髪を短く刈った家人の寝顔が何かに似ていると思っていて、ある朝はたと「お地蔵さんだ」と思い当たった。それでしばらく顔を見るたび「地蔵さん」「地蔵さん」と独りごちていた。そのせいだと思った。『フジファブリック』をかけていて急に「お地蔵さん」ということばが耳に飛び込んできたのは。
CDを買ったときに最初から歌詞カードを見ることはあまりない。意識したことはないが、まずはその曲を先入観なしに聴きたいという気持ちがあるのだろう。そうすると、ヴォーカルが誰であっても聴き取れない歌詞というのが結構ある。何回か聴いているうちにだいぶわかるようになってくるが、それでもここはなんと言っているんだろうという部分がずっと残ることもある。不思議なもので、いったん歌詞を確認したりきちんと聞き取れたりしたら、何度聴いても確かにそう歌っていて、それ以外には聴こえようもないのに、それ以前はずっと靄がかかったようなのだ。
『打ち上げ花火』もそんな曲の一つで、その靄の中からふいに「お地蔵さん」という志村正彦の声を拾い上げたときには、「まさかね」と思った。だって、ロックの歌詞に「お地蔵さん」? 空耳に違いない。でも、確かに聞こえる。どこぞの番組に応募しようかしらん・・・・・。
ここでようやく歌詞カードを開いて見た。
のっそのっそお地蔵さんの行列も打ち上げ花火を撃った!!
確かに「お地蔵さん」とある。それどころか、お地蔵さんの行列がお月さんに向かって打ち上げ花火を撃っているではないか。私の脳内にはお地蔵さん(六体、赤い前掛けをしている)がバズーカ砲のような手持ちの筒花火を抱えて、進んでは止まり進んでは止まりしながら満月に向かって次から次へと花火を打ち上げる映像が浮かんでしまった。・・・・・・シュールだ。
思い浮かんだのは漱石の『夢十夜』である。『夢十夜』は題名の通り十話の夢のような短い話で構成されている。うろ覚えの記憶だったが、確かめてみると「第三夜」の末尾の一文に「石地蔵」という語がある。そこからの連想だったかもしれない。多くが「こんな夢を見た」と始まるこの十の話は、しかし、どれもが現実より生々しい手触りのようなものを持っている。無意識に抑圧していた生きることにまつわる禍々しさ(それは誰の人生にも貼り付いている)を深いところからつかみだして見せられたような感じだ。だから、『夢十夜』は確かに荒唐無稽な話ではあるけれど、今私達が生きている現実と隔絶しているのではなく、地続きにある世界に思える。
『打ち上げ花火』が描き出す世界もそれに近いように思う。ある日、「夜霧の向こう側」に突然立ち現れてくる世界。それは突然出現したのか、もともとあったのに気づかずにいたのか、それさえわからないが、不気味で近寄りがたいのに、なぜだか抗いがたく近づいてしまう。そこに実際に何があるかが問題なのではなく、何かわからないものに引き寄せられてしまうことのほうが重要なのかもしれない。曲調もおどろおどろしいというか、「今から何か(たぶんショッキングなこと)が起こるぞ」という雰囲気満載で始まり、いきなり急かされるようにテンポアップする。そこで見たものが、何者か(鼻垂らし小僧なのか?)とお地蔵さんたちがお月さんに向かって花火を打ち上げる光景なのである。
しかし、この光景をどう解釈するかは人それぞれだろう。とても不気味で暴力的なものを感じる人もいるだろうし、子供を護るお地蔵さんなだけにむしろどこかユーモラスなものを感じる人もいるかもしれない。私はそのままだと怖い夢を見そうなので、脳内のお地蔵さんたちのサイズを10センチくらいに縮小してみた。すると花火の打ち上げが小さなお地蔵さんたちの密かな祝祭のようになって、心が少し穏やかになった。
追記
曲の雰囲気にすっかりだまされていたけど、考えてみたら「鼻垂らし小僧」はちっとも怖くない!!
0 件のコメント:
コメントを投稿