たちの物語。


 志村正彦の人と物語の紹介から始まり、「失われた世代」の人と物語に焦点を当てていた。番組制作者の意図は、「失われた志村正彦」から「失われた世代」への架橋を果たすことだったと思われる。

 この偶景webでは、 2015年11月2日の記事「今の子供たちの世代、僕らの世代。-『若者のすべて』19[志村正彦LN115]」で、世代論的な視点から志村正彦と『若者のすべて』について論じている。できればこのテキストを読んでいたきたいが、そこで引用されている志村の発言(「Talking Rock!」2008年2月号、文・吉川尚宏氏)をここで再掲載したい。志村は『若者のすべて』の歌詞を作る過程についてこう語っていた。


最初は曲の構成が、サビ始まりだったんです。サビから始まってA→B→サビみたいな感じで、それがなんか、不自然だなあと思って。例えば、どんな物語にしてもそう、男女がいきなり“好きだー!”と言って始まるわけではなく、何かきっかけがあるから、物語が始まるわけで、同じクラスになったから、あの子と目が合うようになり、話せるようになって、やがて付き合えるようになった……みたいなね。でも、実は他に好きな子がいて……とか(笑)、そういう物語があるはずなのに、いきなりサビでドラマチックに始まるのが、リアルじゃなくてピンと来なかったんですよ。だからボツにしていたんだけど、しばらくして曲を見直したときに、サビをきちんとサビの位置に置いてA→B→サビで組んでみると、実はこれが非常にいいと。

しかも同時に“ないかな/ないよな”という言葉が出てきて。ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない!


 「ないかな/ないよな」という「ない」の反復には、多重の無や不在の感覚が織り込まれている。自分自身、自分と他者との関係における不在や不充足の感覚を基にして、「ない」「失われた」という時代や社会の感覚に広げていく。「“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませる」とあるように、その過程を詩的表現の方法として実現させたのが志村らしい。「ないかな/ないよな」の無と不在の響きに手繰り寄せられるようして彼は『若者のすべて』の歌詞を書いた。

 志村が「失われた世代」を描こうと意図してこの歌を作ったというよりも、「ないかな/ないよな」という詩的表現によって「失われた世代」のモチーフにたどりついたということだろう。世代論的なものを意図して作られた作品はメッセージ性が強くなる傾向がある。志村の場合、直接的なメッセージは少ない。彼の歌の特質は意識的なものよりもむしろ無意識的なものを取り入れていくことにある。『若者のすべて』の「すべて」は、文字通り、「すべて」の意識的無意識的なモチーフを織り込んでいるのではないだろうか。だから結果として、志村と同世代の「失われた世代」のこころに響いていった。詩的言語は、メッセージでは「ない」ものを伝える。

 この番組について正直に書くと、志村正彦『若者のすべて』と「失われた世代」を直接的に結びつけすぎたという印象が残る。制作者は、志村正彦没後十年という時の流れから「時代」や「世代」を重視する意図を持っていたのだろう。一つの番組で表現できることには自ずから制約や限界がある。全体として言えば、志村正彦という存在を世に広く伝えることができたことは功績である。二つの番組を通じて、長い時間をかけて丁寧に取材した関係者の映像の価値は高い。片寄明人、樋口寛子、藤巻亮太、路地裏の僕たち、各地で取材した人々。彼らの発言はどれも真摯なものだった。
 なかでも、高校生バンドから「富士ファブリック」までのメンバー、ドラムス渡辺隆之・ベース渡邊平蔵・キーボード小俣梓司の証言はきわめて貴重だった。特に印象に残ったものを二つの番組からここに記しておきたい。


・『茜色の夕日』について
 自分の心として吐き出せた。歌詞もそうだしメロディもそうだし吐き出せた。 (渡辺隆之さん)
 この曲は魂があるから、この曲で自分は勝負したいってことを言っていたんで。(渡邊平蔵さん)
・富士吉田ライブに関連して
 曲だってあんだけ何曲も何曲も作り込んで。あいつが一曲作るのにどれだけ大変か見てますから。(小俣梓司さん)


 三人の言葉は、オリジナルメンバーとして身近にいた友人だからこその証言である。僕のような単なる聴き手は想像するだけであるが、このような証言によって、志村正彦の曲への想いや制作の過程をある種の実感として受けとめることができる。
 一人のファンとして、一連の制作についてNHK甲府に感謝したい。それと共に今後も、志村正彦・フジファブリックの番組を継続していただければ有り難い。
 志村正彦の人と音楽そのものについて、さらに取材し証言を集め、資料や映像を掘り起こして集大成した番組がいつか制作されることを切望している。

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