2023年11月10日金曜日

甲府H組首位! ACL第4節、ヴァンフォーレ甲府VS浙江FC(中国)

  11月8日、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)グループリーグ第4節、ヴァンフォーレ甲府(日本)VS浙江FC。

 第2節と同様、仕事を終えてから甲府駅で特急に乗り、国立競技場へ。開始30分前になんとか到着。いつもギリギリ感がある。

 入場ゲートに向かう途中で、おもいがけなく佐久間悟社長と出会い、固く握手して、VF甲府の大健闘を讃えた。五月、佐久間社長を山梨英和大学の「山梨学」の招聘講師として招いて、「スポーツによる地域活性化-ヴァンフォーレ甲府のチャレンジ」というテーマで講義をしていただいた。今年で5年目になるが、毎回、講義内容はヴァージョンアップされている。2023年のテーマは、持続的で堅実な地域活動と共に、天皇杯優勝によるACL参加、山梨からアジア・世界へとVF甲府を発展させていくものだった。これまで大変な苦労があったと思われるが、今のところ、ACLは試合内容も観客動員も大成功だ。これは佐久間社長の手腕によるところが大きい。


 10月4日の第2節は雨だったが、この日は快晴。昼間は暑かったが夜になると涼しくなり、サッカー観戦にふさわしい気候だ。入場前に照明が落とされると、たくさんのサポーターが持ってきたペンライトの青の光が点灯される。美しい青の光がゆれながら輝いている。一緒に来た妻も童心に帰ったようにライトを振っていた。みんな楽しそうだ。フルハイビジョンの大型モニターに映像が映し出され、キックオフが近づく。国立競技場が光きらめく祝祭の舞台へと変わる。



 甲府は浙江FCとの第3節アウェイゲームで0:2で敗れた。この日も最初は少し守勢だったが、次第に攻勢をかけ、18分、ピーター・ウタカが綺麗にパスするようにしてゴール!大喜びしたのだが、オフサイドの判定。しかしVAR(ビデオ判定)でゴールが認められ、再び大喜び!!。結果として二度の歓喜を味わうことができた。J2リーグにはVARは導入されていないので、感謝、感謝。前半終了間際にも、ジェトゥリオが跳び蹴りのようにシュート、2点目をあげた。2点共に鹿島アントラーズから復帰した中村亮太朗のスルーパスによるもの。彼は攻守の切り換えの要となっている。飯島陸も大活躍。前線での追い回しが強力だった。宮崎純真も右サイドからの起点となった。攻撃全体のリズムが素晴らしかった。

 後半はさらに勢いを増した。後半5分PKで一点を失ったが、13分にキャプテン関口正大の豪快なゴラッソゴール、終了間際にも交代で入った鳥海芳樹が落ち着いて4点目を決めた。4:1で試合終了。センターバックの井上詩音、エドゥアルド・マンシャがほぼ完璧と言える仕事をした。山梨県出身のサイドバック小林岩魚の献身的な動き、林田滉也の堅実な守備、GKマイケル・ウッドの安定したセーブ(PKを与えたのはアンラッキーだったが)。この日の先発組は井上と中村以外は基本としてターンオーバーメンバーだが、素晴らしいパフォーマンスだった。

 VF甲府は勝ち点7(2勝1分け1敗)となり、総得点によってH組首位に浮上した。二十数年の応援歴の中でも、この試合は楽しさ、華やかさという点でベスト1と言ってもよい。YoutubeのDAZN Japan映像【ヴァンフォーレ甲府×浙江FC|ハイライト】を添付させていただく。



 入場者も12,256人と増えた。経営的にも素晴らしい数字である。今回も前回と同様、Jリーグの他チームサポーターが応援に駆けつけてくれた。しかも、磐田、千葉などJ2で昇格を争っているチームのサポを見かけた。ACLは別のカテゴリーとして応援してくれる。これはとてもありがたく、うれしい。

 Jリーグチームを愛する者の間でこのような〈連帯〉が生まれたのは、閉塞感のあるこの時代において、とても開放的、解放的な試みである。この貴重な〈絆〉をこれからも大切にしていきたい。
 

2023年11月5日日曜日

『虫の祭り』の音と声 [志村正彦LN339]

 十月末、「山梨学」の授業の一環として学生三〇人と一緒に、富士吉田のハタオリマチフェスティヴァルに行ってきた。例年より人も増えて、かなりの賑わいを見せていた。 

 公式サイトを見て、このフェスが秋祭りだということを初めて知った。秋祭りは収穫を祝う祭り。秋と祭りという組合せが、志村正彦・フジファブリックの「虫の祭り」を想い出させた。


 フジファブリック『虫の祭り』(作詞・作曲:志村正彦)は、2004年9月29日、3枚目シングル『赤黄色の金木犀』のB面曲・カップリング曲としてリリースされた。四季盤〈秋〉のB面曲として位置づけられる。歌詞の全文を引用しよう。

  

どうしてなのか なんだか今日は
部屋の外にいる虫の音が
祭りの様に賑やかで皮肉のようだ

その場凌ぎの言葉のせいで
身動き出来なくなってしまった
祭りの様に過ぎ去った 記憶の中で

「あなたは一人で出来るから」と残されたこの部屋の
揺れるカーテンの隙間からは入り込む虫達の声

どうしてなのか なんだか今日は
部屋の外にいる虫の音が
花火の様に鮮やかに聞こえてくるよ

にじんで 揺れて 跳ねて 結んで 開いて
閉じて 消えて

「あなたは一人で居られるから」と残されたこの部屋の
揺れるカーテンの隙間からは入り込む虫達の声

 

 歌の主体は〈どうしてなのか なんだか今日は〉と問いかける。志村正彦の歌詞によく見られる問いの形だ。〈虫の音〉が部屋の外から聞こえてくる。部屋の中にいる歌の主体はその音を〈祭り〉のように賑やかに感じ、〈皮肉〉のように受けとめる。〈皮肉〉は、遠まわしの非難のようなものか、思いどおりにならないことの喩えなのか。どちらにしろ、この〈虫の音〉に、いくぶんか引き裂かれるような想いを抱いている。

 季節は秋。〈虫の音〉が聞こえてくる時期。秋祭りとの関連で〈祭り〉のようだと感じたのかもしれない。

 〈その場凌ぎの言葉のせいで/身動き出来なくなってしまった〉と、言葉をめぐる想いが語られる。〈祭りの様に過ぎ去った 記憶の中で〉とあるので、記憶の中にある言葉なのだろう。

 誰かが〈「あなたは一人で出来るから」〉と歌の主体に話しかけた言葉は、遠く、遠くから、過ぎ去った過去から聞こえてくる。続く〈と残されたこの部屋の〉という表現は、その誰かの言葉が記憶に残されたこと、歌の主体が一人でその部屋に取り残されたこと、その二つの意味が重ね合わされている。〈揺れるカーテンの隙間〉とあり、部屋の窓は開け放されている。そこから入り込む〈虫達の声〉と〈あなた〉と語りかける記憶の中の声が混ざり合う。

 歌詞の二番では、〈虫の音〉は〈花火〉のように鮮やかに聞こえる。この〈花火〉もまた歌の主体にとっての大切な記憶に関わるものだろう。そして、誰かの語りかけは〈「あなたは一人で居られるから」〉となる。〈一人で居られる〉の方が〈一人で出来る〉よりも強い意味を持つ。この〈一人で居られる〉は〈二人で居る〉と対比される表現だ。おそらく、〈あなた〉と語りかける人と語りかけられる人との別離という意味が込められている。

 A面曲『赤黄色の金木犀』でも、〈もしも 過ぎ去りしあなたに/全て 伝えられるのならば/それは 叶えられないとしても/心の中 準備をしていた〉〈期待外れな程/感傷的にはなりきれず/目を閉じるたびに/あの日の言葉が消えてゆく〉という言葉をめぐるモチーフが歌われている。歌の主体は〈あなた〉という二人称を使っている。B面曲 『虫の祭り』では、歌の主体は〈あなた〉と呼びかけられている。この関係性が興味深い。


 〈「あなたは一人で出来るから」〉と〈「あなたは一人で居られるから」〉という二つの言葉は、鉤括弧の引用符で囲まれている。志村正彦の全歌詞の中でも、誰かの具体的な発話が引用されているのはこの歌だけである。

 おそらく、この二つの言葉は、作者の志村正彦が実際に聞いて、受けとめたリアルな言葉ではないだろうか。非常に現実感のある言葉だ。根拠はないのだが、その言葉が記憶に残されたことも、一人でその部屋に取り残されたことも、志村の実体験のような気がする。

 

 歌詞の言葉を形式的に分析しても、この歌の抒情の魅力を伝えることができない。

 志村の言葉が〈にじんで 揺れて 跳ねて 結んで 開いて/閉じて 消えて〉いく。その後で一分ほど続くアウトロのコーラスが、限りなく切なく、限りなく儚い。

 志村正彦の歌の世界では、言葉になるものと言葉にならないものとが限りなく滲んでいく。 


2023年10月15日日曜日

植物、享楽、無限の痛み―「赤黄色の金木犀」[志村正彦LN338]

 数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い。この地では例年、九月の二十六日頃に香りはじめる。春、夏、秋、冬の四季というよりも、暑い、寒いという二つの季節に変わってきたというのが大方の実感であろう。その影響で、秋という季節が失われてきた。金木犀の花もどこか寄る辺がない。香りも微かに漂うだけだ。

 現実の季節の変容にもかかわらず、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」は確かな初秋の季節感を伝えている。


 赤黄色の金木犀の香りがして
 たまらなくなって
 何故か無駄に胸が
 騒いでしまう帰り道

 

 歌の主体〈僕〉は、〈金木犀の香り〉を身体で受けとめ、たまらなくなる。抑えがたい何かにとらわれる。〈何故か無駄に〉記憶の中の何かが回帰してきて〈胸が騒いでしまう〉。〈帰り道〉とあるのは、〈僕〉が実際に歩く〈帰り道〉であると同時に、過去の記憶への〈帰り道〉でもある。〈過ぎ去りしあなた〉と〈金木犀〉の記憶。〈香り〉の〈記憶〉への〈帰り道〉を〈僕〉は歩むことになる。

 香りは直接身体に作用する。香りの物質が鼻膣内の細胞を刺激したときに起こる感覚だ。身体にとって直接の享楽ともなる。

 

 精神分析家の新宮一成は、「夢と無意識の欲望」という論考で、聖書の「野の百合」の喩えについてのジャック・ラカンの言及を引用して、次のように述べている。(『無意識の組曲』岩波書店1997)

 

 ラカンはこの一節に触れてこう言っている。「野の百合、我々はそれを、すみずみまで享楽にゆだねられた、一つの体として想像してみることができる。……植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう。」(ラカン『セミネール第十七巻』)。ラカンにとって、植物が「享楽」を体現しているとすれば、動物は「快感」を体現している。精神分析では「享楽」と「快感」をはっきり区別しなければならないというのが彼の考えであった。動物というものは、「無限の痛み」のような享楽が最小限になるように、場所を移動する。それが動物特有の、快感原則に沿った暮らし方なのである。人間もその例外ではない。その中で、この暮らし方の外に出ようと意志する人のみが、自分をむち打って、苦行の中で植物のように暮らそうとするのである。

 

  〈植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう〉という文を理解することは難しいが、ラカンの言葉は読む者に作用する。「野の百合」が喩えであるように、喩えの表現として受けとめてみたい。喩えは連鎖させることができるだろう。


 志村正彦「赤黄色の金木犀」とラカンのこの言葉を意味や論理の関係として結びつけることはできないが、直感として連鎖するところがある。

 〈赤黄色の金木犀〉も〈無限の痛み〉のようなものとして咲いている。〈無限の痛み〉のように香っている。


 この曲を聴いていると、いつも、どこか、かすかに、痛みのような感覚におそわれる。


2023年10月8日日曜日

夢の空間、夢の時間。10月4日国立競技場、ACL 甲府VSブリーラム。


 夢の空間だった。


 10月4日、国立競技場でAFCチャンピオンズリーグ(ACL)グループリーグ第2節、ヴァンフォーレ甲府(日本)VSブリーラム・ユナイテッド(タイ)の試合が開催された。

 仕事を早く終えて、午後3時半頃、車で甲府駅に向かう。ところが駅前の駐車場は満車、満車、満車。こんなことはありえないのだが、国立競技場に行くサポーターが駐車したことに気づく。読みが甘かったと痛感。十数カ所回って、やっと一台空いているところを見つけた。駆け足で駅へ。新宿行きの「かいじ」に乗れたのは発車2分前、ぎりぎりセーフだった。

 国立競技場に到着したのは午後6時半頃、キックオフ30分前。すでに練習が始まり、サポーターの大音量の応援がこだましていた。雨が降っているので、空気に湿気があり、声が響く。新しい国立は屋根があるので、全体が反響板のようになって声が広がる。サポーターの声の音圧がすごい。

 照明が最新テクノロジーが使われているようで、ピッチがとてもクリアに見える。大型ビジョンの映像も綺麗だ。陸上競技用のトラックがあるので、客席からの距離はあるのだが、素晴らしい照明のおかげで、選手が近く見える。どのように表現したらよいのだろうか。視界のなかでピッチが浮き上がってくる、とでも言えるだろうか。雨が降る夜。その闇のなかでこの場だけはとてつもなく明るい。夢を見ているような感覚だった。


 試合開始。甲府は組織的に中盤でのプレスをかける。チャンスを作るものの精度を欠くために得点には至らない。ブリーラムは前線に強力な外国人フォーワードがいて、ときどき決定機を作ったが、何とか甲府が守り切る。そういう展開が終盤まで続いたが、後半のロスタイムに入る間際、クリスティアーノのクロスに長谷川元希が頭で合わせると、ボールがゴールに吸い込まれていった。だが、ゴールが入った瞬間の記憶は消えている。喜びが体を駆け回って、わけがわからなくなった。甲府側のスタジアム全体がゆれていた。ロスタイムを守り切って、1対0で試合勝利。

 ブリーラムは外国人選手や日本でも活躍したティーラトンを始めとして選手の質が高い。サポーターは百人ほどだったが、声も太鼓の音もけっこう聞こえてきた。試合後、甲府の選手が挨拶に向かったのは、国際試合らしい親善の感じがあった。サッカーでもノーサイドの精神が重要だ。


 YouTubeのDAZN Japanチャンネルに日本の動画がアップされているので紹介したい。

 〈【ヴァンフォーレ甲府×ブリーラム・ユナイテッド|ハイライト】〉は8分ほどのハイライト映像。



  〈【ピッチサイドVLOG】J2甲府がアジアの舞台で歴史的な勝利!『ACL GS第2節』甲府vsブリーラムの様子をピッチサイド視点で!〉には、試合前の両チームサポーターの様子も撮されている。




 甲府のフロントは、『Jサポに次ぐ、#甲府にチカラを』というメッセージで他のJリーグクラブのサポーターにも応援を呼びかけた。新宿と渋谷駅にはこのメッセージを載せた大きなポスターを掲示した。この呼びかけに応じてくれたたくさんの他チームサポーターが応援してくれた。ほんとうにありがたい。甲府は日本のJ2チームの代表としてACLを闘う意味あいもあったので、この試みは今後にもつながるだろう。

 観客数は1万1802人。動員としては大成功だった。しかし、甲府のホーム、小瀬スポーツ公園陸上競技場がACLのスタジアム条件を満たしていないために、東京の国立競技場での開催となった経緯を考えると、単純には喜べない状況もある。キャプテンの関口正大も甲府で小瀬で試合をしたかったと話していた。十数年前から甲府の新スタジアム、「山梨県総合球技場」の構想があるのだが、実現に至っていない。この日の国立競技場は夢の空間だったが、総合球技場の建設が順調に進めば、この新しい場が夢の空間になるはずだった。甲府のHPには「夢みる総合球技場」という特設サイトがある。今は一人のサポーターとしてこの夢を見続けるしかできない。これも現実である。


  帰りのタイムリミットがせまっていたので、勝利の余韻にひたることもできないまま国立競技場から帰路を急いだ。午後10時新宿発「かいじ」は甲府サポーターで満席となっていた。12時に帰宅。8時間ほどのACL甲府応援の旅が終わった。この二十数年を振り返ると、2023年10月4日のACL国際試合での初勝利は、2005年12月10日のJ1初昇格、2022年10月16日の天皇杯初優勝に続く記念すべき日となった。


 夢の時間だった。

 


2023年9月17日日曜日

ヴァンフォーレ甲府にチカラを! ACL「真っ向、アジア」

  ヴァンフォーレ甲府のACLでの闘いがいよいよ始まる。9月20日、オーストラリア・メルボルンでアウェイの試合、10月4日、東京の国立競技場でホームの試合が開催される。山梨という小さな県の経営的にも小規模のJ2チームが、海を越えて、アジアの大舞台に登場する。添付画像にあるように「真っ向、アジア」。畏れるものもなく、失うものもない。純粋にサッカーによって、オーストラリア・タイ・中国のチームや人びとと交流することができる。



 ACLは、アジアサッカー連盟(AFC)主催の「AFCチャンピオンズリーグ」の略称。2023年9月からグループリーグがスタートし、2024年5月に決勝が行われる。VF甲府の全日程は以下の通り。全試合がDAZNで放送される。


① 9.20(水)19:00 アウェイ:Melbourne Rectangular(オーストラリア) 
   メルボルン・シティVS 甲府 

② 10.4(水)19:00 ホーム:国立競技場 
   甲府VS ブリーラム・ユナイテッド  

③ 10.25(水)19:00 アウェイ:Huzhou Olympic Sports Center(中国) 
   浙江FC VS 甲府  

④ 11.8(水) 19:00 ホーム:国立競技場 
     甲府 VS 浙江FC   

⑤ 11.29(水)19:00 ホーム:国立競技場
     甲府 VS メルボルン・シティ  

⑥ 12.12(火)19:00 アウェイ:Buriram Stadium(タイ) 
       ブリーラム・ユナイテッドVS 甲府   



 AFCの公式ページには、VF甲府のレジェンド山本英臣の記事も掲載されている。WED, 13 SEPTEMBER, 2023 〈Ventforet legend Yamamoto ready to cherish AFC Champions League™ experience〉こういう記事を読むと、甲府がアジアで闘う実感がわいてくる。


 佐久間悟社長は「山梨日日新聞」2023年9月5日付の記事で、ACLに出る意味と目標を次のように述べている。


「存続の危機を乗り越え、サポーターや山梨県サッカー協会、行政ら多くの人に支えられてきた。Jリーグの中で地方クラブのモデルケースとなり、昨季に天皇杯を優勝して出場できる。県民や県ゆかりの皆さまとともに出るということはあるが、同時に今まで関わりのない東京や首都圏の人にクラブを知ってもらえる」

「試合の設営や戦い方などでVF甲府らしさを表現し、『面白いね』と思われればいい。ローカルなクラブから全国、世界へ一歩を踏み出すようなきっかけにしたい」

「国立競技場で行うホームゲームの観客動員数は平均1万人を超えたい。県民にとっては交通費もかかり、(チケット価格を抑えて)多くの人に娯楽としてフットボールを楽しんでもらいたいと考えた。みんながスタジアムに足を運び、一体感をつくる場にしたいし、それがクラブの目指す方向」


 本来は山梨県でホームゲームを行うのだが、小瀬スポーツ公園陸上競技場(JIT リサイクルインク スタジアム)がACLのスタジアム基準を満たしていないので、代替として国立競技場になった経緯がある。かなり前から新しい総合球技場(サッカー等の専用スタジアム)建設の構想があるのだが、まだ実現に至っていない。極めて残念なことだが、佐久間社長が言うように、東京や首都圏の人が観戦や応援をしてくれるというポジティブな価値もある。チケット価格は、プレミアムシートは別として、通常のシートのカテゴリー1~7までが5,000円~2,000円と国立競技場開催の国際試合としては破格の安さである。

 10.4(水)のチケットの先行販売(シーズンシート個人会員やヴァンクラブ会員向け)が昨日から始まったので、私も早速チケットを購入した。夕方仕事を終えてから国立に向かう予定だ。一般の発売は9月23日からで、Jリーグチケットなどで購入できる。


 佐久間社長は先ほどの記事の終わりでこう述べている。

「みんなでVF甲府を応援してもらいたい。国立競技場だからいってみようかなという、他クラブのサポーターもいると思う。そういう人も含め、サッカーを楽しんでもらえるイベントにしたいと考えているので、ぜひスタジアムに足を運んでいただければと思う」


 このブログでは何度か紹介したが、今回もやはり、志村正彦の言葉を紹介したい。2009年12月5日付の志村日記には〈甲府がJ1に上がった日は嬉しくて乾杯したな、そういやあ。〉と書かれている。志村も天皇杯優勝やACL出場を喜んでくれたことだろう。

 東京やその近郊の方で、サッカーファン、スポーツ観戦の好きな方、山梨に親しみを感じている方々にお願いを申し上げます。10.4(水)、10.25(水)、11.8(水)に国立競技場開催のACLホームゲームに足を運んでいただき、ヴァンフォーレ甲府を応援してください。

 よろしくお願いいたします。


2023年9月10日日曜日

夢の領野の〈ソレ〉 [志村正彦LN337]

 志村正彦・フジファブリック『唇のソレ』(詞・曲:志村正彦)の楽曲は夢のなかで「睡眠作曲」によって作られたが、歌詞も夢に影響によって作られたのではないだろうか。「催眠作詞」、夢工作による作詞の過程である。

 『唇のソレ』の結びの一節である。


  それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!


  〈それでも〉〈それでいて〉〈ソレがいい〉の〈それ〉音の反復と連鎖。〈やっぱ〉〈やっぱり〉の音の反復。それらの音がもつれ合いながら複雑に絡み合って、〈唇のソレがいい!〉と歌われる。音の連鎖と反復によって〈ソレ〉は発話されたのだが、イメージとしても夢の領野に登場したのではないだろうか。


 ジャック・ラカンは『精神分析の四基本概念』の「Ⅵ 目と眼差しの分裂」で、〈夢の領野ではさまざまなイメージの特徴とは、「それが現れる」ということです〉と指摘し、次のように述べている。(改訳文庫版「上」p.166-167)


  夢テクストを座標の中に位置づけ直してみてください。そうすれば「それが現れる」が前面に出ているのが解るでしょう。それは、それを位置づけるさまざまな特徴とともにあまりに前面に出ているので――それらの特徴は、覚醒状態において熟視されているものなら持つはずの地平という性質を持たず、閉じているということや、また夢のイメージの方から出現してきたり、陰影をなしたり、シミになったりするという性質、さらにはそれらのイメージの色が強調されたりすることなどですが――夢における我われの位置は、結局のところ本質的には見ている人の位置とは言えないほどです。


 夢の中で〈それ〉が現れる。〈それ〉はあまりにも前面に出ている。〈それ〉は陰翳をなしたり、シミになったり、色が強調されている。夢の中の〈それ〉とは〈それ〉としか名付けられないものである。私たちは夢の中で〈それ〉に出会う。〈それ〉は人であったり物であったり風景であったりするが、現実の〈それ〉とは異なっている。また、説明しようもなく、〈それ〉としか伝えられない感触がある。〈それ〉は覚醒後に消えていく。覚醒直後は記憶が残っていたとしても、時間の経過と共に、実質が失われ、〈それ〉としか言いようのないものに変質する。


 志村正彦が『唇のソレ』で歌いたかった〈ソレ〉は、具体的には〈唇の脇の素敵なホクロ〉だった。唇の〈ホクロ〉は、〈僕〉の欲望の対象である。フロイトもラカンも、夢は主体の欲望を成就すると述べている。

 唇の〈ホクロ〉が〈僕〉の夢のスクリーンに登場する。〈ホクロ〉は夢の前面に現れて、陰翳をなし、シミのように浮かんでくる。〈ホクロ〉は次第にその具象性を剥ぎ取られ、〈ソレ〉としか名付けられない、曖昧なとらえがたいものに変換されてゆく。夢のなかで欲望の対象は次第に享楽の対象となっていく。〈ソレ〉は〈僕〉の享楽の対象と化す。


2023年8月27日日曜日

享楽の〈ソレ〉 [志村正彦LN336]

 志村正彦・フジファブリック『唇のソレ』(詞・曲:志村正彦)に戻りたい。全歌詞を再び引用する。


手も目も鼻、耳も 背も髪、足、胸も
どれほど綺麗でも意味ない

とにもかくにもそう
唇の脇の素敵なホクロ 僕はそれだけでもう…

Oh 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!

さあ 終わらないレースの幕開け
もう 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!


 この作品は「睡眠作曲」で作られたが、楽曲だけでなく、歌詞にも何らかの影響を与えたのではないだろうか。言うならば、「催眠作詞」のような過程である。睡眠中の活動である夢が歌詞に大きく関わっていると考えてみたい。

 この歌詞の〈バラ色〉の〈景色〉を持つ〈世界〉を夢の中の世界としてみる。そうすると、この歌詞全体を〈僕〉が夢の世界に入っていく過程を歌っていることになる。歌詞は大きく二つに分けられる。区切れ目は〈僕はそれだけでもう…〉の〈…〉。〈…〉の前は睡眠前の場面、〈…〉の後は夢の場面と覚醒時の場面として捉えてみよう。


 〈僕〉の眼差しは、〈手〉〈目〉〈鼻〉〈耳〉〈背〉〈髪〉〈足〉〈胸〉という身体の部位に注がれる。この身体は〈僕〉が愛する女性のものだろう。しかし、それらの部位は〈どれほど綺麗でも〉〈意味〉が〈ない〉。

 それらの代わりに〈素敵〉だと讃えられるのが〈唇の脇〉の〈ホクロ〉。口唇の脇にあるという位置が要だ。その場所の〈ホクロ〉に対して、〈僕〉は〈それだけでもう…〉と語る。〈…〉で省略されているところには、愉悦を意味するような言葉が入るだろう。〈唇の脇〉の〈ホクロ〉は無意識の次元で、〈僕〉の享楽の対象となる。


 〈…〉の空白を経て〈唇の脇〉の〈ホクロ〉に対する享楽が無意識の次元で開かれていくと、〈僕〉は夢の世界に入り込む。夢の中の〈世界の景色〉は〈バラ色〉である。〈僕〉は〈唇の脇〉に〈ホクロ〉がある女性に〈真っ赤な花束〉をあげようとする。〈バラ色〉の夢の世界は〈真っ赤な花束〉でさらに染め上げられる。色合いが濃くなり、香りも濃厚になる。視覚と嗅覚が夢の中で混ざり合う。この場面では、男女の間に交わされるエロスが夢の世界に現れると解釈してみたい。その混沌とした映像や感覚が〈唇のソレ〉へと収斂していく。


 この〈二人〉は〈歳とってしまうものかもしれない〉という一節は、夢からの覚醒を告げているかもしれない。覚醒後、〈僕〉は〈それでもやっぱそれでいてやっぱり〉と夢を振り返り、〈唇のソレがいい!〉と宣言する。〈唇〉の脇にある〈ソレ〉は、〈僕〉の享楽の対象の〈ソレ〉であるのだから。享楽ではあるが、ここにはユーモアの感覚もある。ある種の明るさや大らかさにつながっている。


    (この項続く)


2023年8月20日日曜日

虹が空で曲がっていた [志村正彦LN335]


 虹が空で曲がっていた。




 七月下旬、石和の鵜飼橋近くの笛吹川通りを車で走行していた。急に雨が強く降ってきたがすぐにやんだ。その直後の時だった。助手席の妻が「虹!」と声を上げた。車を道沿いの店に止めて、スマホで撮影したのがこの画像だ。

 虹は、笛吹川を挟んで、青い空の地上近くの空間で、美しい曲線を描いていた。(画像では微かに見えるだけだが、上の方にもう一つの虹がかかっている。)虹の真中の下で、左側の大菩薩山系の稜線と右側の御坂山系の稜線が重なり合う。(その御坂山系の向こう側に富士吉田はある。)青い空と白い雲の群れが真夏のピークを示すように限りなく広がっていく。

 180度の視界の中でこのように曲がる虹を見たことは初めてだった。いつも、虹は途中でうすくなったり途切れていたりした。つまり、ある部分だった。地平線の上に現れる虹は円弧を描いていた。全体としての虹。虹の全景と考えてよいだろう。虹の全景は確かに空で曲がっている。


 志村正彦・フジファブリック『虹』の一節「虹が空で曲がってる」とは、こういう風景を表現したのではないか。

  以前このブログで、志村はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか、という問いを発したことがある。その際は次のように考えた(「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136])。


 現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。
 志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。


 「虹が空で曲がってる」は「実」の風景だと書いたのだが、僕自身はそのような風景を実際に見たことはなかった。いつかその機会が訪れるかもしれない、とずっと思っていたのだが、この日の虹はまさしく空で曲がっていた。歌詞の言葉と現実の光景が融合した。


 志村の歌詞は自然の風景や景物に触発されて動き始めることが多い。山梨で暮らし、志村の歌詞に親しんできた僕はときどき、この地の風景や景物から志村の歌詞の一節を想起することがある。


 吉本隆明は、中原中也を「自然詩人」と位置づけ、「こういう詩人は詩をこしらえる姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。景物が渇えた心を充たそうとする素因として働いてしまう」と述べている。(『吉本隆明歳時記』1978)


 志村正彦も吉本の言う意味での「自然詩人」であろう。「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」という光景の到来と共に、「グライダー乗って 飛んでみたいと考えている」「不安になった僕は君の事を考えている」「言わなくてもいいことを言いたい」というように、「僕」の思考や感覚、欲望や想像が心の中で回転していく。


 「虹」が空で曲がり、「僕」の言葉が巡りだし、「世界」が回りはじめる。


2023年7月30日日曜日

「睡眠作曲」[志村正彦LN334]

 志村正彦は〈フジファブリック 『FAB FOX』インタビュー〉で、『唇のソレ』は〈夢の中で作ったんですよ〉と述べている。『志村日記』(『東京、音楽、ロックンロール』)の2004年10月20日分は「睡眠作曲」と題して、次のことが書かれている。

      

 ライブ、ラジオ、取材、リハ、ライブ、ラジオ、取材、リハ。つて感じの毎日で忙しいです。はい。
 それもあって、遂に!
 やりました…やりましたよ!
 夢の中で曲を作りました! これ、ずつとやりたかったことです。この日が来ることを待ってました。
 夢の中でですね、バンドで新曲作りのセッションをしていたのです。そしてある程度まとまつてきたところで俺は気付いたのです。
「これ、夢だ…まずい! 起きたら忘れてしまう!」と。そしてメンバーに、「多分、今、夢の中だから起きたら忘れてしまいそうだから、もう何回か確認のために通してもらっていい?」と言って、各パートを覚えました。そして、「もう大丈夫だ。起きるぞ!」と言って目を覚まし、すぐレコーダーに吹き込んだのでした。
 あのポール・マッカートニーも名曲“イエスタデイ”を寝てる時に作ったらしいです。でもまあ、そこまでちゃんとしたものでは全然なかったのですが。
 しかしこれ。毎夜できたなら最高です。何故なら今、曲作りに費やしている時間を、映画観に行ったり本読んだり、バッティングセンター行ったり、漫画喫茶に行ったりできますし。で、寝て、朝起きたら曲がポン!ですよ。そこを目指したいと思います。
 それに朝ちょっと体が重いとき、「曲作りをする為に寝ますわ」と言えますしね。


 この2004年10月20日の「睡眠作曲」という日記には具体的な曲名は記されていないが、先ほど引用したインタビューでは『唇のソレ』と明記されている。また、『FAB BOOK』にも『唇のソレ』について次のコメントが載っている。


「睡眠作曲って言ってるんですけど、これは夢の中でつくった曲で、その夢の中で加藤さんがこういうふうに弾いてたんで、そのとおりに弾いてくれっていう話をしたんです」(志村)


 『志村日記』2004年10月20日の〈夢の中で曲を作りました! これ、ずつとやりたかったことです。この日が来ることを待ってました〉というのは『唇のソレ』であると考えて間違いはないだろう。つまり、「睡眠作曲」による初めての完成作がこの曲だった。


 「睡眠作曲」とはどのようなものか。「睡眠作曲」とは厳密にいえば「睡眠作曲の夢」によって作られる曲であるので、夢の形成という観点から考えてみたい。

 まず自分自身の夢を振り返ると、音楽が聞こえてくる夢を見たことはほどんどない。ほとんどない、と書いたのは、ロックバンドのライブ演奏の夢を見たことは何度かあるからだ。(その中の一つはフジファブリックだったような気もする。実際の演奏を聞いたことはないのだが)それでも、そういう夢はライブ演奏の場にいるという出来事が中心である。覚醒直後はその場面の映像の記憶はある程度残る。しかし、音は補助的なものにすぎないためか、その記憶は残らない。

 志村正彦の場合、流石と言うべきか、夢の中で音楽を演奏し作曲している。精神分析の創始者ジグムント・フロイトは、『夢解釈』(1900年)で、夢は欲望の成就であると説いた。フロイトの夢理論に依拠すれば、志村の作曲への欲望が「睡眠作曲」の夢をもたらしたと考えられる。夢は無意識によって形成される。志村が無意識の中で作曲を進めていた楽曲が、自らの欲望成就のプロセスによって、顕在的な夢として生み出されたのだろう。

 そう考えているうちに、文章を書いている夢を見たことが何度もあることを思い出した。言葉が文字として見えてくる。その文字つなげていくと何らかの意味が作られていく。夢の中ではある種の手応えを感じることもあるのだが、夢からの覚醒後は何も覚えていない。文字はすぐに消えていった。僕の場合は、言葉、文字に対する無意識の欲望を成就する夢だったのであろう。


 『志村日記』2005年1月10日「再び山梨に。」では、曲作りについて〈今年は地道につくっていきたいですね。あ、睡眠作曲はやっていきますけど。〉とある。『唇のソレ』以降、「睡眠作曲」によって作られた完成曲があるかどうかは分からないが、夢や無意識の形成物が志村正彦の作品に深く影響を与えていた、と考えることはできるかもしれない。


   [この項続く]


2023年7月16日日曜日

『唇のソレ』の〈ソレ〉[志村正彦LN333]

 『唇のソレ』(詞・曲:志村正彦)は、2005年11月リリースの2ndアルバム『FAB FOX』の収録曲として発表された。ライブ映像が『Live at 両国国技館』と『Live at 富士五湖文化センター』に収められている。

 この愛すべき曲の歌詞を引用しよう。


手も目も鼻、耳も 背も髪、足、胸も
どれほど綺麗でも意味ない

とにもかくにもそう
唇の脇の素敵なホクロ 僕はそれだけでもう…

Oh 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!

さあ 終わらないレースの幕開け
もう 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!


 〈手〉〈目〉〈鼻〉〈耳〉〈背〉〈髪〉〈足〉〈胸〉というように、身体の部位が〈も〉という助詞によって連鎖され、〈どれほど綺麗でも〉、〈意味〉が〈ない〉と歌われる。

 綺麗な身体の部位に変わって、歌の主体〈僕〉が賞賛するのは〈唇の脇の素敵なホクロ〉。〈とにもかくにもそう〉〈それだけでもう…〉と、〈も〉に続いて〈そ〉の音が登場する。この〈そ〉の音が導くようにして、〈唇のソレ〉が召喚される。〈それでも〉〈やっぱ〉〈それでいて〉〈やっぱり〉という反復が組み合わされることによって、次第に、〈唇の脇の素敵なホクロ〉は、〈唇のソレ〉としか言いようのない〈ソレ〉に変換されていく。

 〈世界の景色〉は〈バラ色〉であり、〈僕〉は〈唇の脇の素敵なホクロ〉を持つ相手に〈真っ赤な花束〉をあげようとする。この〈二人〉は〈歳とってしまうものかもしれない〉のだが、〈僕〉は〈唇のソレがいい!〉と宣言する。


 志村正彦は〈フジファブリック 『FAB FOX』インタビュー〉で、この曲について次のように述べている。


この曲は夢の中で作ったんですよ。夢の中でバンド練習をしてて、その時にみんなが弾いていた楽曲を憶えていて、でも夢から覚めたら演奏を忘れてしまうと思ったんで、夢の中のメンバーに「今夢の中にいるから、起きても忘れないように各パートを繰り返してくれ」って伝えて(笑)、それを全て憶えたら起きてテープレコーダーに入れて。その後、スタジオで練習している時にみんなに伝えて作っていきましたね。


 インタビュアーの〈普段、現実的な夢を見る方ですか?突拍子もない夢を見る方ですか?〉という問いについてはこう語っている。


僕は両方見ますね。あの・・・、富士山噴火とか(笑)。あとは練習とか、バンド系の夢が多いですね。


 夢の中でつくった曲。実に愉快だ。『唇のソレ』はバンド系の夢の作曲篇になるだろうか。富士山噴火のように、〈ソレ〉が噴火しているようでもある。

  『唇のソレ』には確かに夢の中の祝祭歌の雰囲気がある。

 この曲は独特のリズム感が失踪する。最後に近づくと、志村の声とサウンドの音がもつれ合うような感じになる。夢の中に出てくる〈ソレ〉が絡み合うかのように。

 

   [この項続く]

2023年6月25日日曜日

〈間違いだらけの正義〉と〈正しく消える〉-マカロニえんぴつ

 マカロニえんぴつの存在を知ったのは四年前のことだった。「山梨学」という授業で、志村正彦・フジファブリックを取り上げた時に、学生が書いた振り返り文のなかで「山梨県出身のボーカルがいるマカロニえんぴつも聴いてみてください」とあった。youtubeにあった音源からは、サウンドの完成度と歌詞の独自性がうかがわれた。いつかこのブログでも書きたいと思っていたのだがなかなかその機会がなかった。

 この四月、山梨学院高校が優勝した春の選抜高校野球大会のMBS毎日放送の公式テーマソングが「マカロニえんぴつ」の新曲「PRAY.」であることを知った。この歌に触発されて、ここ数回書き続けてきた。NHKの「おかえり音楽室 マカロニえんぴつ はっとり」での発言や母校での演奏も参考になった。


 「PRAY.」の歌詞にはこうある。

 トンボは夜を越えて 飛べないキミのためと
 哀しく唄う
 優しく回る
 正しく消える


 〈トンボ〉は〈僕〉と〈祈り〉と〈君〉のために飛翔し、〈哀しく唄う〉〈優しく回る〉と旋回して、最後は〈正しく消える〉。この〈正しく消える〉がずっと気になっていた。

 そのうちに「青春と一瞬」に次の一節があることに気づいた。

 青春と一瞬はセットなんだぜ
 間違いだらけの正義なんだぜ
 風と友に贈る歌だぜ


 はっとりはここで、〈青春〉を〈間違いだらけの正義〉と捉えている。「青春と一瞬」は、「二十歳過ぎてから作って、当時を思い浮かべながら、高校生とかの時の自分を書いた曲」だとされている。たとえ間違いだらけであったとしても、いや、間違いだらけであるかもしれないからこそ、〈青春〉は〈一瞬〉の輝きを放つ。そのようなメッセージを受けとることができる。

 「PRAY.」は、三十歳近くになった作者はっとりが高校生の頃の自分を振り返った歌だろう。この歌の〈正しく〉は、「青春と一瞬」の〈正義〉につながる言葉だと捉えてみたい。

 〈青春〉の〈間違いだらけの正義〉は、時を経て、〈哀しく唄う〉〈優しく回る〉〈正しく消える〉という軌跡を描いた、あるいは描いている、もしくは描こうとしている、ことになるだろうか。

 〈間違いだらけの正義〉が〈正しく消える〉のが青年の軌跡だとしたら、それはいくぶんか苦いものでもある。ただし、正義が消えたあとに、ふたたび、もう一つの正義が飛翔すると考えてみてはどうだろうか。


 はっとりにとって〈正義〉や〈正しく〉というのが大切な言葉であることは間違いない。この想いはどのようなものか。まだ充分にマカロニえんぴつの作品を聴きこんでいないので、これ以上論じることはできないが、いつかその機会を設けたい。


2023年6月18日日曜日

「青春と一瞬」マカロニえんぴつ

 NHK番組「おかえり音楽室 マカロニえんぴつ はっとり」では、「青春と一瞬」が駿台甲府高校の音楽室で演奏された。はっとりは歌う前に次のように語っていた。


二十歳過ぎてから作って、当時を思い浮かべながら、高校生とかの時の自分を書いた曲ですけど、不思議といつ歌っても今の自分にささる。あの時の情熱をもしかしたら今でも追いかけているのかもしれない、変な話だけど、あの頃の自分にもう一度追いつきたいなっていう思いはあります。

 

 「青春と一瞬」(作詞作曲:はっとり)は2019年3月配信限定シングルとしてリリースされた。ミュージックビデオもYouTubeで公開されたが、オール山梨ロケの映像である。舞鶴城から見た甲府駅北側の街並、中心街の銀座通り、中央線の車窓からの風景、甲府市内を流れる荒川とその橋。見慣れた光景が次々と映し出される。その映像と歌詞を紹介したい。




書いて 消して 悩んで出した定理は
居眠りの午後三時半に見失った
全部ぜんぶ 学んでド忘れしたい
無限の宇宙を自転車で駆け抜ける

語り合ったりたまに泣いたりできるくらいの
すばらしい日々をくれ

つまらない、くだらない退屈だけを愛し抜け
手放すなよ若者、我が物顔で
いつでも僕らに時間が少し足りないのは
青春と一瞬がセットだから

覚えておいて、未来は転がるもの
この場所にずっと前からあるもの
全部ぜんぶ 眩しいね
友よ 声よ 昨日よ 僕自身よ

つまらない、埋まらない退屈だけを愛し抜け
夢が増えればハラが減る、若者であれ
いつでも僕らに時間は少し足りないのだ
青春と一瞬はセットなんだぜ

染まりたいね
使い切っていたい 黄金の色に咲く春
よだれまみれ 出来心の恋も剥き出しで

誰にも僕らのすばらしい日々は奪えない

つまらない、くだらない退屈だけを愛し抜け
手放すなよ若者、我が者顔で
ずっと埋まらないくらいでいい
時間は少し足りないのがいい

青春と一瞬はセットなんだぜ
間違いだらけの正義なんだぜ
風と友に贈る歌だぜ


〈書いて 消して 悩んで出した定理は〉の〈…て〉〈…て〉〈…で〉〈…た〉〈ていり〉という〈て〉音中心の反復。〈手放すなよ若者、我が物顔で〉の〈わかもの〉〈わがもの〉の類似音の反復。〈青春と一瞬はセットなんだぜ〉の〈…しゅん〉〈…しゅん〉の反復。そして〈セット〉は、〈せいしゅんといっしゅん〉の音から〈せ〉〈っ〉〈と〉の音が縮合されたものだろう。このような音の遊びを縦糸にして、〈つまらない、くだらない退屈だけを愛し抜け〉というメッセージが横糸として織り込まれる。

 この歌は「マクドナルド"500円バリューセット"CMソング」として作られた依頼曲である。依頼された曲でも独自の歌詞の世界を作るところは、はっとりの職人芸だ。器用でおそらく生真面目な人なのだろう。


 はっとりは、〈僕が高校生に戻って歌詞を書くというより、25,6という年になって高校時代を俯瞰で見たらどうなるだろう?という、ちょっと達観したような感じで書けた〉とあるインタビューで述べている。

 確かに、〈青春と一瞬はセットなんだぜ〉という言葉は、青春の只中ではなく、ある程度過ぎ去った時間の後で、俯瞰したメタ視点によって見出される時間の認識だ。「おかえり音楽室」での発言によれば、この認識はまだ現在進行形のようだが、ある種の苦さや儚さも込められている。はっとりにとって、〈青春〉は多様な視点と時間から反復される主題なのだろう。