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2016年3月7日月曜日

「銀河物語」の試み [志村正彦LN122]

 三月に入り、二十度前後の気温の日が続く。春への鼓動を感じる。桜も例年よりはやく開花するという。昨日はヴァンフォーレ甲府のホーム開幕戦。ガンバ大阪との試合だった。結果は0対1の負け。前半はほぼ互角だったが、決定力に欠けていた。失点してから守備を固められた。結局、1週間の首位。やはり、春の儚い夢に終わったか。

 冬の間に『銀河』について書き終わるつもりだったが、それができないまま冬が終わってしまう。このblogは折々の出来事に触発されて進めている。タイミングがあるので、別のテーマも途中で入ってくる。今回は久しぶりに『銀河』に戻りたい。なんだか冬に戻るようでもある。

 三月一日、勤め先の高校で卒業式があった。僕は主に三年生の現代文や国語表現を担当しているので、毎年、卒業生との関わりは深い方だ。今年の卒業生と『銀河』に関わる話を二回に分けて書こう。

 以前、このblogでも少し触れたように、志村正彦・フジファブリックの作品についてのエッセイを書く授業を行っている。春夏秋冬の四季の折々に、教科書収録の作品の合間を縫うようにして、志村正彦の歌を聴かせ、自由に言葉を紡ぎだしてもらう。なぜそのような試みをしているのか、生徒どのような文を書いているのか、志村正彦の歌をどのように受けとめているのか、このことをまとめるだけでも一冊の本の分量の言葉、そのための時間が必要とされそうなので、今ここで述べることは不可能だ。(いつかこの実践を記録としてまとめてみたい気持ちはある)

 それでも簡潔に理由を言うのなら、志村正彦の言葉は生徒たちの感受性に働きかけ、素晴らしい言葉を生み出すという「事実」があるからだ。あえて「教材」といういかにも国語教育的な捉え方をしても、志村正彦の作品は教材として、少なくともこの山梨の高校生にとって非常に優れたものだと言える。(もちろん、教師の「趣味」や「自己満足」にならないように自ら戒めている。教師がそのような姿勢で授業をすれば、生徒は言葉に向き合うことはない。)

 今年は、新しい試みとして、現代文の表現の単元で、志村正彦の歌詞を元にして短い物語を書くという授業を行った。時期が冬の始まりの頃だったので、思い切って『銀河』を選んだ。『銀河』の物語を枠組みにして、自由に想像力を働かせ、800字程の掌編小説、ショートストーリーを創作する。『銀河』を原作として物語を作る「銀河物語」と題する授業だ。音源や歌詞だけでなく、物語的な想像力を喚起するために、スミス監督によるあの奇妙なMVも見せることにした。相互に読むことが前提なのでペンネームをつけてもらった。

 生徒の書いた「銀河物語」は、想像以上に、多様であり面白かった。
 「二人」という登場人物は、若い男女、自身を投影するように高校生の男女が多かったが、しかし中には、友人同士、姉と妹、自分同士(僕と俺、俺と僕)という組合せもあった。原作『銀河』の筋にそって、その二人が逃避行を企てるのが基本の枠組ではあるが、舞台を高校にする「学園物」に変形するもの、家族を人物に取り入れる「家族小説」風に発展させるもの、「UFO」を使って宇宙や宇宙人が登場するもの。様々なモチーフやスタイルがあった。

 素朴なもの。ユーモアのあるもの。主人公の「鼓動」に焦点を当てたもの。「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」を引用する言葉遊びのようなもの。希望のある結末、愉快な結末、少し寂しい結末、夢落ちで終わるもの。日常と非日常の断絶につなげる展開もあった。字数をはるかに超え、4000字も書いた生徒もいた。もちろん中には原作の枠を出ないものもあったが、全員が物語を完成することができた。
 最終的には、ワープロに入力してもらい、小冊子に編集して配布した。生徒の作品を具体的に紹介できないのが申し訳ないが、彼らの発想力、想像力が豊かであることは認めていただけるだろう。

 自由にゼロから物語を作るのはかえって難しい。『銀河』という枠組があることで、その基盤に基づいて想像力を働かせ、物語を構築するのが可能になったという側面がある。
 もともと志村正彦は物語の全体をあえて語らないことによって、聴き手に自由に想像させることを心がけていた。インタビューで繰り返し語っている。そしてまた、僕の歌を知らない高校生のような存在に最も聞いてもらいたい、とも。
 高校生がその物語の余白を想像力で補い、志村正彦の物語に自らの物語を重ねていく。結果的に、その物語は、志村正彦との共作、コラボレーションのようなものになる。この不思議な経験もまた、彼らにとっては新しい言語体験となったことだろう。(志村正彦にとっては予想外の迷惑なことかもしれないが、「ロックな授業」のコラボとして許していただたい)

 さらにこの実践は、生徒一人ひとりがもう一度、志村正彦・フジファブリックの『銀河』を主体的に聴き直すことにもなる。
 そして、志村の作品だけでなく、他の日本語の歌を聴く、言葉を読む、さらに広く、詩的作品を読むことへの意欲を喚起したり、新しい視点で読み直すことにもつながる。そのように僕は考えている。
 
    (この項続く)

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