今回は、五十嵐哲也『環の国にて』第二部トコロボの重要なシーンに焦点を当てたい。四回ほど続いた五十嵐氏の作品についての批評的エッセイのフィナーレとなる。
レアは土星の衛星の氷の中にある〈宝物〉を探すための調査に出かける。
あるとき、エンケドラス内部海の大きな氷塊の割れ目から、手の平くらいの大きさのU字型の物体を見つける。おもちゃのロボットのようなものだった。
レアはその物体を〈トコロボ〉と名づけ、手話による対話を始める。
ある日レアは夢を見る。第二部SCENE 30「夢の中で」の該当箇所を引用する。
夢のなかで、自分はレアではなく、暗い海のなかでさまよういきものになっている。人の形はしているけれど、人間ではないなにか。冷たい水の底でひとりぼっちでいると、いつも自分を見つけてくれる小さな〈ともだち〉がいた。
その〈ともだち〉はレアを〈目的地〉に連れて行こうとする。けれども、その目的地にはたどりつけない。夢はいつもその手前で終わってしまうからだ。これは我々の見る夢の特質である。しかし、この日だけは特別だった。レアは目的地の〈海の底の平原〉に行くことができたのだ。
レアが上を見上げると、明るい光を投げかける生き物たちがたくさん浮かんで、あたりを照らしていた。自分たちの光を浴びて、彼らの姿は、まるで小さな白い花が空にたくさん散らばっているみたいだった。夜空の星のような、舞い散る雪のような、たくさんの花。
海の底ではたくさんの生き物が明るい光を浴びて、小さな白い花のように光っている。レアはその美しい光景を見てある洞察に至る。
レアは気付いた。そうだ、ここはトコロボの故郷なんだ。私はいま、トコロボの住む性界にいて、このともだちは、トコロボの本当の姿なんだ。私はいつも夢のなかで、この海のなかでもトコロボに会っていた。そしていつもトコロボに助けてもらつていたんだ。
レアが夢の中でたどりつこうとした目的地はトコロボの故郷だった。そして、その世界で暮らす小さな生き物がトコロボの本当の姿であった。レアはすでにある予感を持っていた。第1部SCENE 2「千億の宝石の河」の場面で、レアがふと何かを感じて、〈誰かが、この環のどこかにいるような気がした〉とあったが、この〈誰か〉とはトコロボのことだった。レアは夢から覚めた後でも夢で見たことをはっきりと覚えていて、〈この夢は、ただの夢。それとも、自分が見たのは、どこかにある現実の場所なのだろうか?〉と考える。
第二部SCENE 31「二つの世界」では、レアの世界とトコロボの世界という二つの世界の関係についてある重要なことが示される。
レアは海の底で別の生き物になる。ヒトの目では決して見えない暗い海底の光や色彩を見ること、ヒトの可聴域をはるかに超えて響く音や声を聞くことができた。自分とはまったく違った身体になり、トコロボの本当の姿である生き物に遭遇する。
レアが自分の見た夢を語り終え、デルス先生たちのミーティングに参加すると、次の仮説が生まれる。
それは、トコロボはロボットではなく、どこか別の世界に棲む生物がリモートで動かしている仮の身体なのだ。そしてレアも同じように、夢の中でその海底にある別の肉体にアクセスし、お互いが別の身体で相手の世界を訪れているのではないか。
つまり、仮の身体のトコロボと別の肉体のレアが互いに夢の中で相手の本体と交流している。レアはこの海が衛星エンケラドスの内部海だと推測する。レアが描いた夢の中の海底の風景はエンケラドス生命圏の想像図だった。
さらに、異星人〈氷売り〉が九万四千年前にここを訪れ、互いが別の身体で相手の世界を訪れる技術を残したいう仮説も生まれる。〈氷売り〉は、地球の生命とエンケラドスの生命が互いの生態系を脅かさずに相互交流できる方法として、トコロボを残していった。 レアは最終的にある結論に至る。
トコロボは〈氷売り)が作った一種の受信機のようなもので、トコロボの本当の姿は、環の国のすぐ近くをめぐる衛星エンケラドスの海の中で、仲間たちと一緒に暮らす〈トコトコ族)のひとりなのかもしれない。
衛星エンケラドスの海の中の生物〈トコトコ族〉がトコロボの本当の姿だった。
この〈トコトコ族〉は前作『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』に登場している。この作品では、トコトコはその名のとおリトコトコと歩き回る生き物で、珍しいものを探して旅をするのが大好きだった。『環の国にて』では、本体の生き物〈トコトコ〉とリモートで動かされる仮の身体〈トコロボ〉の二つに分化しているのだろう。レアは〈トコトコのひとりがレアの世界ではトコロボだった。レアは環の国とエンケドラスの海の底という二つの世界のあいだでトコロボと対話しているのだった〉と考えた。
五十嵐哲也『環の国にて』はレアの見る夢が鍵となる作品である。
筆者は芥川龍之介や志賀直哉の夢をモチーフとする作品を精神分析家ジャック・ラカンの理論に依拠して分析した論文を書いてきたが、この作品についても同様の試みをしたい。
ラカンはセミネール第11『精神分析の四基本概念』(1964)の「無意識と反復」で、フロイトを参照して、人間という主体と夢との関係について次のように述べている。
フロイトは主体に次のことを言うために主体に語りかけた、と言いたいのです。つまり、「この夢という領野、そこでこそあなたは我が家に居るのです。Wo es war, soll Ich werden.(それがあったところに、私はあらねばならない)」、と。
さらに、ラカン理論の核となる〈現実的なもの〉を導入して次のように説いている。
主体自身はそこに、つまり「それがあったところ」に――先取りして言うと、現実的なものに――自身を再び見出すために、そこに居るのです。〔……〕そしてそこに居ることを知るには、たった一つしか方法はありません。それは網目に目印をつけることです。では、網目はどうやって目印をつけられるのでしょう。それは、戻ることによって、帰ることによって、道を横切ることによってです。つまり何かがつねに同じ仕方で重なることによってです。
人間主体にとって夢は〈我が家〉である。夢は、〈現実的なもの〉とラカンによって名づけられたもの、〈それがあったところ〉である。人間主体は〈現実的なもの〉に自身を再び見出そうとする。「再び」とされるのは、主体はかつてその〈現実的なもの〉の場に居たことを暗に示している。
〈現実的なもの〉はフランス語の〈Le Réel〉の訳語だが、この語は〈現実界〉とも訳されている。ラカンの唱える〈現実的なもの〉は、私たちが生きている通常の〈現実〉とは異なる。〈現実的なもの〉は、本質的に、言語によって語ることもイメージによって描くこともできない。表象することが不可能なものである。その不可能なものを説明することは難しいのだが、引用したラカンの文脈では、〈現実的なもの〉は、人間が元々あったところ、人間が本来あるべきところ、人間が最終的に帰還すべき場所だとひとまず考えることができる。その帰還は夢の中で可能となることがある。夢の中で人間の無意識が開かれると、一瞬の幻のように〈現実的なもの〉が現れることがある。しかし、あくまでも夢の中での出来事であり、現実の中では不可能である。言語やイメージなどの意識的行為によって〈現実的なもの〉を示すことは不可能だが、無意識の活動によって〈現実的なもの〉が浮かび上がることはありえる。〈現実的なもの〉は意識によって閉じられるが、無意識によって開かれるとも言えるだろう。
主体が夢の中で〈現実的なもの〉を見出すための方法として、夢の中の〈網目〉に目印をつけることが挙げられる。ここで織物の編目という比喩が使われていることに注目したい。ラカンは夢を構成する一つ一つの要素をシニフィアンと名付けている。私たちの喜怒哀楽の経験はシニフィアンとして無意識の中に記憶され、やがて、その記憶と何らかの関係を持つような出来事との遭遇によって、シニフィアンが多様に連鎖し、イメージを形成し、夢を構築していく。
人間主体は夢を見る。そしてその夢の中で、シニフィアンの網目に目印をつけようとする。網目に目印をつけることは自らの記憶やそれに関わる出来事を想起することでもある。夢の網目の中で、進む、戻る、帰る、横切るなどの反復行為によって、〈現実的なもの〉を見出そうとする。人間が本来あるべきところに帰還しようとする。
「環の国にて」という作品の場合、レアは〈スライディング〉の技術を使って、土星の環の空間を自在に飛び回る。レアは土星の惑星の編み目をたどるようにして、上昇したり下降したり、横切ったり時に戻ったりして、空間を移動していく。夢の中では、海の底に入り、風景を眺め、生物と遭遇する。夢の中で〈目的地〉を目指して進んでいく。レアの夢の中の〈目的地〉、気配として感じた〈誰か〉がいる場所は、レアにとっての〈現実的なもの〉の場だと解釈することができる。レアは本来あるべき場、自らが帰るべき場所を意識的無意識的に目的地にして、探索の旅を続けたのではないだろうか。
レアの夢のシーンと二つの世界という仮説提示の後も、物語はさらに進んでいく。地球、富士山、故郷、スペースシャットル、手紙という重要なモチーフが展開していく。ぜひこの作品を読んでいただきたい。
最後に五十嵐氏の作品の全体を振り返りたい。
2018年の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』で、山梨の織物工場で使われていた〈シャットル〉が宇宙を旅する〈スペースシャットル〉となり、土星の衛星エンケラドスの氷の下の海に住む小さな生き物たち〈トコトコ〉に出会う物語を作り、2025年の『環の国にて』では、〈レア〉という女性が〈トコロボ〉という小型ロボットを発見し、夢の中でエンケラドスの〈トコトコ〉と遭遇する物語に発展させていった。
ハタオリとシャットル=スペースシャットルを基軸にして、地球・山梨・富士北麓と土星・環の国・エンケドラスという宇宙の空間、人間レアと未知の存在トコロボ=トコトコの遭遇と交流という要素を織り込んで、宇宙空間を舞台とするSF小説として『環の国にて』を編み出すことに五十嵐氏のモチーフがあったと言えるだろうが、筆者はレアの夢の中の出来事を語ることも重要なモチーフであったと考えている。レアの夢のシーンは非常に魅力的だ。
リモートで動かされる仮の身体のトコロボと別の肉体にアクセスしたレアが、夢の中で互いに相手の本体と交流する。夢もまた人間主体が見る仮想の世界である。夢という仮想の世界で二つの仮想の存在が遭遇するというアイディアが秀逸である。
さらに踏み込んで言うと、五十嵐氏はレアの夢を通じて、レアにとっての〈現実的なもの〉、レアが本来あるべきところ、レアが最終的に帰還するところを黒板画のイメージとして描き、物語のテクストとして語ろうとしたのではないだろうか。これは五十嵐氏の無意識な次元での創造であるかもしれないが。筆者はそのような想いにとらわれた。
黒板画というイメージ、SFのストーリーというテクストを編物・ファブリックのように織り込んで、地球・富士北麓と土星の環の国・エンケラドス、〈レア〉と〈トコロボ=トコトコ〉という二つの空間と存在を描き、語った。ラカンの理論に依拠した筆者の観点からすると、〈現実〉と〈現実的なもの〉という二つの世界を構築していった。
五十嵐哲也『環の国にて』(Life in the Rings of Saturn)は、秀麗なイメージと秀逸なテクストを融合させた真に独創的な作品である。

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