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2022年1月30日日曜日

ちょっと犬に冷たくないですか [ここはどこ?-物語を読む 11]

 以前から気になっていたことがある。「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」ということだ。

 最初に感じたのは、「ペダル」だったか。

 何軒か隣の犬が僕を見つけて
 すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり

 「ペダル」では「その角を曲がっても消えないでよ」というように、ほかに集中しているものがある状況なので仕方がないのかもしれない。でも、いったんそう思って犬に関連する詞を調べてみると、犬に対する扱いは結構厳しいような気がするのだ。

  「浮雲」の「犬が遠くで鳴いていた」「犬は何処かに消えていた」は、まあニュートラルな描写として捉えることができるが、

 遠吠えの犬のその意味は無かった(「花」)

はどうだろう。遠吠えの相手は「沈みゆく夕日」だから蟷螂の斧というか何というか、確かに吠えたって仕方ないんだけれど、でも、犬にだって吠えたくなるような、やむにやまれぬ思いがあるかも知れないではないか。 それに対してわざわざ「その意味は無かった」というのは、犬の思いをバッサリ切りすてている感じがする。

 その他、広い意味で犬が登場するのは、「Listen to the music」の「負け犬」のような比喩表現か、「surfer king」の「どうでもヨークシャテリア」という駄洒落かなのだが、どちらも犬の立場からみれば不本意な表現と言えるだろう。「負け犬」は日本語にある一般的な表現だから百歩譲るとしても、「どうでもヨークシャテリア」て、ひどくない? と特に親犬派でもない私ですら思う。

 犬についての表現はこれくらいで、決して歌詞にたくさん犬が登場するわけではないが、それでもほかの題材に比べれば登場するほうだと思う。例えば、猫は登場しない。

 そもそも志村正彦の歌詞には具体的なものを特定するような表現はとても少ない。花の歌はたくさんあるのに、具体的な名前は桜と金木犀とサボテンくらいしか出てこない。(すみれはあるけど、人の名前、しかも妄想だし)。それは志村正彦が、歌詞と聴き手との関係をどのように考えているかという重要なテーマと関わっていると思うのだが、そのことについては、またあらためて書いてみたい。

 閑話休題。

 さて、私がずっと気になっていたのは、この犬に対する冷たい感じが、私が勝手に思い描いている志村正彦像とずれていたからだ。もちろん、お会いしたこともないのだし、楽曲や著書やインタビュー記事などから想像しているだけなのだから、ずれていて当たり前である。でも、なんかずっと違和感を持っていた。

 最近になって、それが腑に落ちる出来事があった。

 隣家の黒猫は小さいうちからよく遊びに来ていて、網戸をよじ登ったりすごい勢いで庭を走り回ったりわんぱくだったが、名前を呼ぶとニャアニャア鳴いて応えてくれて、ほんとうにかわいかった。ところが、大きくなるにつれてツンツンして、声をかけても無視するか、しっぽをちょっと揺らす程度になった。今となっては、いっそふてぶてしいというような態度で目の前を通り過ぎていくこともある。それがある日、ひなたぼっこの最中、例のごとく私の声かけに気のなさそうにしっぽでトン、トンと地面を叩いていたとき、急に見知らぬおじいさんが通りかかって声をかけたのだ。別に大声でもなかったのだが、その瞬間、猫は立ち上がって家に逃げ込んだ。そうか、あんなふうでも猫は猫なりに隣のおばちゃんに親しみを感じていて、めんどくさいと思いながらもあしらってくれていたんだな、とその時に気がついた。

 それでわかったのである。「ペダル」で何軒か隣の家の犬が僕にじゃれてくるのは、ふだん僕がその犬をかわいがっているからだ。もし普段から邪険に扱っていたら、すり寄ってきたりしない。

 そう考えると、「花」の「遠吠えの犬」だって、むしろ自分を犬と重ね合わせているからこそ、「その意味は無かった」と表現しているのかも知れない。時の流れとともに変わり、失われていくものを、どんなに惜しんでも嘆いても押しとどめるすべはない。そのことを犬と共有していると考えると、むしろ犬はかなり近しいものなのかも知れない。だからこそ自分に厳しいという意味で、犬にも厳しくなるのだ。 

 というわけで、私がずっと気になっていた「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」は、どうやら私の思い込みだったらしい。 勝手に思い込んで、勝手に安堵している今日この頃である。

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