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2021年10月31日日曜日

富士吉田を歩く、ハタフェス・黒板当番さんの絵・「ペダル」[志村正彦LN295]

 昨日10月30日、大学の担当授業「山梨学Ⅱ」で地域活性化の先進的な試みを実際に見て学ぶために、受講学生20名とバスに乗って、富士吉田の「ハタオリマチフェスティバル」に行ってきた。一昨年は台風、昨年はコロナ禍で中止となったので、2018年以来の三年ぶりの開催だった。ハタオリマチフェスティバル、通称「ハタフェス」は、山梨県富士吉田市の街の中で開催する秋祭り。二日間、小室浅間神社と本町通り沿いの各会場で、山梨のハタオリの生地や製品を販売したり関連のイベントをしたりするマチフェスである。

 10時頃、駐車場の富士吉田市役所に到着。2020年12月にリニューアルされた庁舎の壁画を初めて見る。ハタフェスのデザイン画も描いているテキスタイルデザイナーの鈴木マサルさんの作品。配色が素晴らしい。ポップでロックだ。この絵がハタフェスの招待状(招待画?)になっていた。



 僕、アシスタント学生2名、受講学生20名の一行二十数名がぞろぞろと街を歩き始めた。担任に率いられた遠足のような集団で少し気恥ずかしくもあったが、この日は快晴で、ところどころ紅葉も進み、富士山も美しく、歩くのは清々しかった。コロナ禍でこのような外出の機会も少ない学生にとっては貴重な時間となった。

 全員で歩き、入り口の会場で検温検査をしてシールや資料をもらい、本町通り沿いの各会場を確認しながら、メイン会場の小室浅間神社に到着。すでにたくさんの人が集い、活気がある。〈おかえりハタフェス〉といった感じだ。この授業では昨年も一昨年も見学する計画だったのだが、中止となってしまった。ようやく実現できてほんとうに良かった。(主催者や協力者の方々に感謝を申し上げます)

 三つにグループを分けて記念写真を撮った。グループ別に見学し、その後三時間ほど各自のテーマによる自由見学という流れにした。僕もこの自由見学の時間に久しぶりに富士吉田の街を歩くことにした。小室浅間神社近くの志村正彦ゆかりの場所へと向かう。何年ぶりのことだろうか。小さなコートで子供たちがサッカーの指導を受けていた。「記念写真」の一節がメロディーと共に浮かんでくる。〈ちっちゃな野球少年〉ではなく〈ちっちゃなサッカー少年〉がボールを追いかけていた。

 それから会場の一つ「FUJIHIMURO」に行った。その後、本町通り沿いに各会場を回った。ところどころで路地に入り、回り道をしてひたすら歩く。この際、ハタフェスと富士吉田の街を歩くことを堪能しようとした。途中で学生たちと何度か出会った。最近開店したカフェの店主にインタビューしている学生もいた。スライド作成のための取材だ。頼もしい。この後、各自が作ったスライドの発表会が予定されている。この授業「山梨学Ⅱ」の最終課題は、自分が自分の街のフェスティバルや活性化のための具体策を計画して提案するというものだ。ハタフェスの先進事例として学んだ上で、自分自身が主体的に考えていくことを重視している。

 僕は会場の一つ富国生命ガレージで黒板当番さんのミニギャラリーを見た。以前から黒板当番さんのTwitterで作品を拝見していたのだが、二週間ほど前、仕事の関係でお会いした人が黒板当番さんご本人だということをたまたま知った。黒板当番さんも偶景webを読んでいただいているようで、話をしている内に、僕が偶景webの主宰者だと分かったようだ。結局、お互いに「あなたでしたか」ということになった。山梨は、いや世界は(とあえて言おう)、狭いのである。

 ハタフェスで彼の作品が展示されることを知ってから、この日を愉しみにしていた。ミニギャラリーにはインクジェットプリンターで印刷した60枚のミニ黒板が並べられていた。志村正彦をテーマとする12枚の絵もあった。小さなものには小さなものゆえの存在感がある。

 この後、ネットで見た『ペダル』が展示されている富士山駅の「ヤマナシハタオリトラベル MILL SHOP」に向かった。本町通りは車では何度も通ったことがあるか、長い距離を歩くのは初めてだ。上り道がずっと続く。この日は快晴ゆえに日差しも強かったので、思っていたよりも暑い。寒さを予想して厚着だったので余計にこたえた。

 富士山駅に到着。駅ビル1階のMILL SHOPへ。ハタオリ紹介番組を流すモニターの横に『ペダル』の黒板。椅子に腰かけてしばらくの間眺める。チョークアートの技法はまったく分からないが、チョークのチョークたる所以である、何というのだろう、あの筆触が活かされている。チョークが黒板に接触する際に、チョークの粉がかすれ、消えていく感触が残っている。黒板当番さんの絵が素敵なのは、この擦れて消えていくものが幾重にも重ねられていくところにあるのだろう。擦れて消えていくものは、志村正彦が繰り返し歌ったモチーフでもある。

 『ペダル』の絵は主に、上側に志村正彦、下側に犬の二つのオブジェで構成されている。(黒板当番さんに快諾していただいたので、画像を添付したい)



 歌詞では〈何軒か隣の犬が僕を見つけて/すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり〉というように犬が登場する。絵の中の犬は微笑むようにして、〈僕〉を見ている。とても可愛い。その上に描かれている志村は〈ちょっと面倒〉そうに横を向いているが、内心はどうなのだろうか。この絵には他に、富士吉田の街並、空、飛行機雲の線、だいだい色とピンクの花、角を示すミラー、昭和風の喫茶店、スニーカーを履いて歩く〈僕〉の足下と、『ペダル』の世界が忠実に反映されているのだが、女子高校生らしい人物が自転車を漕ぐ後ろ姿が目を引く。歌詞の中ではこのような像としてはっきりと描かれてはいないが、黒板当番さんはおそらく、〈あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ〉と歌われる〈消えないで〉の対象を自転車に乗る女子高校生だと解釈したのだろう。これは卓見である。絵を描く人の想像力がなせる技でもある。黒板画のマチエールそのものもこの題材に適している。(この部分を拡大した画像も添付させていただく)

 白色の花と白色のブラウスが溶け合っていく。自転車を漕ぐ彼女はどこに向かっているのだろうか。彼女の眼差しの向こうには何があるのだろうか。




 もう八年ほど前になるが、〈『ペダル』1「消えないでよ」(志村正彦LN12)〉で次のように書いた。    

 「消えないでよ」という謎めいた表現がいきなり登場する。いったい何が「消えないで」なのか、分からない。「あの角」も具体的な像が浮かばない。通常の流れを考えると、「まぶしいと感じる」「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」が「消えないで」ほしい対象と考えられるが、「花」に限定しまっていいのか、心もとない。あるいは隠喩と考えるのなら、「虹」のようなものか、あるいは「平凡な日々」や「毎回の景色」という出来事や風景、そこにうつりゆくものなのか、あるいはそれらの対象をすべて包み込むような何かなのか。

 聴き手がそれを絞りきれないまま、「消えないで」ほしい対象への「僕」の強い想い、その対象に対する呼びかけとそのリフレインが、聴き手の心にこだましてくる。分からないままに、「消えないでよ」という言葉そのものが「リアルなもの」として響いてくる。「消えないで」と願う対象をあえて明示しないことが、歌詞の中の空白部をつくり、聴き手の想像を広げるような作用をしている、とひとまずは言えるだろうか。

 続く〈『ペダル』2「僕が向かう方向」(志村正彦LN13)〉ではこのように展開した。

  「僕」が歩いているとすると、「駆け出した自転車」に「追いつけない」のは「僕」だという解釈も成り立つ。誰かが漕いで「駆け出した自転車」を僕は歩いて追うが、「いつまでも追いつけない」という状況だ。そうなると、「僕」が「消えないでよ」と願う対象はこの「自転車」だとも考えられる。しかしあくまでも、「僕」が「自転車」に乗っていると考える場合は、「僕」が「いつまでも追いつけない」対象は、「消えないでよ」と願う対象と文脈上同一のものになるだろう。

 この第二ブロックの場合、最初に現れた「飛行機雲」が「消えないで」の対象とすることもできる。現実的にも、「飛行機雲」はごく短い時間の移動では消えないが、やがて消えてしまう自然の現象である。第一ブロックの「花」も、より長い時間の間隔ではあるが、その色の輝きがやがて失せてしまうものである。そう考えると、歌詞の展開通り、「花」や「飛行機雲」が「消えないでよ」と願う対象にあげられてよいのだろうが、それだけに限定するのはこの歌の世界の広がりや漂う感覚にそぐわない気がする。やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか。


 以前の考察でも〈消えないでよ〉の対象として〈自転車〉を挙げてはいるのだが、そこで終わってしまっている。誰が自転車に乗っているのかという想像することはできなかった。このときは、〈やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか〉と考えて、具体的なものを追究することを避けたのだろう。

 それに対して、黒板当番さんは〈自転車を漕ぐ女子高校生の後ろ姿〉という具体的なイメージを描いている。この『ペダル』そしてアルバム『TEENAGER』全体、もっと広く言うのなら、志村正彦・フジファブリックの全作品を通じて、〈消えないでよ〉と歌われる存在がある。その具体像の一つとして、女子高校生もあげられる。実際にフジファブリックの「桜の季節」「赤黄色の金木犀」「銀河」などのミュージックビデオには、制服を着た女子高校生らしき女性が登場している。いくぶんかは不可思議で奇妙な雰囲気を伴って、ではあるが。黒板当番さんのこの図像からは、ティーンエイジャーらしい凜とした後ろ姿が漂ってくる。

 そもそも以前の考察では、〈花〉〈虹〉〈平凡な日々〉〈毎回の景色〉〈飛行機雲〉〈自転車〉、歌詞で歌われたすべての情景を〈消えないでよ〉の対象にしている。この対象を〈歌詞の中の空白部〉として捉えているからだろう。言葉で表現する場合、このように概念化したり抽象化したりすることがある。この種の概念化や抽象化はある種の逃げになることもある。(筆者もそのように逃げることがある、とここに書いておかねばならない)しかし、絵を描く場合は、具体像として(抽象的な像もあるだろうが)描出しなければならない。「ペダル」の黒板画を見て、文章と絵画の違いということも考えることになった。


 志村正彦は「ペダル」を歩行のリズムで作ったと述べたことがある。昨日、「ハタフェス」開催中の富士吉田の街を三時間ほど歩いた。若者を中心に沢山の人がハタフェスに集っていた。学生がメモを取りながら見学していた。機織の生地や製品がいたるところに並べられていた。秋の季節。快晴の青空。紅葉。綺麗な雪景色の富士山。富士山駅で黒板当番さんの「ペダル」の絵を見て、記憶の中の「ペダル」を再生した。帰りはなだらかな下り坂。下吉田の街とその向こう側の山々が見えた。歩きながら歌詞の一節を口ずさんだ。

 歩くことによって見えてくるものがある。
 その光景のすべてが〈消えないでよ〉、そう思わずにはいられなかった。


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