2021年2月19日金曜日

映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』

  昨日、甲府のシアターセントラルBe館で、映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』を見てきた。

 ロビー・ロバートソンの自伝を原作に、ザ・バンド(THE BAND)の誕生から1976年の解散ライブ『The Last Waltz』までの足跡を追ったドキュメンタリー映画。原題は『ONCE WERE BROTHERS:ROBBIE ROBERTSON AND THE BAND』。「ROBBIE ROBERTSON AND THE BAND」とあるように、ロビー・ロバートソンとその妻の視点からのTHE BANDの物語だった。

 僕がロックを聴き始めた1970年代の前半、THE BANDはすでに伝説のような存在だった。アメリカのルーツ・ミュージック、ロックンロール・カントリー・フォーク・R&Bなどを織りまぜたロックの創始者だった。ボブ・ディランのバックバンドとしての知名度も高かった。そのような音楽を生み出した彼らの生活スタイル、ウッドストックという地、ザ・バンドとボブ・ディランが借りていた家「ビッグ・ピンク」は、音楽雑誌などでよく記事にされていた。当時の僕たちは、彼らの音楽の総体を「知識」として受けとっていたように思う。

  今の若者が、彼らのデビュー曲的な位置づけである1968年の「ザ・ウェイト」(The Weight)を聴くとどう感じるだろうか。アメリカのルーツ・ロックとして普通に聞こえてくるかもしれないが、60年代の後半から70年代の前半の時代においては、斬新な音楽だった。「The Band on MV」のサイトから「The Weight (Remastered)」を紹介したい。冒頭部の歌詞も引用する。



 The Weight      作詞:Robbie Robertson

     I pulled into Nazareth, I was feelin' about half past dead
     Just need to find a place where I can lay my head
     'Hey, mister, can you tell me where a man might find a bed?'
      He just grinned and shook my hand and, 'No', was all he said

      Take a load off Fanny
      Take a load for free
      Take a load off Fanny
      And (and)(and)you put the load right on me
      ………

 俺はナザレにたどりついた
 半ば死んだように感じていた
 横になれるところが欲しかった
 「旦那、休めるところを教えてくれないか」
 彼はにやりと笑って握手して
 「ない」とだけ言った

 重荷を下ろせよ、ファニー
 自由に身軽になれよ
 重荷を下ろせよ、ファニー
 そうして重荷を俺に載せなよ

 この歌詞は難しい。自分なりに訳してみた。映画では、この「Nazareth」の意外な由来についても述べられている。『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』を見終わった後「The Weight 」の歌詞を振り返ると、いろいろな思いが浮かんでくる。
 映像は当時分からなかったことを丹念に描いている。ロビー・ロバートソンの生い立ちと音楽に目覚める過程、ロニー・ホーキンス のバックバンドとして活動していた時代、ザ・ホークスの時代、ボブ・ディランとの出会いや酷評されたツアー。そしてザ・バンドの誕生と活躍の時代。メンバーの友情と確執。そして、そのすべては1976年の解散ライブ『The Last Waltz』に収束していく。

 僕のザ・バンドとの出会いは、彼らの単独作品というよりも、ボブ・ディランが1974年にリリースした『プラネット・ウェイヴズ』(Planet Waves)を通してだった。ボブ・ディランがザ・バンドと創り上げたこのアルバムは、いまだに僕が最も好きなディランの作品であり、ザ・バンドの音楽、演奏である。映画では、ディランがアサイラム・レーベルに移籍した裏話も語られていた。

 映画を見ていくうちに、僕自身が四十数年前の70年代前半から半ばまでの「ロックの時代」にワープしていった。タイトルバックが流れると、しばらくの間、その残像が静かにまだ回っていて、今ここに、自分が戻りきれていない心持ちになった。

 リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルムはすでに亡くなった。ロビー・ロバートソンとガース・ハドソンは健在である。この映画用にガース・ハドソンのインタビューも撮影されたそうだが、結局、使用されなかった。彼は沈黙を守ったのだろう。

 生き残った者の視点で、ロビー・ロバートソンはザ・バンドの歴史物語を綴る。他のメンバー四人からの視点はほとんどない。メンバー間の確執の真実は分からない。ロビー・ロバートソンは正しい人なのだろう。しかし、義しいのだろうか。その問いかけがずっと心に残っている。

 ロビー・ロバートソンその人というよりも、この映画の語り方そのものにある種の残酷さや非情さを感じた。バンドメンバーの生と死を分かつ「時」の残酷さ。あるはずの語られる物語が語られることはない。そのことを胸に刻んだ。

 それでもこの映画は「ロックの時代」の記録の一つとして見る価値がある。25日(木)までシアターセントラルBe館で上映される。


2021年1月31日日曜日

奥田民生甲府公演と山梨の写真

 昼間書いた通り、甲府のYCC県民文化ホールで開催された奥田民生<MTRY TOUR 2021>ツアーの生配信ライブを見た。

 楽しかった、の一言につきる。最初は生配信はどうかなと思っていたけど、リアルタイムで見ているのは、何というのだろうか、やはり臨場感に近いものがある。そこにはいないのだがそこにいるような感覚といえるかもしれない。曲が終わるごとに自然に拍手をしていた。実際に会場にいる「生」の観客と自宅にいる「生」の視聴者。ハイブリッドな享受は、コロナ禍の音楽の一つのあり方なのだろう。今日はPCをテレビモニターにつないで見たのだが、音をアンプやスピーカーで増幅すれば、音の重厚感もかなり再現できるのかもしれない。

 今日の配信視聴者は最後には11167人いた。これは凄い数字だ。それだけこのライブを待ち望んでいたファンがいる。コロナ禍のビジネスとしても成功だろう。

 奥田民生は、テレキャスター、フライングV、ダブルネックのギターとあれこれと変えてかき鳴らしていた。こんなにギターが上手かったのか。発見だった。MTRYは、ギター、ベース、ドラム、キーボードの四人編成バンドだが、このバンドのギターリストが務まるのはおそらく奥田しかいないのだろう。そんなことが納得できた。

 どうなるか楽しみにしていた〈#民生に届け山梨自慢写真選手権〉。休憩後の後半最初に、ご当地写真が投映されて『羊の歩み』『エンジンEngine (Japanese Version)』が歌われた。

 ご当地写真は次のような画像だった。どれも山梨県民の僕にとっては親しみのある風景だった。「山梨自慢」の写真といってよいだろう。(写真から判断したので間違いがあるかもしれませんが)


四季の富士山、笠雲を被った富士、河口湖・山中湖・本栖湖とそこから見た富士、山中湖花の都公園、河口湖大橋、富士急行線の列車、新倉富士浅間神社、忠霊塔、小室浅間神社・神馬・ポニー、下吉田の路地裏、月の江書店、吉田のうどん、富士山のように塗られたコーン。甲府から見た連山・御坂山系・南アルプスの山系、南伊奈ケ湖(南アルプス市)、長沢の鯉のぼり(北杜市)、明野のひまわり畑、甲府駅前の武田信玄公像、武田神社の狛犬、勝沼から見た甲府盆地、笛吹市あたりの桃畑の花、大月の猿橋、おいしい学校(須玉)、清里清泉寮のソフトクリーム、桔梗信玄餅、桃、神代桜(北杜市)、わに塚の桜(韮崎)、などなど。


 スライドショーの形で二三度繰り返された。その映像に奥田の声が重なってきた。


  陽炎を目指して 青い空 白い砂

  道端の標識が 後ろに飛んでく

  ………

  気分はいつでも最高だ 駆け抜けて行こう

  山を越えて 時を越えて


 特に、この『エンジン』の歌詞の一節と甲府盆地周辺の山々や富士山の映像がシンクロしていた。

 そして最後に登場したのが、茜色の美しい空とそこを飛ぶ一羽の鳥のシルエットの写真だった(この写真を投稿された方に感謝したい)。山梨という場、奥田民生という存在から、僕はやはり志村正彦のことが思い浮かんだ。

 この写真を最後に持ってきたことに演出的な意図があったのかどうかは分からない。意味をあまり読みこむのは避けた方がいいかもしれない。この茜色の空と一羽の鳥の写真は、一人ひとりの自らの想いとして受けとめればよいだろう。


今日1/31、奥田民生、甲府公演生配信。

 新年になってもう一月が経つ。いつも通り仕事に追われていて、ブログを書くモードに切り替わらない。今日は、というか、この「今」、書くべきことがあるので、偶景webにログインした。

 今日、1月31日、奥田民生の公演がYCC県民文化ホール(山梨県立県民文化ホール)で行われる。全国11か所を廻るバンド編成のツアー<MTRY TOUR 2021>の初日だ。バンドのMTR&Yは、奥田民生・湊雅史・小原礼・斎藤有太。コロナ禍の状況から、感染予防対策ガイドラインに従って、来場者の安全安心を第一に万全の対策で実施され、全公演が「LINE LIVE-VIEWING」で生配信される。

 実はこれを知ったのは昨夜だった。奥田民生の甲府公演にも気づかない生活をしていては、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と誰かに叱られそうである。奥田民生が甲府に来るのはおそらく二十数年ぶりだ。会場も我が家から遠くないところにある。行きたい。聴きたい。見たい。他の場所ではなく「甲府の奥田民生」を経験したいのだ。場というのは特別なものである。幸にしてチケットの当日券を事前予約できそうだったが、やはり、感染が怖い。かなりの予防対策をしているようだが、もしもとなると、家族や職場への影響が甚大である。断念した。きわめて残念だが、今回は映像生配信を選ぶことにした。

 奥田民生 Official@OT_staff を見ると、〈#民生に届け山梨自慢写真選手権〉という企画がある。

「#民生に届け地名自慢写真選手権」のハッシュタグでTwitterにあなたがOTに自慢したいご当地写真を投稿してください!あなたの写真をバックにOTが歌います!!

 「ご当地写真付ロック」は面白い。〈#民生に届け山梨自慢写真選手権〉の画像がすでにたくさんupされているが、やはり、富士山の写真が圧倒的に多い。そして、新倉富士浅間神社の風景が目立つ。

 「LINE LIVE-VIEWING」の生配信はまだ予約できるので、よろしければどうぞ。ということで、開演の午後5時を楽しみにしている。

                                                                、

2020年12月31日木曜日

『夜汽車』語りえないものの歌[志村正彦LN268]

 一昨日の深夜、テレビをつけながらPCで仕事をしていると、志村正彦の声が聞こえてきた。『若者のすべて』だった。

 テレビ画面を見ると、夜の空間にきらめく花火の映像。上空から見下ろすような視点の花火の光に魅入ってしまった。ドローンの撮影かもしれない。テレビのチャンネルを確認すると6チャンネル、地元局のUTYテレビ山梨の放送だ。あの「STAY HOME」の新しいヴァージョンかもしれない。すぐに「神明の花火 ~平和への祈り~」という表示が出てきた。9月、この局で『世界に届け「神明花火」平和への祈り』が放送され、『若者のすべて』をBGMにした花火の映像が流された。そうこうするうちにエンディングを迎えた。画面の左側に「やまなしドローン紀行」とあるので、この花火の映像はその一つかもしれない。そして、画面の右側に、「医療従事者の皆様に感謝」「50TH UバクUTY」の文字が現れた。間違いなく、志村正彦・フジファブリック『若者のすべて』を取り上げた「STAY HOME」の「神明の花火」ヴァージョンだった。すぐにネットで調べてみた。これを制作したUTYのTVプロデューサー岩崎亮氏のツイート(@iwasaki_tvp)に制作の経緯が述べられ、映像(権限の関係で音楽はないのが残念だが)もUPされておる。

【花火バージョン】  【通常バージョン】 

 二週間ほど前、この春に流された『若者のすべて』の「STAY HOME」CMが山梨広告賞の「電波広告の部テレビCM30秒以上部門」の最優秀賞を受賞したことは新聞で読んでいた。その記念に新しいヴァージョンを作成したようだ。富士吉田のクローン映像によるヴァージョンは、春と秋冬の映像が織り込まれている。最後の雪を薄く被って白く輝く富士山が美しい。志村ファンにとっては年末の思いがけないプレゼントである。


 毎年大晦日にこのブログを書いているのだが、振り返ると、これまで最も短い一年だった。コロナ禍の現実に対応するために仕事に追われる毎日だった。記憶も時間の感覚もおかしくなっている。このブログの更新も滞った。音楽をじっくりと聴く機会もほとんどなかったが、志村正彦・フジファブリックの楽曲の中でそれでも繰り返した曲が一つある。『夜汽車』である。youtubeに両国国技館のライブ映像がある。




  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
  夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう

  窓辺にほおづえをついて寝息を立てる
  あなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう


 月並みな言い方しかできないのがもどかしいが、この歌の「叙情性」は群を抜いてすばらしい。日本語ロックの中でこれほどの叙情に達した歌はないのではないか。志村の想いが心の深くに染み込んでくる。 

 『夜汽車』は「静かにあなたに本当の事を言おう」と歌い終わる。あなたに「本当の事」を語りはじめる、その前で歌は終わってしまう。「本当の事」を語ることはない。語ることができない。あるいは語りたくない。語ることから遠ざかることで、この歌が始まっている。そのことがこの歌の叙情性を支えている。

 何かを歌うことと何かを語ることとは、言葉の表現としてもちろん近い位置にある。しかし本当は、この二つの間には遠い遠い隔たりがある。語ることができないときに、失われているときに、むしろ、叙情の歌は成立する。人は語ることのできないものを、それでもどうしても伝えたくなったときに、歌い始めるのかもしれない。志村正彦の『夜汽車』がそのことを「そっと 静かに」教えてくれる。



2020年12月28日月曜日

レスリー・ウェスト

 12月23日、レスリー・ウェスト(Leslie West)の75歳の生涯が閉じられた。

 僕の「ロックの時代」の原点のバンド、マウンテンのギタリスト・ボーカリストだった。

 70年代前半、マウンテンは日本でも人気があった。1973年8月来日。以前も書いたことがあるが、当時14歳の僕は一人で甲府から東京まで出かけた。会場は日本武道館。初めてのロックコンサートだった。ネットにその日のライブ音源があった。記憶はほとんど薄れているのだが、かすかな印象が残っている。ものすごい重低音というものを初めて経験した日でもあった。フェリックス・パッパラルディ(Felix Pappalardi)の重厚なベース音とレスリー・ウェストのメロディアスな美しい音色のギターが響ひあうはずだったが、この日は彼の調子がよくなかった。完璧なギターやボーカルにはほど遠かった。この日本公演を契機に再結成するが、結局1974年末に完全に解散した。レスリーとフェリックスの求める方向性が異なったことが原因のようだ。

 レスリー・ウェストのギターといえばギブソン・レスポール・ジュニア。ギターの演奏は素晴らしいものだったが、それ以上に彼のボーカルに惹かれていた。独特の声に突き動かされるようにして、言葉が解き放たれていく。今でもハードロック系のボーカルでは(もちろんギターでも)レスリー・ウェストが最高だと思っている。もっとも、当時、マウンテンの音楽は「ハードロック」というよりも「ヘヴィロック」と呼ばれていた。字義通りの「heavy rock」が彼らのサウンドにはふさわしい。

 70年代前半という時代的な制約があり、youtubeを探しても良い映像がないのだが、その中ではドイツのテレビ番組「Beat-Club」の映像がレスリー・ウェストの当時の雰囲気をよく伝えている。ドラムスはコーキー・レイング(Corky Laing)、キーボードはスティーヴ・ナイト(Steve Knight)。マウンテンが最も輝いていた時代の演奏だろう。70年代前半のロックは、言葉のほんとうの意味での、激しくて重い、響きと揺れがあったのだ。


  Mountain - Don't Look Around (1971)


  

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

You thought I was a whiner
I'd forgotten where to go
I had no place to lay my head to rest
I had to go

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind 

Now I'm working all day long
I'm singing for my food
Baby, you know that I've got everything I need

I've given all I can
The rest belongs to me
Fact was it didn't matter
Just who I had to be

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind

I'm gunnin' right on through the town
Don't need you anymore
Now I think I'll turn my back and walk away from you

We're livin' in the country
Doing everything we please
I don't want you comin' round swirling up a be

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind

Written by: FELIX PAPPALARDI, GAIL COLLINS, LESLIE A. WEINSTEIN, SANDRA L. PALMER

  
  フェリックス・パッパラルディは1983年に死去。享年43歳。それから37年の時が経ち、レスリー・ウェストが亡くなった。享年75歳。
 マウンテンの楽曲は旅や航海のモチーフが多かった。二人の人生はかなり異なるものとなったが、二人は音楽に愛でられて旅立っていったのだろう。
 僕の身体の底を貫いているロックの重奏音に、フェリックス・パッパラルディとレスリー・ウェストの音と声がある。これまでもこれからも鳴り続けるだろう。



2020年12月25日金曜日

『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』John & Yoko/志村正彦[志村正彦LN267]

 「Merry Christmas, Mr. 志村正彦」と、安部コウセイはこのところ毎年12月24日に呟いてきた(@kouseiabe)。今年は、「夜のるすばん電話【特別編】〜志村正彦について〜」という1人喋りラジオ番組で20分ほど、志村のことを語っていた。12月24日の一日限りの無料公開。とても興味深い内容だった。聞き逃した人も少なくないかもしれないので、後日、この話を取り上げてみたい。

 この番組の冒頭で安部コウセイは「Merry Christmas, Mr. 志村正彦」と呼びかけていた。今年は文字ではなく声だった。この言葉に誘われて、今日は、ジョン・レノン&オノ・ヨーコの『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』の映像をまず載せてみたい。


 HAPPY XMAS (WAR IS OVER). (Ultimate Mix, 2020) John & Yoko Plastic Ono Band + Harlem Community Choir



  

 HAPPY XMAS (WAR IS OVER)


Happy Xmas, Kyoko, Happy Xmas, Julian

So this is Xmas and what have you done

Another year over and a new one just begun

And so this is Xmas, I hope you have fun

The near and the dear one, the old and the young

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


And so this is Xmas (War is over)

For weak and for strong (If you want it)

For rich and the poor ones (War is over)

The world is so wrong (Now)

And so happy Xmas (War is over)

For black and for white (If you want it)

For yellow and red ones (War is over)

Let’s stop all the fight (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


And so this is Xmas (War is over)

And what have we done (If you want it)

Another year over (War is over)

A new one just begun (Now)

And so happy Xmas (War is over)

We hope you have fun (If you want it)

The near and the dear one (War is over)

The old and the young (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear

War is over if you want it, war is over now


    written by John Lennon and Yoko Ono


 昨夜、NHKで『“イマジン” は生きている ジョンとヨーコからのメッセージ』という番組があった。2020年、ジョン・レノンの生誕80年、没後40年。このメモリアルイヤーにジョンとヨーコがこの世界に残したメッセージを見つめ直すものだった。

 歌詞の世界にも触れていた。「俳句は今まで僕が読んだ中で最も美しい詩だと思う。僕ももっと歌詞を俳句のようにシンプルにしたいね」というジョンの言葉。『LOVE』は俳句に影響されていたようだ。『IMAGINE』がジョンとヨーコの共作になった経緯も述べられていた。

 コロナ危機、エッセンシャルワーカーの存在、そしてBlack Lives Matterの運動。世界の人々が分断されていった2020年、『IMAGINE』『LOVE』や『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』がとりわけ心にしみてくる。

 志村正彦・フジファブリックは、2008年12月8日に日本武道館で開催された『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に出演している。2001年から2009年まで9回開催されたこのライブは、オノ・ヨーコの「どんな些細なことでも夢を持つこと。それが世界を変えていく大きな力となるのです」という呼びかけによって、アジア・アフリカの教育に恵まれない子どもたちの学校建設を支援するチャリティ・コンサートである。2008年の出演者は、オノ・ヨーコ、奥田民生、斉藤和義、Char、トータス松本、フジファブリック、BONNIE PINKなどだだった。

 志村正彦は「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)でこう述べている。


  ジョン・レノンスーパーライブ 2008.12.08

 ジョン・レノンスーパーライブ@日本武道館

 フジファブリックはちょうど真ん中くらいの出番だったかな。出演されているアーティストさん達はソロ活動のシンガーさんが多く、ぱっぱっとバックメンバーさん達と曲を奏でては、ステージを降りていきましたが、機材転換時間が多くかかってしまうバンド、フジファブリックはやはり一曲しか出来ませんでした。ホントは二曲やる予定でして、ドラマーのシータカさんともリハーサルも済んでいたのに。ちょっと残念。でも名曲” Strawberry Fields Forever”をカバー出来て、幸せな日でした。オノ・ヨーコさんはステージ上で僕らはハグ(抱きしめて…)してくれました。

 出来なかった曲は、今後絶対ワンマンライブでやる。めっちゃ練習したからね。そして初の日本武道館。ステージから観る客席は良かったよ。360度お客さん。もっとやりたかったし、やれるであろう曲達も出来てきている…作らねばならないので、それを目指そう。ちょっとね、照準を定めたかもしれない。「しれない」という心構えじゃあ出来ない会場なので、定めた。やる。そう遠くないうちに…。


 この時の映像が、youtube にある。 2008年 Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ のいくつかの映像の一つである。

     


 この映像の最後のシーンで、志村正彦が登場している。ちょっと照れくさそうにしながら一生懸命に声を出している。彼が歌った『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』の歌詞は次の箇所である。


And so happy Xmas (War is over)

For black and for white (If you want it)

For yellow and red ones (War is over)


 残念ながらここでカットされてしまったが、この後おそらく次の部分が歌われたのだろう。


Let’s stop all the fight (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


 この歌の中でも「without any fear」というところに惹かれている。あらゆる意味での戦争のない世界、恐怖のない世界こそが、私たちが望む世界である。

 この映像にはオノ・ヨーコも登場する。志村正彦や他のメンバーもハグされたのだろう。そして、この時が志村にとって初の日本武道館のステージだった。「ステージから観る客席は良かったよ。360度お客さん。」「ちょっとね、照準を定めたかもしれない。「しれない」という心構えじゃあ出来ない会場なので、定めた。やる。そう遠くないうちに…。」と書いている。日本武道館でのライブが目標となったようだ。それは叶わなかったが、志村正彦がこの会場で『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』を歌った姿を心に刻んでおきたい。



2020年12月17日木曜日

ジョン・レノン/志村正彦 『Love』[志村正彦LN266]

 JOHN LENNON『Love』のミュージックビデオが「johnlennon」公式チャンネルにある。2003年リリースのDVD『レノン・レジェンド』収録作品の「Ultimate Mix」ヴァージョンである。公園と海辺のシーンは、1971年、ニューヨーク、マンハッタン島の「Battery Park」とスタテン島の「South Beach」で撮影された。この時、ジョンは31歳、ヨーコは38歳。ジョンとヨーコ、二人の「LOVE」の日常を伝えている。 

 


LOVE. (Ultimate Mix, 2020) - John Lennon/Plastic Ono Band (official music video HD)


   LOVE 

 Love is real, real is love

 Love is feeling, feeling love

 Love is wanting to be loved

 Love is touch, touch is love

 Love is reaching, reaching love

 Love is asking to be loved

 Love is you, you and me

 Love is knowing we can be

 Love is free, free is love

 Love is living, living love

 Love is needing to be loved


 written by John Lennon

 vocals and guitar: John Lennon

 piano: Phil Spector

 produced by John Lennon, Yoko Ono & Phil Spector

 from the album 'John Lennon/Plastic Ono Band'


 映像の最後の場面。海辺の波打ち際の光景。二人が各々書いた「JOHN LOVES」「YOKO LOVES」の文字に打ち寄せうる波。文字は消えていくかに見えるが、映像は溶明に転換される。だから、この文字がどうなるのかは分からない。この文字を「Imagine」することが求められているのかもしれない。


 ジョン・レノンが亡くなった1980年に志村正彦は生まれた。


 志村正彦・フジファブリックは、『Love』のカバーを2005年9月30日発売のジョン・レノンへのトリビュート・アルバム『HAPPY BIRTHDAY,JOHN』(東芝EMI)に収録している。また、2009年10月14日発売『LOVE LOVE LOVE』(EMIミュージック・ジャパン)では『I WANT YOU』をカバーしている。

 志村は生涯で二度、ジョン・レノンとザ・ビートルズのカバー曲をリリースしたことになる。どちらも志村ならではの「歌」の世界を作っている。何よりもジョンレノンへのリスペクトが感じられる。

 なかでも僕は、志村が『Love』で「Love is touch」と歌うところにもっとも惹かれる。この歌を何度聴いても、この「Love is touch」に慣れてしまうことがない。いつも何かが心の中で動く。心と体のやわらかいところに触れてくる歌い方だ。


「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)でこの音源の制作について述べている。


 JOHN LENNON  2005.09.09

 もう知ってる方も多いと思いますが、フジファブリックはJOHN LENNONトリビュートアルバムに参加しています。今月末の発売ですか。名曲をカバーしてます。いろんなミュージシャンと同じように、ビートルズを聴いて育った僕ですが、まさか自分がJOHNのトリビュートに参加できるなんて夢にも思ってなかったんで、夢心地です。しかもオノ・ヨーコ公認…。

 とはいいつつ、曲はドカンと思い切ったことやりました。JOHNの感じに似せてとか、JOHNの感じでとか、そんなことは恐れ多くてできませんでした。でもかなりいい感じです。

 今回のレコーディングはレコーディングスタッフ、メンバーともに、1980年生まれの人が多かったです。JOHN LENNONの亡くなった年の生まれの人達です。なんか不思議な感じです。あ、今回は久しぶりに片寄さんともやってます。

 とにかくスゴいものが出来ました。


 志村自身も「1980年」という年には特別な想いがあったのだろう。

この歌のライブは『Live at 渋谷公会堂』に収録されている。2006年12月25日、クリスマス一夜限りで渋谷公会堂で行われたライブだ。映像がyoutubeにあった。

 


 志村はアコースティックギターを奏でながら伸びやかに歌っている。しかも静謐で美しい。ここでの「Love is touch」の歌い方は、CD音源と異なり、強いアクセントが込められている。何かに触れようとするかのように。辿りつこうとするかのように。

 今振り返ると、志村正彦のすべての歌は、あまりあからさまに語られることのない「愛」の歌であったようにも思われる。

 


    


2020年12月8日火曜日

ジョン・レノンそしてオノ・ヨーコ

 今日はジョン・レノンそしてオノ・ヨーコのことを書いてみたい。想い出語りである。

 四十年前の今日、1980年12月8日、ジョンは銃弾に倒れた。深夜、時差があるのでその翌日だったかもしれないが、確か12時を過ぎた頃に友人から電話があった。「ジョン・レノンが死んだのを知っているか」京都生まれの彼が京都弁で捲し立てたことを覚えている。(その京都弁は再現できないが)。なぜ彼からの電話だったのか。よく思い出せない。僕がジョン・レノンの熱心なファンだったことを知っていたのだろうか。前後の記憶が欠落している。

 その3週間前くらいに、『ダブル・ファンタジー』がリリースされていた。僕の部屋のオーディオラックにそのアルバムが立てかけられていた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの久しぶりのアルバムだった。その夜からかなりの間、このアルバムを繰り返し聴いた。ジャケットの二人の写真も繰り返し見た。

 当時の僕は一人の聴き手として「ロックの時代」を生きていた。今振り返ると、ジョン・レノンが亡くなった1980年は時代の曲がり角だった。その後ゆるやかに、「ロックの時代」は終焉を迎えていく。

 それから遡る1970年代前半の時代、僕はロックミュージックに強く強く惹かれていた。当時の音源や情報源は、深夜放送と音楽雑誌。あの頃のラジオでほぼ毎日のように流れていたのがジョン・レノン。曲は『ラブ』や『マザー』。アルバムでいえば『ジョンの魂』。ロックの中心にジョン・レノンがいた。

 英語の歌を聴くという経験、もちろん聞き取ることも理解することも大してできなかった。だが、ジョンの声と言葉には意味を超えるものがあった。声が心に染み込む。そして身体に染み渡る。そんな経験は初めてだった。そして、やがて、言葉の一つ一つが何かを突き破るようにして聴き手に届けられていく。ロックは声だ、言葉だ、そういう確信も得た。

 オノ・ヨーコにも強い関心を持った。ジョンの妻であること。日本人であることが大きかったのだろう。1973年4月、ジョンとヨーコは、「ヌートピア」という架空の国家の誕生を宣言した。領土も国境もない想像の国家、『イマジン』の具現化だった。

 1974年8月、来日したオノ・ヨーコ&プラスティック・オノ・スーパー・バンドのライブを新宿厚生年金会館で見た。ヨーコの声とパフォーマンスに圧倒された。分からないままに分からないものを聴いていたのだが。公演終了後、通用口近くで投げキッスをして車に乗り込んで去って行くヨーコをたまたま目撃した。当時の僕には何もかもが鮮烈だったが、四十数年が経つと靄がかかってしまう。しかし、車に乗り込む瞬間のオノ・ヨーコだけは記憶に深く刻きこまれている。

 オノ・ヨーコのライブを見た1974年8月、僕は15歳、高校1年生だった。ジョン・レノンが亡くなった1980年12月、僕は21歳、大学4年生になっていた。十代後半からそれを少し超えるまでの7年ほどの年月、僕にとってのロックの季節は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが輝いていた「ロックの時代」にそのまま重なっている。


 


2020年11月15日日曜日

「ロックの時代」の「最後の男」-ブルース・スプリングスティーン

 先日、〈ロックの時代「俺が最後の生存者」 グラミー賞20回、71歳のスプリングスティーンが語る〉という記事が朝日新聞に掲載されていた。今回はその記事を紹介したい。ブルース・スプリングスティーンの新アルバム『レター・トゥ・ユー』発売を機に、世界の複数メディアの合同インタビューに応じたもので、日本からは朝日新聞が参加したそうだ。

 


 この記事で、ブルースは改めて自らのロック人生を振り返っている。『レター・トゥ・ユー』の歌詞とインタビュー内容を照らし合わせた優れたテキストであるので、長くなるがここに引用したい。署名者は定塚遼氏である。


 啓示的で隠喩に満ちた詩世界は、ときに宗教世界とも接近する。半世紀前と現代を行き来し、通り過ぎてきたもの、失ったものを探りながら、やがて来る自らの死と静かに向き合う。

 「大きな黒い汽車が 線路の上をやってくる」「今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と歌うアコースティックナンバー「ワン・ミニット・ユア・ヒア」でアルバムは静かに幕を開ける。

 人生の夏と秋の時代の一シーン一シーンが走馬灯のように巡り、最後に「星々は消える 石のように黒い空に 今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と結ぶ。人間の営みをロングショットで俯瞰(ふかん)した詩は、ある種の諦念と無常観をたたえている。「ささやくような曲でロックアルバムを始めるのは非常に奇妙だ。だが、それでアルバムは離陸した」と話す。

 ブルースは、自身の「夏の時代」についてこう語る。「初めてバンドを組んだ60年代半ばは、ロックンロール音楽を演奏するのはティーンエージャーだけ。至る所に、バンドが演奏して、技術を磨くことができる場所があった。一種の黄金時代だった」

 半世紀が経ち、「最初のバンドの最後の生存者になった」というブルース。ロック音楽が文化や社会を牽引(けんいん)した時代にバンドを始め、「ロックンロールの未来」と評されたブルースは「ラスト・マン・スタンディング」でこう歌う。「ロックの時代が俺を押し上げた」「俺は今、その時代の最後の男」


 ここでブルースは、自分自身が「ロックの時代」の「最後の男」だと述べている。「最後の男」というのも使い古されたフレーズだが、それを修飾するのは「ロックの時代」である。1960年代から2020年まで、この半世紀以上の年月が「ロックの時代」だろうが、少なくともアメリカという場においては、ブルース・スプリングスティーンはその始まりの頃から(実際はその始まりからやや遅れてだろうが)現在まで、彼の渾名どおりの「The Boss」ボスであったことは間違いない。そのロックの「ボス」が自らを「ロックの時代」の「最後の男」だ位置づけている。その発言がそのまま受けとめられることが、ブルース・スプリングスティーンのブルース・スプリングスティーンたるゆえんだろう。『レター・トゥ・ユー』、彼の新アルバムを聴いてみたくなった。

 この記事の終わり近くで、「50年間にわたり曲を書き続けてきたブルースだが、いまだに曲作りに恐れのようなものを抱くという」という説明と共に、ブルースの次の言葉が直接引用されている。


それはただ空中にある。感情の中にある。心の中にある。それは魂、精神、心、知性の中にある。そして、ただ何かを空中から引き出して作るだけなので、ある意味で非常に恐ろしいところがある


 何かを空中から引き出して作る行為。その行為の「恐ろしいところ」に触れていることが、非常に興味深い。創作という行為はおそらく、至福と共に、何か恐ろしいところにたどりついてしまう。光あふれるものと闇に閉ざされるところ。ポピュラー音楽であるロックは、そのポピュラリティの反面、そもそもの始まりから、光と闇が相争いながら共存する世界を歌っていたとも言える。ロックの魅力はそこにあった。そしてロックの時代はその証人としてもある。

 このブルース・スプリングスティーンの発言を読んで瞬間的に、ある自伝的小説の一節を想いだした。芥川龍之介『或阿呆の一生』の「八 火花」である。


 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。


 芥川龍之介は、十数年という短い作家生活の中で、この「空中の火花」をつかまえつづけようとしていた。特に『蜃気楼』のような晩年の作品では、光と闇のつづれ織りのような小世界を構築した。

 インタビュー記事に戻ろう。その最後でブルースは「私の後悔の一つは、長く日本に行けていないことだ。以前ツアーで日本を旅したとき、素敵な観客と出会った。子どもができるなど、色々な事情で行けなかったが、私は再び日本に戻って、観客とつながりたいと思っている。うん、そうするつもりだ」と述べていた。

 彼の単独の日本公演は、1985年4月の「Born in the U.S.A Tour」、と1997年1月の「The Ghost of Tom Joad Tour」の二回だけである。(他は、1988年9月、「A Concert Human Right Now」への参加)

 その二つとも、僕は会場に出かけていた。85年の「Born in the U.S.A Tour」は国立代々木競技場第一体育館。Eストリート・バンドとの3時間を超えるライヴだった。歌と演奏もそうだったが、それ以上に会場の異様なほどのものすごい熱気が今でも記憶に刻まれている。97年の「The Ghost of Tom Joad Tour」は東京国際フォーラムホール。ソロのアコースティック・ライブだった。こちらの方は逆に会場が静まりかえっていた。その静寂の中でのブルースの内省的でいてしかも力強い声が、印象に深く残っている。この時はコンサートの始まる前に、「今回の歌のイメージから、席を立たないで座って聴いてほしい」という意味のブルース自身による要請がアナウンスされていた。

 今思い返せば、この二つの日本公演ライブによって、ロックの時代の最後の男、ブルース・スプリングスティーンの「動」と「静」、「光」と「闇」の二つを体験したとも考えられる。


2020年10月31日土曜日

山梨という場、歌の原動力 [志村正彦LN265]

  十月が終わろうとしている。月の初めに金木犀が香りだした。僕の周辺では例年より遅かった。いつもは九月の下旬だ。香りも微弱だった。天候のせいかどうか分からないが、香り出す時期、香りそのものの強さにも変化があるということなのだろう。そんなこともあって、今年は金木犀の香りと共に時を過ごすこともなかった。季節を受けとめる心の余裕もなかったのかもしれない。

 「偶景web」の更新も滞った。ブログの文を書くにはある種の気分のモードになることが必要だが、そのモードがなかなか訪れない。切替ができない。原因は仕事の過重なのだろう。以前にも書いたがオンライン授業が多い。内容のすべてを画面の映像と音声に変換していかねばならない。通常の体面授業よりも緻密で時間がかかる作業となる。もう一つの要因もある。この春から就職支援の教員側のチーフもしている。この仕事が非常に重い。ほとんどオンラインの支援になったので、こちらも緻密さを要求される。コロナ禍で大学生の内定率が低下している現状を何とか打開しようとあれこれと対策を考えている。学生を社会に送り出すことの支援は教育と同様に重要である。

 山梨英和大学には「山梨学」という授業がある。山梨の歴史、文化、社会、経済などを学ぶ必修科目であり、2年次の全員180人程が受講する。県内のほとんどの大学で山梨学をテーマとする授業はあるが、必修科目としているのは本学だけである。この科目を昨年度から担当しているが、今年度はコロナ禍によって、実施時期を前期からを後期に移動させたが、受講生が多く、現状の教室規模では体面が不可能なので、結局、オンライン遠隔授業となった。半分以上の講義は外部講師を招くので、オンライン授業の準備や支援をする必要もある。僕は、山梨と文学や文化という観点での授業を担当する。具体的には、「芥川龍之介と甲斐の国-山梨への旅とその風景の叙述、飯田蛇笏との交流」、「映画『二人で歩いた幾春秋』(木下惠介監督)で描かれた戦後の山梨と教育」「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」というテーマにした。

 九月末から、「山梨学」が始まった。志村正彦・フジファブリック『赤黄色の金木犀』を導入に置いて、「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」全3回の講義を始めた。その後、宮沢和史・THE BOOM『釣りに行こう』、藤巻亮太・レミオロメン『粉雪』と続けた。『赤黄色の金木犀』にしたのは季節がちょうど合うからだ。昨年は四月だったので、『桜の季節』にした。彼らの歌と言葉を通じて、山梨の季節、春夏秋冬、風景を「発見」あるいは「再発見」することを意図した。単なる知識伝達の授業にはしたくない。聴くこと、読むことは主体的な行為としてある。そして、ロックの歌は現代の文学として存在している。

 以下は講義スライドに記した内容である。以前このブログに書いたことをもとにした。

 山梨が誇る「三大ロックバンド」(この言い方は古風であるが、そのまま使うことにしたい)、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリック。ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは山梨で生まれ山梨で育った。三つのバンドは共に、「山梨」という括りとは関係なく、「日本語ロック」の中で重要な位置を占める。

 ザ・ブームの宮沢和史、レミオロメンの藤巻亮太、フジファブリックの志村正彦は「ロックの詩人」としての評価も高い。宮沢は『宮沢和史全歌詞集1989-2001』(2001/11/1、河出書房新社)を出版し、志村の没後、『志村正彦全詩集』(2011/2/22、パルコ)が刊行されている。

 宮沢和史は甲府市で生まれ育った。彼の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」などの街の通り、『釣りに行こう』の荒川の源流など自然豊かな場の二つがある。甲府盆地の街中、そこに流れてくる川。彼はその場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。特に『島唄』の舞台、沖縄は第二の故郷になった。山に囲まれた山梨、海に囲まれた沖縄、どちらも「島」であるという視点が宮沢にはある。山梨も沖縄も、そこで生まれ育ち、暮らす人々にとっての「世界でいちばん美しい島」だと宮沢は述べている。

 宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅の北西側に位置する商店街は、志村正彦にとっての下吉田やその近くにあった商店街に相当するのではないか。昭和40年代頃まではまだ「朝日通り」界隈には「路地裏」の風情があった。その後、郊外へと発展した都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年に富士吉田で生まれた志村は昭和の名残のある「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。

 志村正彦の歌詞の世界には、下吉田、新倉山浅間神社の「いつもの丘」、富士北麓の風景というように、宮沢と同様に、街中や路地裏のような場と自然に恵まれた場と季節感の豊かな風景の二つが存在している。甲府には武田家の歴史や江戸時代に街の文化が栄えた歴史がある。富士吉田には富士講や織物産業の街としての歴史がある。

 それに対して、藤巻亮太の出身地である御坂(現、笛吹市)は、御坂山系からつながる扇状地である。なだらかに広がる丘陵地もあり、周辺の山々そして空が見える。藤巻の歌には空、雲、宇宙がよく出てくるのはこのような眼差しのためであろう。しかし、御坂は峠でもある。峠には峠としての地理的な区切りもある。だからやはり、幾分か閉ざされた視線も垣間見える。今は果樹栽培の盛んな農業地帯でもあるが、古代からの「甲斐路」、「鎌倉街道」の一部も通る「交通」の場でもあった。現在も、甲府盆地と富士北麓をつなぐ中継点でもある。

 地理的、地形的な観点からいえば、宮沢の甲府から、藤巻の御坂を通って、志村の吉田へと至る「歌の街道」があるようなものだ。彼らが生まれ育った場とそこから眺める風景は彼らの歌に深い影響を与えている。山梨学という授業は山梨の歴史や社会も対象とするので、そのような視点での考察も加えた。

 周囲を山々に囲まれている山梨は閉ざされた地であり、場である。閉ざされている場ゆえに外へと向かう志向性がある。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の三人には、内側に向かう一種の内閉性と、逆にそれゆえに外へと開かれていく志向性がある。その矛盾する動きが、彼らの歌の原動力になっている。

2020年9月19日土曜日

「神明花火 ~平和への祈り~」と『若者のすべて』[志村正彦LN264] 

  9月16日、山梨の地元局、テレビ山梨UTYで『世界に届け「神明花火」平和への祈り』が放送された。以前からこの番組の宣伝の際に、志村正彦・フジファブリック『若者のすべて』がBGMになっていたので、もしかするとどこかで使われるのかと思ってこの番組を見た。

 「神明の花火」(しんめいのはなび)は、毎年8月7日、山梨県の市川三郷町で開催される花火大会である。公式HPにその歴史が記されている。

甲州市川の花火は、武田氏時代の「のろし」に始まるといわれています。武田氏滅亡後、徳川家康は信玄のすぐれた技術を積極的に取り入れました。市川の花火師たちも徳川御三家に仕え、花火づくりに専念したといわれています。(中略)神明の花火は江戸時代の元禄・享保(1688~1736年)頃から、いっそう盛んになり日本三大花火の一つとされ、賑わいました。「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」とうたわれ、恋人たちの出会いの場としても親しまれてきたそうです。市川で一緒に花火を見ると幸せになれると言い伝えられています。

 その後、「神明の花火」の歴史は途絶えてしまったが、平成元年8月7日、山梨最大の規模の花火大会として復活して現在に至っているが、今年はコロナ禍で中止となってしまった。

 このUTYの番組は地元の花火業者、齊木煙火本店・マルゴーの方をゲストに呼んで、2019年の映像を紹介していたが、最後に現地の市川三郷町の笛吹川河川敷からの生中継があった。どうやらサプライズで花火が打ち上げられるらしい。もしかするとその音楽に『若者のすべて』が使われるのかもしれないという期待がよぎった。

 現地では市川三郷町長がこの花火に寄せるメッセージを述べていた。カウントダウン後に、打ち上げ花火の映像が流れた瞬間に『若者のすべて』のイントロが流れた。しかし、すぐに音が消えてしまった。生中継には時にこういうトラブルがある(困ったアナウンサーが、本来なら音楽に合わせてだったがという断りを入れた)。そうこうしているうちに、志村正彦の声が聞こえてきた。やはり『若者のすべて』だ。嬉しかった。それ以上にホッとした。このハプニングもかえって現場の臨場感があったようにも思う。

 花火の終了後、フジファブリックの『若者のすべて』の曲に乗せて花火を打ち上げたというアナウンスが入った。曲はほぼフルコーラスに近かったが、「ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな」の箇所はカットされていた。

 後日、UTYのyoutubeチャンネルでこの映像が流されるという知らせがあった。今朝起きて探してみるとすでにyoutubeにUPされていた。「神明花火 ~平和への祈り~ 令和2年特別打ち上げ」という映像を早速再生。神明の花火の煌びやかな映像と共に『若者のすべて』の音源が綺麗に聞こえてきた。繰り返し、見て聴いた。神明花火の「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」という言い伝えのように、夏の花火大会は恋人たちの出会いや再会の場でもあるのだろう。『若者のすべて』の歌詞の物語につながるようにも感じた。



 説明にはこう書かれていた。

  32回目を迎えるはずだった「神明の花火」大会が新型コロナウィルス感染拡大の影響で中止に。地元の花火業者を助けたいと多くの協賛社が支援をしてくれました。その支援に感謝するために市川三郷町と花火業者が9月16日にお礼の花火を打ち上げました。フジファブリックの「若者のすべて」に合わせて500発以上の花火が夜空を彩りました。

 昨年は、志村正彦の故郷近くの「河口湖湖上祭」の花火大会、山形県の「赤川花火大会」でこの曲が流された。NHKの番組でも取り上げらた。コロナ危機の今年は思わぬかたちで、甲府盆地の南の地、市川でサプライズ花火の音楽としてこの曲が使われた。

 昨年の河口湖「湖上祭」も、今年の市川「神明花火」もそうだったが、この山梨の地で打ち上げられる花火に『若者のすべて』の志村正彦の声が響き合うのは格別である。

 花火には悪疫退散の意味合いがあるという。コロナ禍の退散の祈りを込めて、この映像と音源を今年の最後の最後の花火として受けとめたい。


2020年9月6日日曜日

夏の終わり-『線香花火』3[志村正彦LN263]

 9月になった。残暑が厳しいが、暦の上では夏が終わった感がある。

 今日の午前中にも再放送があったが、9月3日、NHKサラメシ シーズン10の「まるごと富士山スペシャル」が放送された。これまでの富士山サラメシをまとめた番組ということなので、もしかしたらと思って録画しておいた。やはり、最後にフジファブリック『若者のすべて』が使われていた。(確か、2013年、サラメシの富士山取材の回で『茜色の夕日』が使われた。その記述が見つからないのでここで正確に書けないのだが)

 番組で1分40秒ほど流れた『若者のすべて』の歌詞は次の部分である。


  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
  それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

  夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
  「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 付言すると、この番組のBGMが凄い選曲だった。歌ものは、Bruce Springsteen『Born to Run』、Bob Dylan『Like a Rolling Stone』と『若者のすべて』の三曲だった。オープニングが Springsteen、中ほどにDylan、エンディングが志村正彦だった。この三つの選曲に特別な意味はないのだろうが、「Springsteen、Dylan、志村」というロックの詩人の並び。ここに書くだけでも、「僕は読み返しては 感動している!」という気分だ。

 今年はコロナ禍のために富士山の登山道が閉鎖された。山開きはなく、吉田の火祭りもなかった。富士の夏はそのまま閉じられることになった。
サラメシの番組では『若者のすべて』とともに富士の映像が閉じられた。富士北麓の短い夏の季節も終わった。

 志村正彦・フジファブリック『線香花火』に戻ろう。


『アラカルト』ジャケット(『線香花火』収録)


 前回、『線香花火』には、《悲しさ》の表出があり、《悲しさ》が凝縮されているが、《悲しさ》の終わり、《悲しさ》からの分離があるようにも思われると書いた。青春特有の《悲しさ》の季節があるが、この《悲しさ》と対比されるのが、次の『茜色の夕日』の一節である。


  短い夏が終わったのに
  今 子供の頃のさびしさが無い    



 「短い夏が終わったのに/今 子供の頃のさびしさが無い」の一節が、僕にとって『茜色の夕日』の中でもっと染み込んでくる言葉である。子供の頃は夏の終わりに、なんだかとてもさびしくなった記憶がある。子供心に、夏が終わってしまう、もう夏の時が戻ることはない、そんな想いが浮かんできた。それでも少し経つと、そのさびしさは忘れてしまうのだが。

 青年になると、その「さびしさ」を感じることはなくなる。


  悲しくったってさ 悲しくったってさ
  夏は簡単には終わらないのさ


 むしろ、この『線香花火』の《悲しさ》のようなものを感じるようになる。青春時代の劇は必然的に《悲しさ》をもたらす。
 少年時代のさびしさと青年時代の悲しさ、この二つには、生の歩みにともなう普遍的な感情がある。『茜色の夕日』の主体「僕」は、少年時代のさびしさが失われたことに気づく。『線香花火』の主体は、青年時代の悲しさの只中にはいるがそこから少しずつ離れてゆく感覚を掴む。

 志村は、『茜色の夕日』の「短い夏が終わったのに」に対して、『線香花火』では「夏は簡単には終わらないのさ」と歌う。終わらない夏はむしろ夏の終わりという季節の感覚を描き出す。そもそも「夏は簡単には終わらないのさ」という表現は、夏の終わりの方にアクセントがある。終わらない夏もいつか終わるのだ。そうなると、「線香花火」そのものが、その変化と消滅の姿が、終わらない夏が終わることの象徴とも考えられる。

 『茜色の夕日』と『線香花火』をそのような観点から捉えると、『若者のすべて』の「真夏のピークが去った」という季節の時間が響き合ってくる。この三つの曲の夏は「終わった」「簡単には終わらない」「去った」と歌われる。終わる季節、去りゆく季節とともに、終わるもの、去りゆくものが現れてくる。

 志村にとって『茜色の夕日』と『線香花火』は、詩的世界の資質が開花した作品である。サウンド面でも、『茜色の夕日』はスローテンポのバラード、『線香花火』はアップテンポのロックのそれぞれ原型と位置付けられる作品である。夏の終わりの季節とともに、夏の感情と感覚の極まるところから離れてゆく。このモチーフを『若者のすべて』は引き継いでいる。この曲はミディアムテンポの傑作でもある。

 各々の作品の夏の終わり、その流れ方が、歌詞の時間、楽曲のテンポを形作っているのかもしれない。