11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

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2017年8月22日火曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、公園の銅像、芥川龍之介への影響-ストックホルム3

 ゆるやかな坂を上がり、Drottninggatan 85番地にある「青い塔」の一室、ストリンドベリの旧居・記念館にたどりついた。もう午後7時半を過ぎていた。当然閉館している。でも時間には関係なかった。この記念館は改装のために半年ほど閉館中ということを知った上で訪れたのだった。

 四ヶ月ほど前、ストリンドベリ記念館の開館日や時間を確認し、訪問時間を確保できるツアーを探して予約したのだが、出発の一月ほど前にサイトを見ると、7月から来年1月までリノベーション工事のために休館するという知らせがあった。予想外の展開にどうしようかと思案したが、すでに準備を進めていた。勤め人であるゆえ休暇期間も調整していた。結局、そのまま旅行することにした。近くの公園には銅像もあり、ゆかりの通りを歩くこともできる。そう考え直した。

 ストリンドベリ記念館は晩年四年間の住居を使ったものだ。youtubeには内部を撮影した映像がいくつもある。当時の彼の書斎や寝室がそのまま残されている。個人記念館としては王道を行く在り方だ。でも映像を見る限り、展示方法は現代の記念館としては古びている感じもする。だから改装されることになったのだろう。
 入口までたどり着いたときに、やはり、とても残念な気持ちに襲われた。仕方がない。入口の写真を撮りこの場を去った。



 「青い塔」の脇の道を少しだけ上っていくと「Tegnérlunden公園」がある。ここに銅像があるはずだ。入るとすぐにかなり高さのある銅像が見つかった。想像していたものもずっと大きくて立派だ。高さは5メートル近い。すぐ下から見上げても姿が分からない。離れてからもう一度見るとようやく全体像がつかめた。ストリンドベリで間違いない。裸身の像で、顔はうつむきながら何かを凝視している。台座の周りには彼の作品を形象化した図柄が刻まれている。ストリンドベリの精神の荒々しさを表現しているようで圧倒される。



 落ち着きのある美しい公園だった。ベンチに腰掛けて三十分ほど過ごした。散歩する人は見かけたが、この銅像を見に来る人はいなかった。(グーグルマップにもこの像については記されていない。観光客が訪れることもないのだろう)
  周りは古い建物に囲まれているのだが、ここには静かな時間が流れている。芥川龍之介とストリンドベリのことをぼんやりと考えた。

 僕は芥川龍之介の晩年の作品について持続的な関心を持ち、論文も少し書いてきた。
 1927年、芥川が亡くなる数か月前に書いた遺稿『歯車』は、その題名が象徴的に示すように、偶発的な出来事やそれらの「暗号」のような連鎖に対する不安、関係妄想的な気分、様々な文学作品(自作や海外の作品を含めて)への言及などの多様なモチーフが「歯車」のように絡み合い作用しあい、「意味」を生みだしていく。その構造を分析するのが修士論文のテーマだった。その際、ストリンドベリの『地獄』(Inferno, 1897年)が芥川『歯車』に与えた影響についても、若干ではあるが考察した。ストリンドベリと芥川は、作家の生活と作品の創造という関係性において共通性がある。

 ちょうど百年前になる。1917年1月12日、当時二四歳の芥川は『地獄』の英訳本に「この本をよんでから妙にSuper Stitiousになって弱った。こんな妙なその癖へんに真剣な感銘をうけた本は外にない」という書き込みをしている。(この蔵書は日本近代文学館に収蔵されている)その後、芥川はストリンドベリをかなり読み込んだ。『歯車』はストリンドベリ『地獄』へのオマージュのような小説でもある。

 ストリンドベリは当時のスウェーデンを代表する作家としてノーベル文学賞の声も上がっていたが、この時代は「立派な人物像」が大きな判断材料であり、この賞に値するような生き方が求められていたそうだ。彼は「多数を敵に回すような言動」があったために受賞できなかったと言われている。

 ストリンドベリの銅像がある公園でしばらく過ごした後、「Drottninggatan」(ドロツトニング通り)に戻った。中央駅の方向を写真で撮った。ゆるやかな下り坂の先にはストックホルム中央駅近くのセルゲル広場がある。さらに向こう側には旧市街ガムラスタンがある。ドイツ教会だろうか。彼方に塔が見えた。


 「Drottninggatan」は「女王通り」という意味で、17世紀につくられた由緒ある街路だ。1912年1月、ストリンドベリが亡くなる四か月ほど前に、かなりの数の青年たちが彼に敬意を表すために炬火行列をした。病身の作家は「青い塔」のバルコニーからそれにこたえたという。
 今年の4月この通りで、トラックの暴走による痛ましいテロ事件が起きている。ストリンドベリが活躍した時代から百年後のこの世界は複雑に引き裂かれている。ジャーナリスト出身であり、社会、政治、宗教、文学、科学について鋭い批評をたくさん書いた彼なら、現在の世界に対してどのように考えただろうか。

2017年8月19日土曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、地下鉄駅の壁面、青い塔-ストックホルム2

 午後6時半頃、スルッセンにあるホテルに到着した。
 スルッセンとは「水門」のこと。水位の異なるバルト海とメーラレン湖を繋ぐ水門がここにある。ホテルの窓からガムラスタンを眺望できた。リッダーホルム教会、大聖堂、ドイツ教会。第二次世界大戦に参戦しなかったため空襲がなく、13世紀の街並みが残っている。

 夏は白夜の季節で午後十時頃まで明るい。まだまだ外出する時間がある。白夜をありがたく思う。
 午後7時、ストリンドベリゆかりの場所に向けて出発する。スルッセン駅から地下鉄に乗り、四つ目のRådmansgatan駅(ロドマンズガータン)で降りる。十分もかからなかった。後方寄りの出口に進むと、通路の壁面のタイルにストリンドベリの写真が大きくプリントされている。夕焼けのような赤の地色が目立つ。関連のパネルも飾られていた。現在のスウェーデンでは古典的な作家に入り、現代の文学としてはあまり読まれていないのだろうが、知名度は高いのだろう。

 

 彼の存在は今の日本ではあまり知られていないので、略歴を紹介してみたい。
 ストリンドベリ(Johan August Strindberg)はスウェーデンの劇作家、小説家。1849年1月22日、ストックホルムで生まれる。ウプサラ大学で学ぶが中退、職を転々とする。1874年、王立図書館司書となる。近衛士官の妻シリ・フォン・エッセンと恋に落ち、77年、結婚。 79年、自然主義小説『赤い部屋』)を発表、文壇の注目を浴びる。『父』 (1887) ,『令嬢ジュリー』 (88) 等の戯曲が高く評価。91年にシリと離婚。この経緯は小説『痴人の告白』(1888)に詳しい。

 92から96年にかけて、ベルリンやパリに滞在。93年、オーストリアの記者、フリーダ・ウールと結婚、97年に離婚。この数年間はいわゆる「地獄時代」で、迫害妄想的な精神の異常をモチーフに『地獄』(1897)、『伝説』(1898)等の自伝的小説を創作する。やがてキリスト教に救いを見出し、象徴劇『ダマスカスへ』(1~2部 1898,3部 1904) に回心の過程を表し、後期の創作活動に入る。1901年、ノルウェーの女優ハリエット・ボッセと結婚、04年に離婚。07年、小規模な「親和劇場」を開き、小品の室内劇『稲妻』等を発表。1912年5月14日、胃癌で死去。享年63歳。葬儀には王室、政府、国会、大学の代表者が参列、数千人の市民が見送った。

 壁面には妻たちの写真がプリントされたものがあった。


 彼が28歳の時に27歳のシリと、44歳で21歳のフリーダと、52歳で23歳のハリエットと三度結婚する。そして晩年には若い女優、ファンニー・ファルクナーに求婚した(結婚には至らなかったが)。パネルの左上下、右上下の順で、シリ、フリーダ、ハリエット。一番右下の女性はファンニーだと思われる。すべて若く美しい女性であり、すべて短い結婚生活で終わっている。
 ストリンドベリには女性嫌悪・憎悪(その裏側には女性崇拝があるのだが)が凄まじい作品が多い。時には迫害妄想や被害妄想に至る精神の軌跡が描かれている。

 Raadmansgatan駅の階段を上がると、Sveavägenという大通りに出る。この日は「Stockholm Pride」という北欧最大のLGBTのパレードがあった。その関連イベントかは分からなかったが、大勢の人が詰め掛けていた。道路にオープンカーが行きかい、街路にはダンスミュージックが大音量で流されていた。「Pride」、尊厳や自由を重んじる社会なのだろう。

 喧噪の大通りを通り抜け、ゆるやかな坂を上っていく。目的地の Drottninggatan(ドロツトニング通り)85番地を目指した。五分も経たないうちに、角の頂上が青く光る建物が見えてきた。「青い塔」( Blå tornet )、ストリンドベリの旧居だ。
   

 1908年、59歳の時に、Drottninggatanという由緒ある通りの上り坂にあるこの美しい建物内の部屋に移り住んだ。ここが彼の最後の住居となった。1912年に亡くなるまで彼はこの家に閉じこもりがちだったという。孤独に向き合いながら晩年の作品を生み出していった。