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2023年11月5日日曜日

『虫の祭り』の音と声 [志村正彦LN339]

 十月末、「山梨学」の授業の一環として学生三〇人と一緒に、富士吉田のハタオリマチフェスティヴァルに行ってきた。例年より人も増えて、かなりの賑わいを見せていた。 

 公式サイトを見て、このフェスが秋祭りだということを初めて知った。秋祭りは収穫を祝う祭り。秋と祭りという組合せが、志村正彦・フジファブリックの「虫の祭り」を想い出させた。


 フジファブリック『虫の祭り』(作詞・作曲:志村正彦)は、2004年9月29日、3枚目シングル『赤黄色の金木犀』のB面曲・カップリング曲としてリリースされた。四季盤〈秋〉のB面曲として位置づけられる。歌詞の全文を引用しよう。

  

どうしてなのか なんだか今日は
部屋の外にいる虫の音が
祭りの様に賑やかで皮肉のようだ

その場凌ぎの言葉のせいで
身動き出来なくなってしまった
祭りの様に過ぎ去った 記憶の中で

「あなたは一人で出来るから」と残されたこの部屋の
揺れるカーテンの隙間からは入り込む虫達の声

どうしてなのか なんだか今日は
部屋の外にいる虫の音が
花火の様に鮮やかに聞こえてくるよ

にじんで 揺れて 跳ねて 結んで 開いて
閉じて 消えて

「あなたは一人で居られるから」と残されたこの部屋の
揺れるカーテンの隙間からは入り込む虫達の声

 

 歌の主体は〈どうしてなのか なんだか今日は〉と問いかける。志村正彦の歌詞によく見られる問いの形だ。〈虫の音〉が部屋の外から聞こえてくる。部屋の中にいる歌の主体はその音を〈祭り〉のように賑やかに感じ、〈皮肉〉のように受けとめる。〈皮肉〉は、遠まわしの非難のようなものか、思いどおりにならないことの喩えなのか。どちらにしろ、この〈虫の音〉に、いくぶんか引き裂かれるような想いを抱いている。

 季節は秋。〈虫の音〉が聞こえてくる時期。秋祭りとの関連で〈祭り〉のようだと感じたのかもしれない。

 〈その場凌ぎの言葉のせいで/身動き出来なくなってしまった〉と、言葉をめぐる想いが語られる。〈祭りの様に過ぎ去った 記憶の中で〉とあるので、記憶の中にある言葉なのだろう。

 誰かが〈「あなたは一人で出来るから」〉と歌の主体に話しかけた言葉は、遠く、遠くから、過ぎ去った過去から聞こえてくる。続く〈と残されたこの部屋の〉という表現は、その誰かの言葉が記憶に残されたこと、歌の主体が一人でその部屋に取り残されたこと、その二つの意味が重ね合わされている。〈揺れるカーテンの隙間〉とあり、部屋の窓は開け放されている。そこから入り込む〈虫達の声〉と〈あなた〉と語りかける記憶の中の声が混ざり合う。

 歌詞の二番では、〈虫の音〉は〈花火〉のように鮮やかに聞こえる。この〈花火〉もまた歌の主体にとっての大切な記憶に関わるものだろう。そして、誰かの語りかけは〈「あなたは一人で居られるから」〉となる。〈一人で居られる〉の方が〈一人で出来る〉よりも強い意味を持つ。この〈一人で居られる〉は〈二人で居る〉と対比される表現だ。おそらく、〈あなた〉と語りかける人と語りかけられる人との別離という意味が込められている。

 A面曲『赤黄色の金木犀』でも、〈もしも 過ぎ去りしあなたに/全て 伝えられるのならば/それは 叶えられないとしても/心の中 準備をしていた〉〈期待外れな程/感傷的にはなりきれず/目を閉じるたびに/あの日の言葉が消えてゆく〉という言葉をめぐるモチーフが歌われている。歌の主体は〈あなた〉という二人称を使っている。B面曲 『虫の祭り』では、歌の主体は〈あなた〉と呼びかけられている。この関係性が興味深い。


 〈「あなたは一人で出来るから」〉と〈「あなたは一人で居られるから」〉という二つの言葉は、鉤括弧の引用符で囲まれている。志村正彦の全歌詞の中でも、誰かの具体的な発話が引用されているのはこの歌だけである。

 おそらく、この二つの言葉は、作者の志村正彦が実際に聞いて、受けとめたリアルな言葉ではないだろうか。非常に現実感のある言葉だ。根拠はないのだが、その言葉が記憶に残されたことも、一人でその部屋に取り残されたことも、志村の実体験のような気がする。

 

 歌詞の言葉を形式的に分析しても、この歌の抒情の魅力を伝えることができない。

 志村の言葉が〈にじんで 揺れて 跳ねて 結んで 開いて/閉じて 消えて〉いく。その後で一分ほど続くアウトロのコーラスが、限りなく切なく、限りなく儚い。

 志村正彦の歌の世界では、言葉になるものと言葉にならないものとが限りなく滲んでいく。 


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