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2016年3月4日金曜日

桜座の森山威男

 二週間前の2月19日(金)、森山威男TRIOのライブが桜座で開かれた。
 
 森山威男は山梨県勝沼町の出身だ。勝沼町という町そのものは塩山市と合併して、現在は甲州市になってしまったが、葡萄やワインの日本一の産地として有名なので、今も「勝沼」という地名は健在だ。

 葡萄畑が広がる独特の景観と東京から車で一時間半ほどという距離にも恵まれ、日帰りコースの観光地にもなっている。最近は、勝沼のワイナリーやレストランを巡り、土地を散策しながら食や文化を楽しむ「ワインツーリズム」が盛んで、ちょっと洒落た場所になってきた。

 森山は、「第14回:森山威男さんが語る「ピットイン」との激動の時代<前編>」(インタビューと文・田中伊佐資)という記事でこう語っている。

近くに、1カ月に1回芝居がかかる勝沼劇場という小屋があるんです。幼稚園のときにジャズのような演奏を聴かせるバンドがやって来て、生のドラマーを初めて見たわけです。うわあ、すごいと感動して、将来ドラマーになろうと心に決めました。

 ネットでこの劇場を調べると、「峡陽文庫」というblogに参考となる記事があった。『山梨の演劇』(小柳津浩著)によると、明治初期に勝沼町の富町(現在の勝沼6区)に建設された劇場「勝富座」が大正11年1月に移転新築し「勝沼座」と改められた、昭和32年4月からは映画専門の「勝沼劇場」となって30年代後半まで存続したそうである。

 1945生まれの森山が幼稚園の頃となると昭和二十年代。映画専門館になる以前の芝居小屋の時代になる。そこでの「ドラマー」との出会いが「森山威男」を誕生させた。勝沼はこれぞ山梨という感じの田舎ではあるが、明治時代この地の若者二人がフランスに行き「葡萄酒」の醸造技術を学んでそれを広めたという歴史が語るように、開明的で開かれた雰囲気もある。

 僕が初めて彼の演奏を生で聴いたのは、80年代の始めの頃、甲府の中心街にあった県民会館ホールだった。そのパワーに圧倒されたことを覚えている。「ドラム」というよりは「太鼓」といった方がふさわしいそのリズムの感覚にも驚いた。(60年代終わりから70年代始めの山下洋輔トリオの時代は音源では聴いていたが。伝説のように語られている生演奏は、当然、経験していない)
 それから、甲府市民会館、勝沼町のホール、富士見高原など何度かライブに行く機会を得た。故郷ということで、山梨の色々な場所で時々開催されてきた。

 今回は、今岡友美(vo)、川嶋哲郎(ts)、森山(Ds)というトリオ編成。
 「桜座の怪物くん」龍野治徳さんが「山梨出身の世界的なドラマー」と紹介してライブが始まった。龍野さんのピットインマネージャー時代からの絆があるのだろう。
 
 ところどころMCが入る。寡黙な印象があるのでこれはやや意外だった。桜座は客席が近いので、自然に話しやすい感じになるのかもしれない。
 高校時代、県民会館近くのパチンコ屋に入り浸り、タバコとパチンコを愛していたこと。精神的に落ち込んで引きこもりだった頃(本人は最初「立てこもり」とか言って笑いを取っていたが)、自分にはドラム、音楽があると思い直してその状態から脱したこと。軽い話や重い話を織り交ぜて、少しずつとつとつと語っていた。

 彼の母校は甲府第一高校だ。一高はナンバースクールということからも分かるように、県内で最も古い伝統校。彼が在籍した頃は県内一の進学校でもあり、遠方から優秀な中学生が集まる高校だった。彼が勝沼から通学していたのか、甲府に下宿していたのかは分からないが、本人の弁とは異なり、優等生だったような気もする。一高の吹奏楽部に所属し、音楽家を志し、東京芸大に進学した。

 ローカルな話題を一つ。三年ほど前、テレビをつけると、彼の映像がいきなり飛び込んできた。地元のCATV局が「甲府一高吹奏楽部演奏会」の収録番組を流していたのだ。彼は後輩たちと一緒に演奏していた。テクニックのレベルが違うので、ちょっとやりにくそうではあったが、それも大らかに愉しむようにして。数年前、母校の体育館で演奏したこともあった。
 「世界の森山」は母校や吹奏楽部との交流を大切にしているようだ。(実は僕も同じ高校出身なので、森山さんは偉大な「先輩」にあたる)

 ボーカルが入ったこともあり、スタンダードナンバー中心の演奏だった。ジャズを語る力は僕にはないので単なる印象のみ記したい。
 桜座の森山威男はとても楽しそうに演奏していた。かつてのように鋭く、パワーでぐいぐいと押すのではなく、のびやかにリラックスして敲いていた。
 聴き手と対峙するのではなく、聴き手をおだやかに包み込んでいた。

 七十歳になった森山さんの音楽に僕はなんだかとても納得したのだった。

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