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2023年8月20日日曜日

虹が空で曲がっていた [志村正彦LN335]


 虹が空で曲がっていた。




 七月下旬、石和の鵜飼橋近くの笛吹川通りを車で走行していた。急に雨が強く降ってきたがすぐにやんだ。その直後の時だった。助手席の妻が「虹!」と声を上げた。車を道沿いの店に止めて、スマホで撮影したのがこの画像だ。

 虹は、笛吹川を挟んで、青い空の地上近くの空間で、美しい曲線を描いていた。(画像では微かに見えるだけだが、上の方にもう一つの虹がかかっている。)虹の真中の下で、左側の大菩薩山系の稜線と右側の御坂山系の稜線が重なり合う。(その御坂山系の向こう側に富士吉田はある。)青い空と白い雲の群れが真夏のピークを示すように限りなく広がっていく。

 180度の視界の中でこのように曲がる虹を見たことは初めてだった。いつも、虹は途中でうすくなったり途切れていたりした。つまり、ある部分だった。地平線の上に現れる虹は円弧を描いていた。全体としての虹。虹の全景と考えてよいだろう。虹の全景は確かに空で曲がっている。


 志村正彦・フジファブリック『虹』の一節「虹が空で曲がってる」とは、こういう風景を表現したのではないか。

  以前このブログで、志村はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか、という問いを発したことがある。その際は次のように考えた(「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136])。


 現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。
 志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。


 「虹が空で曲がってる」は「実」の風景だと書いたのだが、僕自身はそのような風景を実際に見たことはなかった。いつかその機会が訪れるかもしれない、とずっと思っていたのだが、この日の虹はまさしく空で曲がっていた。歌詞の言葉と現実の光景が融合した。


 志村の歌詞は自然の風景や景物に触発されて動き始めることが多い。山梨で暮らし、志村の歌詞に親しんできた僕はときどき、この地の風景や景物から志村の歌詞の一節を想起することがある。


 吉本隆明は、中原中也を「自然詩人」と位置づけ、「こういう詩人は詩をこしらえる姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。景物が渇えた心を充たそうとする素因として働いてしまう」と述べている。(『吉本隆明歳時記』1978)


 志村正彦も吉本の言う意味での「自然詩人」であろう。「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」という光景の到来と共に、「グライダー乗って 飛んでみたいと考えている」「不安になった僕は君の事を考えている」「言わなくてもいいことを言いたい」というように、「僕」の思考や感覚、欲望や想像が心の中で回転していく。


 「虹」が空で曲がり、「僕」の言葉が巡りだし、「世界」が回りはじめる。


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