カフェ「A Brasileira」の角を曲がり、ゆるやかな坂を上っていく。ロシオ駅を目指して右折すると下り坂が始まる。その途中で偶々、妻がフェルナンド・ペソアのシルエットが窓に描かれた建物を見つけた。垂れ幕を見ると、彼が借りていた部屋のようだ。(調べると、1908年から数年の間住んでいたらしい)
思いがけない場所にペソアゆかりの建物がある。
この建物は小さな広場に面している。大きな樹の木陰が広がり、オープンカフェもあり、人々が涼を求めていた。(ここが「カルモ広場」ということは後で知った。近くにカルモ修道院と教会もある)
『不安の書』111章にはこう書かれてある。1932年5月31日の日付けがある断章だ。この広場のことではないのだろうが、街中の小さな広場に対する話者ソアレスの眼差しが伝わってくる。
わたしが春の訪れを感じるのは、広々とした野や大きな庭にいるときではない。都市の小さな広場の貧弱な数少ない樹々にそれを感じる。そこでは緑が贈り物のように際立ち、馴染んだ悲しみのように陽気だ。
往来の少ない街路に挟まれ、それよりも往来の少ない、そのような寂しい広場をこよなく愛する。遠くの喧騒のなかにじっと佇む、無用の空き地なのだ。都市のなかの村という趣だ。
「無用の空き地」への情愛、「都市のなかの村」の情趣。その世界に浸り込みながら、話者はこう考える。
すべては無用で、わたしはその無用さに打たれる。わたしの生きたことは、まるでぼんやりと耳にしたことのように忘れてしまった。わたしがこれから変わってゆくことはすべて、すでに体験して忘れてしまったことのように何も呼び起こさないのだ。
淡い悲しみを感じさせる日暮れがわたしのまわりをぼんやりと漂う。何もかも寒くなるが、空気が冷えたからではなく、わたしが狭い街路に入り、広場が終わったからだ。
これまで 「わたしの生きたこと」を忘れ、「これから変わってゆくこと」も「すでに体験して忘れてしまったこと」のように忘れていく。「わたし」の生は、過去、現在、未来と続いていくが、過ぎ去ればつねに忘却していく。さらに言うのなら、すでに忘却していくことの反復にすぎない。時はつねにすでに「何も呼び起こさない」。
ソアレス=ペソアの表現をたどりきれているか心もとないが、この特異な思考は記憶されるべきだろう。その思考が「淡い悲しみを感じさせる日暮れ」の風景とともにもたらされたことも。
再び歩き始める。広場に面した店の一つが楽器店で、ポルトガルのギターが飾られていた。「ギターラ」と呼ばれる12弦のギターはファドの音色には欠かせない。
広場を後にして、ロシオ駅の方に下っていく。急勾配の坂で歩きにくい。途中にあった小さな書店でもペソアの写真が貼られていた。街を歩き、ふっとそれ風のものを見つけると、ペソアだったということが多い。
ロシオ駅に着くと午後7時近くになっていた。もう一度コメルシオ広場あたりまで戻り、ペソアゆかりのレストランかファドを聴ける店を訪れたかったのだが、かなり疲れてしまった。翌日は早朝出発で帰国便に乗らねばならない。結局、その計画はあきらめた。
駅の入り口近くは見晴らしのいい場所だ。ロシオ広場の周辺の街を見渡せる。向こう側にはサン・ジョルジェ城がそびえる。
夜が近づいているのに、空はまだ透き通るように青く、街は美しい。
フェルナンド・ペソアゆかりの場所を巡る小さな旅の一日だった。
最初は、ツアーバスでホテルから西の郊外ベレン地区を訪れ、アルファマを経てロシオ広場へ。二度目は、ロシオの隣のフィゲイラ広場からタクシーに乗り、市街地の西のはずれにあるオウリケ地区へ。路面電車28番線を使いフィゲイラ広場近くに戻った。最後は、フィゲイラ広場からバイシャ地区、シアード地区を歩いて回り、ロシオ駅に帰ってきた。中心街から見て、その西側の方面を三回ほど同心円状に巡ったことになる。遠い距離から近い距離へと、色々な交通機関や徒歩によって、リスボン巡りをした。私たちに与えられた時間は一日だけだったが、愉しい充実した時を過ごせた。
ジェロニモス修道院、ペソアの家・博物館、カフェ「A Brasileira」、カルモ広場近くの部屋。使用したリスボンの交通カードにも彼のイラストが描かれていた。街のいたるところに彼の痕跡があり、異名のような分身が存在していた。フェルナンド・ペソアの「偶景」との遭遇があった。
ペソアはリスボンを愛していた。今、リスボンはペソアを愛している。
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