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2016年3月21日月曜日

『火の鳥』と『若者のすべて』-メレンゲ『火の鳥』2

 メレンゲ『火の鳥』、冒頭の情景。
 鳥が空を飛んでいる。歌の主体は「急いでいるのでしょうか」と問い、鳥は「私にもわからない」「意味もなく 意味もなく ただ羽があるから」飛んでいたと応える。この対話はそのまま、歌の作者クボケンジにとって、志村正彦の死、永遠の別離を象徴している。
  対話の後、歌の主体は「鳥」に向かってこう語る。

     泣きそうな声 悲しい事言うなよな
      ならその空の旅を 僕と行かないかい?
      道はなく壁もなく ただ空は青く その青さがゆえに 青い海
 

 歌の主体は「その空の旅を 僕と行かないかい?」と呼びかける。しかし、一緒に旅することは不可能だ。この呼びかけは無為に終わる。歌の主体は一人で、青い「空」と「海」を越えて、「道はなく壁もなく」旅を続けねばならない。
  歌の主体、そして作者クボケンジは何処に行くのか。

      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      君にだって会える 言えなかった事言おう 言えなかった事を言うよ


 「世界中」を見に行くこと。「ツンドラのもっと向こう」に行くこと。歌の主体は旅の行方をそう告げている。「ツンドラ」が何を象徴するのかは分からない。ただ、クボにとって志村の死、その悲嘆や絶望は、永久凍土である「ツンドラ」のように心が凍り付くような経験だったことは間違いない。歌も言葉も永遠に凍り付く。アポリア、行き詰まりの経験だ。

 しかし、「ツンドラのもっと向こう」でなら「君」にだって会える。「言えなかった事」を言える。そのような旅を、歌の主体そして作者クボケンジは試みる。それはもちろん、歌という作品の中の行為だ。どのようにしたらそれが可能になるのか。
 『火の鳥』の終わり近くにこうある。

      世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる
      それでも僕ら欲張りで まだまだ足りない

      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      優しくなれるかい 人は変われるって言うよ?


 この箇所を聴くとある歌のことを想いだす。フジファブリック『若者のすべて』、志村正彦が創りだした作品の言葉が浮かび上がる。

 引用箇所、『火の鳥』の「世界には愛があふれてる」「夜になれば灯りはともる」「僕ら欲張りで まだまだ足りない」「人は変われるって言うよ?」という表現は、『若者のすべて』の「世界の約束を知って それなりになって また戻って」「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ」「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という表現と響きあう。もちろんこれはあくまで、僕自身の感受にすぎないが。

  「世界」「灯り」「僕ら」「変われる」というモチーフの重なりあい。意識的というより無意識的かものかもしれないが、クボは志村作品の言葉との対話を試みる。『若者のすべて』と『火の鳥』はそれぞれ固有の世界を持つ。物語も異なる。だから歌全体としての応答ではない。部分としてのモチーフの重なりに過ぎない。しかしこれは重要なことだ。

 クボが志村の言葉と対話することで、幾分か、二人の詩人、二つの世界が複合された歌が生まれる。クボの声と志村の声が響きあう不思議な世界が開けてくる。
 アルバム『アポリア』収録作品以降、クボは意識的あるいは無意識的に志村作品のモチーフや言葉と様々な対話を試みている。音楽情報サイト「mFound」での『アポリア』に関するインタビュー取材・文/まさやん)で次のように述べている。

-歌詞カードの最後に「Special Thanks to 志村正彦」というクレジットがありますね。

クボ:そうですね。やっぱりそこはずっと気持ちとして変わらないし。それがどういう風なものというのは説明しづらいんですけど、やっぱり彼がいないと自分も音楽が出来ていないから。それ位の存在です。…まぁやっぱりどう言っていいかは難しいですが。
でも、どうとらえてもらってもいいかなと思ってるんです。初めて聴いてもらった人にしてみれば、どの曲も普通に作品として出来ているので。

 「彼がいないと自分も音楽が出来ていないから。それ位の存在です」そう言いきることができたクボケンジは、ある意味でアポリア、行き詰まりを抜け出しつつある。それを説明するのは「難しい」が、それに向き合うことはできる。
 それと共に、「どの曲も普通に作品として出来ている」という達成、作品としての普遍性を獲得していることが重要だ。普通に作品として自立できなければ、志村正彦という「存在」に応答する意味もなくなる。

  (この項続く)

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