2025年8月21日木曜日

芥川龍之介 夏季休暇中の山梨への旅(二)甲府・昇仙峡

  7月26日の夜、芥川龍之介と西川英次郎は甲府の佐渡幸旅館に泊まった。

 十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。

 二人が甲府駅に着いたのはおそらく夜十二時近くだった。その後旅館で律儀にも二時まで日誌を書いた。

 佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。当時の絵はがきを入手したのでその画像を添付する。




 翌日の27日には昇仙峡まで歩き、猪狩村の宿に宿泊した。

 昇仙峡は甲府市北部の荒川上流にある渓谷。国の特別名勝にも指定された景勝地である。花崗岩の断崖や奇岩・奇石、清く澄んだ水の流れ、四季折々で変化に富んだ渓谷美を楽しめる。2020年、「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」が文化庁の日本遺産に認定された。


 芥川は友人の上瀧嵬に手紙を出し、その文面を日誌で披露する。

 今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。

 「甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ  亂筆不盡」

 手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろな思がをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)

 16歳という若さゆえの体力があるとはいえ、真夏の季節に甲府の中心街から昇仙峡まで徒歩で歩いたのでかなり疲れたことだろう。昇仙峽は流石にいいが、眺めが浅いと述べている。青い水と紫の藤の長い花の想像、黒い山と川、曇った空、大きな蛍。昇仙峡という美しく静かな渓谷の中で、芥川の心にはいろいろな思いが浮かんできたようだ。旅の《偶景》は人の想いを喚起する。


 そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。

 西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、東海道線で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。

 また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。


 この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家志望者は旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。 

       (この項続く)


2025年8月18日月曜日

芥川龍之介 夏季休暇中の山梨への旅(一)丹波山・塩山 

 明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友の西川英次郎と山梨と長野へと旅した。 その際の日録が、丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)、として残されている。この日誌には芥川が山梨で見た様々な《偶景》の記述がある。

 なお、この自筆資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。


 西川英次郎(ひでじろう)は後に東京帝国大学の農科に進学し、農学博士となり、鳥取大学や東北大学などの教授を歴任した。府立三中時代の五年間を通して学年全体で、西川が一番、芥川が二番という成績だった。 才気煥発な芥川に対して冷静沈着な西川というように性格は異なるが、大秀才同士で仲が良かったようだ。


 7月21日に夏休みが始まり、日誌はその日から書かれている。21日に〈學校へ汽車の割引券と證明書とをもらひに行く〉〈一日中 旅行の準備に何くれとなく忙しい〉、23日に〈茣蓙も帽子も施行の準備はのこりなくすン だ〉〈明日は雨のふらない限り出發する豫定である〉〈同行は西川君〉とあるように、夏休みの最初の三日間で旅行の準備を進めた。茣蓙(ござ)は徒歩旅行中の休憩のために用意したのだろう。


 7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。芥川は氷川が〈淋しい町〉であると繰り返し記している。

 25日、氷川から丹波山へと歩いていく。

 氷川と丹波山との間の路はわすれ難い、ゆかしい路であつた。右は雜木山 左は杉木立。

 道中のところどころに滝がある。玉川の流れが見える。寺、半ば傾いた山門、道祖神の祠。静けさにみちた村の人々の生活を羨む。

 村がつきると又山になる。靑黑い山と靑黑い谷 その間を縫ふ白い細い道 玉川の水の音 水車小屋 鶯の聲――あゝ夏だ。

 十六歳の少年は青梅街道の夏を満喫したようだ。日暮れに山梨に入る。鴨沢を経て、丹波山の宿「野村」に泊まる。後に芥川は「追憶」というエッセイでこう述べている。

 僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。


 7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。

 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。

 實にこの昏々たる睡眠土は 自然の殿堂である。思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿である。

 あらゆる物を透明にする秋の空氣が この山とこの谷とを覆ふ時 獨りこの林の奧の落葉をふみて 凩の聲に耳を澄したなら 定めて心地よい事であらう。

 この日誌は学校の宿題として課せられたものだろうが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は〈太古の樣な寂寞〉〈寥々として天地を領してゐる〉〈思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿〉などの漢文の美文調の表現で記されている。また、秋の風景やその感触も想像しているところが季節に敏感な芥川らしい。


 芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。

 それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡が微妙に変化する《偶景》を捉えている。

 自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。

 嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。


 当時の中央線の本数は少なかったので、二人は四時間も待つことになる。夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。この後二人は汽車に乗って甲府に向かった。

        (この項続く)


2025年8月12日火曜日

7月の甲府Be館 『104歳、哲代さんのひとり暮らし』『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ』『ルノワール』

 7月は、甲府中心街の「シアターセントラルBe館」で三本の映画を見た。この三つの作品についての感想を少し書きたい。


『104歳、哲代さんのひとり暮らし』

 104歳の石井哲代さんのひとり暮らしの日々を追うドキュメンタリー映画。監督は山本和宏。地元紙の中国新聞で哲代さんを取材した連載記事やベストセラーとなった書籍が元になった。哲代さんは広島の尾道の山あいにある一軒家で一人で生活している。笑顔の表情、ユーモアある言葉が生き生きと撮られている。自宅から坂道を後ろ向きでゆっくりと下りる姿が時々挿入されるが、この映画のリズムを奏でている。
 哲代さんは〈みんなになあ、大事にしてもろうて、ほんとうにいい人生ですよ、だった、言ったらいけんけん、人生です、ingでいきます!〉と語る。いつも〈ing〉でいくこと、この現在進行形の生き方に感銘を受けた。百年を超える時間も現在進行形で流れている。時はいつも現在である。




『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ』

 93歳のテルマがオレオレ詐欺で奪われた1万ドルの金を取り戻すストーリー。ジョシュ・マーゴリン監督の祖母の実話が元になっている。役柄同様に93歳の女優ジューン・スキッブが電動スクーターに乗って行動する姿がとてもカッコイイ。仲良しの孫ダニエルをフレッド・ヘッキンジャーが好演している。
 見る前は冒険活劇風の愉快な展開を予想したのだが、映画はアメリカ社会の歪んだ現実をリアルに描いていく。先進国はオレオレ詐欺や高齢化社会など共通の問題を抱えていることを痛感した。     





『ルノワール』

 早川千絵監督の『PLAN 75』に続く長編第二作。1980年代後半、11歳の少女フキ(鈴木唯)は闘病中の父圭司(リリー・フランキー)と仕事ばかりの母詩子(石田ひかり)と3人で郊外の家に暮らしている。感受性が豊かなフキはあれこれと想像をめぐらせる。当時流行した伝言ダイヤル(出会い系サービスのはしり)で知り合った男との場面が緊迫感をもたらす。
 11歳の少女の固有な存在感を際立たせた演出は評価できる。ただし、作品内の現実と想像(というよりも幻想や妄想じみたもの)を交錯させながら映像が展開していくが、その転換、切り替わるポイントがつかみにくいところが気になった。脇役の中島歩、河合優実、坂東龍汰を含めて役者たちが好演していただけに、そのことが残念だった。





 この三作は、104歳と93歳の高齢女性から11歳の少女まで、女性の生き方を余すところなく描いている。特に高齢者の場合、女性の方が生き生きと現実に向き合っているように感じた。そのような意味での「女性賛歌」の映画には独特な魅力がある。


2025年8月11日月曜日

芥川龍之介「海のほとり」の夢

 作家の書簡を読んでいると、その日付に目がとまることがある。ある作品が書かれた日付から特定の周年、例えば十年後、五十年後、百年後に当たる日に、その作品について想いをめぐらすことがある。

 今日からちょうど百年前の1925(大正14)年8月11日に、芥川龍之介は次の手紙を当時の「中央公論」編集長の高野敬録に送っている。

冠省今夕は失礼仕り候明日夕刻お出で下され候やうに申上候へどもそれにては気がせき候間明後日の朝にして頂きたく、ねてゐてもわかるやうに致す可く候間何とぞ右様に願ひ度候 頓首 

 この手紙で言及されている作品は「海のほとり」。芥川はその原稿を11日に高野に渡す予定だったが、完成させられなかったので、明後日13日の朝まで延期することをお願いしている。「ねてゐてもわかるように」とあるのはおそらく夜遅くまで原稿を書くので、朝は起きられないので原稿を所定の場所に置いて家族に托すことことを想定したのだろう。

 8月12日の渡辺与四郎宛書簡に次の歌が書かれている。

ウツシ身ハ恙ナケレドモ汗ニアヘテ文作ラネバナラヌ苦シサ

 〈文作ラネバナラヌ苦シサ〉とあるが、この〈文〉とはこの時取り組んでいた「海のほとり」を指すだろう。芥川はこの作品にかなり難儀したようだ。12日には再度高野敬録に〈明朝と申上げ候へどもどうもはかどらず候間明夕までお待ち下され度候。間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ候〉という手紙を出している。執筆は〈どうもはかどらず〉ということで13日の夕方まで再度延期することを伝えている。〈間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ〉とあえて記しているのは、一月に三四扁の作品を仕上げることもあった芥川が「海のほとり」に専念することを誓ったのだろう。

 このように芥川龍之介は苦労して「海のほとり」を完成させたが、この短編小説は彼の転機となった重要な作品である。芥川は晩年の二年間、1925(大正十四)年8月から1927(昭和二)年7月にかけて、一人称の語り手が自らの夢を語る一連の短編小説を発表したが、この「海のほとり」がその最初の作品である。1925(大正十四)年9月発行の雑誌「中央公論」に掲載された。


    * * *


 「海のほとり」は、1916(大正5)年の晩夏、芥川が友人の久米正雄と千葉県の一宮海岸で過ごした日々が素材となっている。二人は7月に東京帝国大学を卒業。8月17日から9月2日まで海岸近くの宿に泊まり、海で泳ぎ、小説も書いた。芥川はまだ二十四歳の若者であった。〈ボヘミアンライフ〉だと自ら述べているように、大学卒業から就職までの間の束の間の自由気儘な生活を謳歌した。その夏の体験を素材にして、九年後の1925(大正14)年の夏、この小説は書かれた。芥川の分身である〈僕〉と久米をモデルとした友人の〈M〉が一宮海岸の宿と海岸で過ごしたある一日の出来事が、三つの章に分けて語られている。以下、あらすじを示す。


 一章では、雨が降って外出できない〈僕等〉(〈僕〉と〈M〉)は宿で創作や読書をしている。そのうち〈僕〉は眠りに落ち、〈鮒〉が現れる夢を見る。覚醒後にその〈鮒〉が〈識域下の我〉であり、無意識の自分が夢に現れたものだと考える。二章で〈僕等〉は海に泳ぎに行く。〈嫣然〉と名付けられた少年の話をしたり、〈ジンゲジ〉と呼ばれた少女の姿を眺めたりして、海辺で時を過ごす。三章では晩飯の後に〈僕等〉は友人〈H〉と宿の主人〈N〉と四人でもう一度浜へ出かける。〈ながらみ取り〉や〈達磨茶屋の女〉の印象深い話を聞く。〈僕等〉は宿に戻りながら東京に帰ることを決める。


 このブログの第2回目で書いたことだが、ブログ名の〈偶景〉はロラン・バルトの《INCIDENTS》の邦訳『偶景』から借りてきたものである。〈INCIDENT〉は〈出来事〉〈偶発事〉などと訳されるが、訳者の沢崎浩平氏は〈偶景〉という造語を作り、書名とした。

 バルトは、〈偶景〉を〈偶発的な小さな出来事、日常の些事〉、〈人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの〉を描く〈短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ〉のような〈文〉であると記している。

 「海のほとり」の夢の中の光景も海辺の出来事の光景も、作者芥川の人生に〈舞い落ちてくる〉光景とその断片である。芥川のこれらの表現をバルトの言う〈偶景〉だと捉えてみたい。晩年は特にそのような〈偶景〉の戯れを書くことを芥川は試みた。戯れとは言っても、軽やかなものではなく、幾分かは不安に彩られた戯れではあるのだが。


 作品の夢の中で〈鮒〉が現れる部分を引用したい。

 僕は暫く月の映つた池の上を眺めてゐた。池は海草の流れてゐるのを見ると、潮入りになつてゐるらしかつた。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立つてゐるのを見つけた。さざ波は足もとへ寄つて来るにつれ、だんだん一匹の鮒になつた。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭を動かしてゐた。
 「ああ、鮒が声をかけたんだ。」

 夢の中の〈僕〉の眼差しは〈月〉〈池〉〈海草〉〈潮入り〉〈さざ波〉を捉えていく。〈さざ波〉は寄って来るにつれて次第に一匹の〈鮒〉に変わり、〈水〉の中で悠々と動く〈鮒〉の〈尾鰭〉に眼差しが注がれる。夢の中で多様に変化し動いていく〈偶景〉との遭遇。〈僕〉はその〈偶景〉から〈鮒〉の〈声〉を聞き取る。

 この〈鮒〉が象徴しているものは何だろうか。〈鮒〉の〈声〉は何を伝えようとしているのか。

 この問いに応答するために書いた論文が筆者にはある。 「山梨英和大学紀要」23 巻 (2025)に掲載され、電子ジャーナルプラットフォームのJ-STAGEにも公開されている「芥川龍之介「海のほとり」の分析」(小林一之)という研究ノートである。ジークムント・フロイトとジャック・ラカンの精神分析と夢解釈の理論と方法に依拠して、夢の象徴や言葉・シニフィアンの連鎖を分析した。文学作品の夢の分析に関心のある方に読んでいただければ幸いである。


 「海のほとり」は、芥川が晩年に追求した〈「話」らしい話のない小説〉の一つとも言われている。確かに、物語らしい物語はなく、様々な〈偶景〉、夢とその連想、海辺での何気ない出来事や会話の断片から構成されている。〈「話」らしい話のない小説〉は、作中の夢の表現や主体の無意識が露呈されていく叙述によって構成されている。〈話〉のある小説は作者の意識によって統御され、閉じられていくのに対して、〈話らしい話のない小説〉はその統御が解除され、無意識が開かれていく。そして、作者の無意識が生み出した〈偶景〉は読者にも作用していく。



2025年8月10日日曜日

甲斐・甲州・甲府-芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治

 近代文学の作家の中で、芥川龍之介、井伏鱒二、太宰治の三人は山梨を訪れ、深い関わりを持った作家の代表的存在である。

 彼らの山梨や甲府の呼称には違いがある。彼らはどう呼んでいたのか。以下、その特徴を示した例を引用したい。呼称には下線を引く。 


 芥川龍之介

・甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候
        1910(明治43)年10月14日 山本喜誉司宛書簡

・春雨の中や雪おく甲斐の山
        「蛇笏君と僕と」 「雲母」1924(大正13)年3月号
 
 井伏鱒二

・この青梅街道は、新宿角筈を起点にして青梅を過ぎ甲州に通じてゐる。同じやうに甲州街道も角筈から出発し、小仏峠を過ぎて甲州に通じてゐる。この二つの街道は不思議にも――不思議ではないかもしれないが、甲州の石和と酒折の間、甲運村といふところで再び合致してゐる。そしてこの合致点は新宿角筈の繁昌ぶりとは反対にひつそりとした村落だが、人気の荒つぽいといふ点では新宿角筈あたりと変りない。
・街道といふものは個性を持つてゐるのかもしれない。それ以上に街道の交叉点には、特に濃厚な個性が生れるのかもしれない。
        「甲州の話」  「都新聞」1935(昭和10)年1月22-25日

 太宰治

甲府は盆地である。四辺、皆、山である。

・よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
        「新樹の言葉」 『愛と美について』竹村書房  1939(昭和14)年5月刊


 芥川龍之介の 山本喜誉司宛書簡は、第一高等学校の学校行事で甲府に滞在したときのものである。甲府に二泊して、笛吹川で行軍演習を行った。「春雨の中や雪おく甲斐の山」は、山梨出身の傑出した俳人飯田蛇笏に贈った俳句である。芥川は俳句、紀行文、書簡などで「甲斐」という平安時代以来の古称で呼んでいる。

 井伏鱒二は釣りを好み、山梨をよく訪れた。広島生まれだが、山梨を第二の故郷のように思っていた。街道を歩くことも好んだので「甲州街道」という名にも含まれる「甲州」という古風な名で表現している。

 太宰治は昭和13年11月から甲府で暮らし始め、翌年1月に甲府の女性石原美智子と結婚した。「新樹の言葉」は甲府の中心街や甲府城跡(舞鶴城公園)が舞台となっている。昭和14年9月に東京の三鷹に転居したが、その後も、妻の実家の石原家や甲府湯村温泉の旅館明治などに滞在して小説を書いた。昭和20年4月から甲府に疎開し、7月の甲府空襲も経験している。太宰の居住地や生活圏は甲府市内であったことから「甲府」について語っている。

 芥川龍之介の〈甲斐〉、井伏鱒二の〈甲州〉、太宰治の〈甲府〉。各々の呼び方には、三人の作家としての個性や山梨との関わり方が表れている。


 ところで現在の山梨県には、甲府市・甲州市・甲斐市という「甲」のつく名の市が三つある。2004年から2005年にかけての市町村合併で、塩山市、勝沼町、大和村が合併して甲州市、竜王町、敷島町、双葉町が合併して甲斐市が誕生した。また、それ以前から山梨市がある。中央市という市も存在している。山梨の県庁所在地は甲府市であるが、他県の人は甲州市・甲斐市さらに山梨市や中央市と混乱してしまうかもしれない。実にややこしい、というのが正直なところであろう。


 今後このブログでは、芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治が甲府について記述した紀行文、小説、書簡などのテクストを取り上げていきたい。甲府や山梨と関わる文学作品を探究することが、〈甲府 文と芸の会〉設立の理由であり、会の活動の目標でもある。

2025年8月9日土曜日

〈偶景web〉のリニューアル

 〈偶景web〉は2012年12月にスタートして、今年で14年目に入りました。おかげさまで、記事の総数が六百ほどに達し、ページビューも五十万を超えました。この機会にこのブログをリニューアルします。

 今後も〈偶景web〉の主要コンテンツが「志村正彦ライナーノーツ(LN)」であることに変わりはありませんが、「芥川龍之介の偶景」という新しいシリーズを設けました。筆者の研究テーマである芥川作品についてのエッセイを試みていきます。また、これまでも書いてきた多様なテーマについての批評的エッセイ、甲府や山梨に関わる作品や出来事などの記事を増やしていくつもりです。 

 トップ画面の色やデザインを変えて、indexを再構成し、項目も再整理しました。 「シリーズ・テーマ  index」が最も大きな分類になりますが、いくつかの項目を加えました。「作家 index」も作り、主宰者の情報なども更新しました。

 この夏、このブログの主宰者は〈甲府 文と芸の会〉という会を設立しました。甲府や山梨に関わる小説や詩歌の〈文〉の作品の講座や演劇・音楽・映画などの〈芸〉のイベントを開催するための会です。このブログで講座やイベントの告知や申込、テーマ作品の紹介などを行いたいと思っております。なお、11月3日(文化の日)に甲府ゆかりの作家太宰治の講座・朗読・芝居のイベントを開催する予定です。

 以上の経緯から、ブログの説明文も「志村正彦ライナーノーツ/芥川龍之介の偶景/多様なテーマの批評的エッセイ/〈甲府 文と芸の会〉」に改めました。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。


2025年8月6日水曜日

「若者のすべて」の善きもの-小川洋子『サイレントシンガー』[志村正彦LN368]

 『サイレントシンガー』の「完全なる不完全」「不完全さがもたらす善きもの」という表現から志村正彦の歌が思い浮かんできたと前回書いた。今日は志村正彦の作品に即し書いてみたい。志村の歌の場合、この不完全さは表現の欠落や不在として現れている。


 例えば、「若者のすべて」の鍵となるフレーズ。

 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ反復される。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。

 「会ったら言えるかな」とあるので、誰かと会うことが仮定されている。その誰かは、歌の主体〈僕〉にとって会ったら何を言えるか困惑するような相手、おそらくは恋愛対象のような存在のことだろう。この場面全体が「まぶた閉じて浮かべている」と閉じられていることもその印象を強くしている。

  繰り返される「ないかな」「ないよな」に焦点を当てれば、その「ない」の主語は誰かと再会するという出来事になるかもしれない。つまり、再会することが「ない」という意味になる。あるいは、「い」「ない」に焦点化すれば、その主語は人間になる。恋愛対象のような人間が「いない」ことになる。

 この二行のフレーズは、歌の主体「僕」、その背後にいる作者志村正彦の複雑で陰影に富んだ心象風景を表してるだろう。そしてその繊細な表現が聴き手の心にやわらかく作用していく。小川洋子『サイレントシンガー』の言葉に依拠してこの二行を捉えるなら、不在や否定という不完全な表現をすることが、この歌に「善きもの」をもたらしている。

 再会が「ない」、人が「い」「ない」。出来事の不在、人の不在。どちらにしても、「ない」「いない」という不在や否定の反復によって、不完全な関係を表現している。また、その不在や否定に、「…かな」「…よな」「…ね」「…よな」という〈僕〉の戸惑い示す助詞をつけることによって、曖昧さやある種の迂回が付加され、表現がある種の不完全さを帯びる。

 このような表現によって、「若者のすべて」は完全なる不完全な歌として存在している。「ないかな ないよな きっとね いないよな」という不在や欠落を帯びた不完全なフレーズが、この歌そのものとその聴き手に「善きもの」を与えている。歌詞だけでなく、メロディやリズムにも、抽象的にしか言えないのだが、どこか完全な不完全さを帯びているように聞こえる。儚いがかけがえのない楽曲という感触だ。志村正彦は完全なる不完全を無意識に追い求めたのかもしれない。


 今年の夏はマクドナルドのCM「大人への通り道」篇で「若者のすべて」が使われた。ときどき放送される映像には「♪若者のすべて/フジファブリック」という表示が小さく示されていた。CMの場合は曲名と歌手・バンド名のみが記されるのが基本だから、作者の「志村正彦」の名がなかったことに特に違和感を覚えなかった。志村の名を知ることがなくても、この歌を気に入り口ずさむ人が増えてくるだろう。そして、音源や映像に関心を持つ人もきっと出てくるだろう。ささやかなものかもしれないが、人々に善きものを与えるだろう。


 志村正彦という固有名について思いをめぐらすと、小川洋子『サイレントシンガー』のリリカのことが浮かんできた。

 仮歌の歌手リリカの名が記されることは絶対にない。名は最初から最後まで「ない」ものとして扱われる。リリカの存在もまた「ない」ものようである。しかし、毎日夕方の五時になると、少女が歌う『家路』が町役場から流れてきて、人々はその歌に耳を澄ませる。

 年に二度、7月に「若者のすべて」、12月に「茜色の夕日」が富士吉田市役所の防災無線のチャイムとして、これからもずっと流されてゆくだろうが(それを強く願うが)、遠い未来において、志村正彦という固有名を知る人が少なくなったとしても、あるいは忘れられてしまったとしても(そんなことはないと筆者は確信しているが)人々はこの歌に耳を澄ませるだろう。

 「若者のすべて」は善きものを与え続けるだろう。


2025年8月3日日曜日

「完全なる不完全」「不完全さがもたらす善きもの」-小川洋子『サイレントシンガー』[志村正彦LN367]

 小川洋子の『サイレントシンガー』が志村正彦の歌を喚起させた、と前回書いたが、今回はこの小説の重要なモチーフについて、ストーリーに触れることは最小限にしながら書いていきたい。


 「内気な人々」が「アカシアの野辺」と名付けられた土地に集まって暮らしていた。内気な人々は沈黙を愛していた。十本の指を駆使した指言葉でつつましく会話していた。

 リリカのおばあさんは長年のあいだ雑用係として「アカシアの野辺」で働き、行方不明となった男の子のために人形をいくつも作った。おばあさんはリリカに「人間は、完全を求めちゃいけない生きものなのさ」「余分、失敗、屑、半端、反故、不細工……。そういう、不完全なものと親しくしておかなくちゃ」と答える。人形の材料はすべて野辺で手に入れた不完全なものだった。

 おばあさんは、野辺で売っているお菓子にはわざと小さな「不完全」をしのばせてあるという内緒話もする。この「不完全」というのは、例えば、星形バタークッキーの詰め合わせの中に一つだけヒトデ形が混じっている、という程度のたわいないものだったが、おばあさんはその「不完全」が「ささやかな幸運の印」であり、「野辺の人たちは、完全なる不完全を目指している」と格言めいたことを言う。


 リリカはおばあさんに育てられ、歌うことを覚えていく。リリカの歌はどこからともなく評判となり、仮歌の仕事が入るようになった。ケーブルテレビ局のテーマ曲、コンペに出すアイドルソングなど地味な仕事ばかりだったが、リリカに不満はなかった。依頼者が望む声を差し出して、どんなふうにでも歌うことができた。歌に正解はないからだ。それでもときに、依頼側の理想に応えられないで責められることもあった。

 話者はリリカの内部の声を次のように語る。その箇所を引用する。


 そういう時は、歌は自在に姿を変えられる風なのだから、自分を空っぽにして、その風に身を任せていればいい、と言い聞かせ、一度深呼吸をした。胸を満たすのは野辺の沈黙だった。すると自然に、再び声があふれ出てきた。

 自分の歌はどこへ消えてゆくのだろう。スタジオからの帰り、車を運転しながら時折考えた。自分の歌はお手本などと高われるほど立派なものではない。鬱陶しがられないよう、本物の歌手の耳元に潜み、もし必要なら、行き先をほんのわずか照らして差し上げましょうか、とささやくだけだ。レコーディングが終われば、仮歌はもう必要ない。それ以前に、選ばれなかった無数のパターンの仮歌は既に捨てられている。ひととき存在したわずかな証拠も残さないまま、蒸発している。

 料金所の彼が忘れ去られた文字を蘇らせるように、仮歌の痕跡をたどる何ものかが、この世界にはいるのかもしれない。不完全さがもたらす善きものを、受け止めようとする誰かが。


 「自分の歌はどこへ消えてゆくのだろう」という問いかけは、仮歌の歌手リリカの固有のものである。仮歌が存続することはない。仮歌は常に既に捨てられ、消えていく。それでも、「不完全」な仮歌の痕跡をたどる聴き手がこの世界にいるかもしれない。その聴き手は「不完全さがもたらす善きもの」を受け止めようとするだろう。リリカは仮歌の歌手であり、本物の完全な歌手からすると不完全な存在である。それでもその不完全な歌手は痕跡として在り続けるだろう。

 「野辺の人たち」が目指している「完全なる不完全」とはどういうものか。「完全」と「不完全」は対立する概念である。その二つを結びつけた「完全」「なる」「不完全」という表現は矛盾しているとも言えるが、「不完全」なものを「不完全」なものとして内包したまま、そのままに、「完全」なものとなっていく過程を示した表現だと考えてみたい。「完全なる不完全」なものが人に「善きもの」を与えることができる。


 この「不完全さがもたらす善きもの」という表現について考えているうちに、志村正彦・フジファブリックの作品が思い浮かんできた。完成された彼の歌は、声も言葉も歌い方も完全な水準に達している。しかし、その完全のなかにはある種の不完全が痕跡のようにして刻み込まれている。そして、その不完全さが聴き手に「善きもの」をもたらしている気がする。

                          (この項続く)


2025年7月20日日曜日

「若者のすべて」のチャイムと小川洋子『サイレントシンガー』の冒頭シーン[志村正彦LN366]

 今年も、志村正彦の誕生日をはさむ7月7日から13日まで、富士吉田の防災行政無線の夕方6時のチャイムが志村作詞・作曲のフジファブリック「若者のすべて」に変更され、その音が市内に響いた。

 その映像がYouTubeで流されたり、SNSで語られたりした。夏7月の「若者のすべて」と冬12月の「茜色の夕日」は富士吉田の風物詩とも言えるチャイムとなっている。7月と12月をあわせて、今回で28回目を迎えるという。


 6月30日、小川洋子の『サイレントシンガー』(文藝春秋)が刊行された。六年ぶりの原稿用紙400枚の長篇小説。早速手に入れて、一日かけてゆっくりと読んでいった。




 冒頭のシーンを読んでいくうちに、志村正彦のチャイムのことが浮かんできた。長くなるが引用したい。(ちなみに、この箇所を含む部分が発行元の「試し読み」に掲載されている)   


 毎日、夕方の五時になると、町役場から流れる『家路』が、山の中腹に広がるE-5地区にまで聞こえてくる。

響きわたる  鐘の音に
小屋に帰る  羊たち

 歌声は、麓を伝い、稜線を越え、森を抜けてくる間に、遠のいたり渦を巻いたり途切れ途切れになったりする。それでも、歌っているのは小さな女の子だ、というのは分かる。

夕日落ちた  ふるさとの
道に立てば  なつかしく

 一音一音、何の迷いもなく、のびやかに空中に広がってゆく。目を見開き、両手を脇にぴたりとつけ、爪の先まで真っすぐにのばして歌っている姿が、目に浮かんでくる。

ひとつひとつ 思い出の
草よ花よ 過ぎし日よ
過ぎし日よ

 まだ十分な厚みを持っていない舌のせいで、言葉の端々にあどけなさが漂っている。きっと、過ぎし日、などという言葉の意味も知らないに違いない。


 「若者のすべて」の歌詞を知るものなら誰でも、冒頭の一行から「夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて」という一節を想い出すのではないだろうか。

 ある町に夕方五時に流れる「家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」第2楽章のメロディに弟子の音楽家ウィリアム・フィッシャーが歌詞を付けた「Goin' Home」を、文学者・作詞家の野上彰が翻訳したものである。この曲の歌詞では、堀内敬三「遠き山に日は落ちて」の方が親しまれているが、他のヴァージョンもたくさんあり、宮沢賢治の歌曲「種山ヶ原」はその最も初期のもののようだ。

 この小説では「家路」は町役場が録音したテープで流されている。富士吉田の「若者のすべて」も、期間は限定されているが、市役所の無線のチャイムとして放送されている。「家路」も「若者のすべて」も、その町その市の人々に親しまれている。


 繰り返し再生されて録音が古びてしまったせいなのか、あるいは元々そうなのか、『家路』は町の役場よりももっと遠いどこかから、長い時間を経てはるばる届いているかのような錯覚を呼び起こす。皆をここではないどこかへ帰りたい気持ちにさせる。そこが心休まる場所であろうと、なかろうと、そもそも帰るべき場所がどこなのか分からなくとも、とにかく家路につく時が訪れたのだ。
 歌声は、帰る、というそこはかとなく心細い歩みに寄り添う。先頭を羊たちが導き、最後尾を歌声が見守る。それなのに、この歌をうたっているのが誰なのか、知っている者はいない。知ろうとする者さえいない。


  「家路」の録音テープは、町の「皆をここではないどこかへ帰りたい気持ちにさせる」が、「この歌をうたっているのが誰なのか」を知っている者も知ろうとする者さえもいない。やがて、この『家路』を歌っている小さな女の子が「リリカ」であることが明かされる。小川洋子はリリカの一生を静謐な声で語ってゆく。題名の「サイレントシンガー」、沈黙の歌い手という矛盾する言葉の組み合わせが、この小説の本質をかたちづくる。


 「家路」の歌詞には「響きわたる  鐘の音に」「小屋に帰る  羊たち」「夕日落ちた  ふるさとの」「道に立てば  なつかしく」「ひとつひとつ 思い出の」「草よ花よ 過ぎし日よ」という言葉がある。夕方、ふるさとの家に帰る道沿いで草や花を見て、なつかしさにつつまれて過ぎし日を想い出す。

 この歌のモチーフから志村正彦のいくつかの歌を想起した。

 例えば、「若者のすべて」の「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ/途切れた夢の続きをとり戻したくなって」、「茜色の夕日」の「茜色の夕日眺めてたら/少し思い出すものがありました/晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと」、「陽炎」の「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ/英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ/また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ/残像が 胸を締めつける」、そして「赤黄色の金木犀」の「赤黄色の金木犀の香りがして/たまらなくなって/何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道」。


 〈帰りを急ぐ〉〈途切れた夢の続き〉〈茜色の夕日〉〈少し思い出すもの〉〈あの街並〉〈残像〉〈金木犀〉〈帰り道〉、一連の風景やモチーフが志村の世界を貫いている。

 彼の歌の中心に、〈故郷に帰る〉、そして矛盾するようではあるがその逆の〈故郷に帰ることができない〉という心のあり方を感じる。

 小川洋子の『サイレントシンガー』、「家路」の歌詞、リリカの歌声は、このような志村正彦の歌を喚起させた。

                      (この項続く)


2025年7月18日金曜日

「若者のすべて」/マクドナルドCM「大人への通り道篇」[志村正彦LN365]

 今日、関東地方で梅雨が明けた。ここ数日の雨模様の天気から晴天に一変。真夏の日差しに包まれた。眩しい光の季節の到来だ。

 午後3時少し前のことだった。

 PCで作業をしていると、壁際のテレビから突然、志村正彦の声が聞こえてきた。「若者のすべて」の冒頭だ。驚いて画面を見ると、マクドナルド・ハンバーガーのCMだった。永作博美の姿とドライブスルーが見えた。


 早速、YouTubeのマクドナルド公式を探すと、「大人への通り道」篇というCMが見つかった。「“家族”に寄り添い続けるブランド、マクドナルドが届ける新TVCM」「永作博美さんが母親役で、マクドナルドのTVCM初出演!ドライブスルーを通じて、母が子の小さな成長に気付くハートフルストーリー〜新TVCM『大人への通り道』篇 2025年7月15日(火)より地上波にて放映開始〜」と書かれていた。三日前から放送が始まったようだ。

 「大人への通り道」篇 には30秒ヴァージョンと60秒ヴァージョンの二つある。60秒、30秒と連続して再生される映像を紹介したい。





   夏を予感させるあの印象深いイントロから、志村の声が「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた/それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている/夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて」まで、画面の物語の背景に響いていく。ロケ地は長崎。免許を取った息子が運転する軽乗用車に同乗する母(永作博美)と娘。長崎名物の市電が接近する。マックのドライブスルーに行き、ダブルチーズバーガーを注文。「ドライブスルーは、大人への通り道」という言葉で映像は終わる。

 マクドナルド公式(McDonald’s)の説明にはこうある。

CM「大人への通り道篇」は誰もが一度は経験する“成長の通過点”を、ドライブスルーという舞台でやさしく描いています。ついこの間まで後部座席にいた息子が、いまは自分の運転で家族をドライブスルーに連れてきてくれている。その成長に、よろこびと、ほんの少しの切なさがこみ上げます。親子の関係性が変わっても、ずっと訪れる場所でありたい。そんな願いを込めています。 


 フジファブリックには「Cheese Burger」という愉快な歌がある。マクドナルドのラジオCMだった。それ以来のフジファブリックの音源起用になるのだろう。

 それにしてもなぜ、「大人への通り道」篇に「若者のすべて」が使われたのか。「真夏のピークが去った】という季節感、「それでもいまだに街は 落ち着かない」という街のざわめき。夏という時。夏という場。夏の感触。そしてCMでは流れなかったが、「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という一節が、このCMの「大人への通り道」というモチーフにつながるのだろうか。


 今回のCMの「ダブルチーズバーガー」を注文する息子の声は、「Cheese Burger」の「チーズ とろけそうなチーズ/パンにはさんだビーフ 想像しただけで 早歩き」という志村正彦の声と呼応しているのかもしれない。そう考えると、このCMが愛おしくなる。


2025年7月10日木曜日

志村正彦と飯田龍太の「陽炎」[志村正彦LN364]

  今日7月10日は志村正彦の誕生日である。1980年、山梨の富士吉田市で生まれた。同じ7月10日に生まれた偉大な俳人がいる。飯田龍太。1920年、山梨の境川村で生まれた。

 六十年を隔てて、志村正彦は飯田龍太と同じ日に誕生した。時代も表現形式も一般的な知名度も異なるこの二人を同一の誕生日ということでエッセイの俎上に載せることに違和感を持つ方もいるかもしれないが、山梨の四季の風景に触発されてきわめて優れた言葉を紡ぎ出したことから、今日はこの二人の「陽炎」を表現した作品について書きたい。


 志村正彦・フジファブリックの「陽炎」は夏の名曲である。2003年の作。

 詩人は、「少年期の僕」の「残像」と「今の自分」にとっての「出来事」を描く二つの系列によって歌詞を構成している。まず「残像」系列を引用する。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける

 「残像」の系列では、歌の主体「僕」は、過去へ、「あの街並」という場へ、「路地裏の僕」自身へと回帰していく。「英雄気取った」少年期を想起しているうちに「残像」が次々に浮かんでくる。この「残像」はもうすでにそこには残っていないが、消えてしまったにも関わらず、記憶に残り続けている心象や感覚のことであろう。「残像」は執拗に現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。 次に、「出来事」の系列を引用する。

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  出来事が 胸を締めつける

 「今」、現在という時。「きっと今では」と「きっとそれでも」、「無くなったもの」と「あの人」、「たくさんあるだろう」と「変わらず過ごしているだろう」。対比的な表現によって、複雑な陰翳を帯びた「出来事」が次々と現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。「あの人」に焦点化していくが、「あの人」が誰なのかは分からない。歌詞の一節にあるとおり、「あの人」は「陽炎」のように儚く揺れている。

  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
  陽炎が揺れてる

 最後のパートでは「陽炎が揺れてる」が三度繰り返されるが、歌い方が変化していく。揺れているものが静止していくように感じられる。陽炎は揺れてやがて消えていく。

 残像も出来事も、過去の物語も現在の物語も、揺らめきが消えてゆき、すべてが静けさに包まれる。志村正彦はそのように歌い終えている。


 飯田龍太にも「陽炎」を季語とする名句がある。

 

  陽炎や破れ小靴が藪の中


 1971年の作。第六句集『山の木』に収録されている。

 「陽炎」は春の季語。日光で地面が熱せられ、風景が細かくゆれたりゆがんで見えたりする。「陽炎」が揺らめくなかで、俳人の眼差しが「破れ小靴」に注がれる。「小靴」とあるので子どもの靴だと想像される。履きつくされて擦り切れて破れてしまったのか、「破れ小靴」がなぜか「藪の中」で見つかる。「破れ」たままでそこに在る。そこに在り続けている。しかし、時間の経過とともに朽ちはてていくようでもある。

 俳人はある痛みの感覚を持ってその「破れ小靴」を見つめている。時の流れについても儚さや痛ましさやを感じている。飯田龍太は三十六歳の時に五歳の次女を病臥一夜にして失う。この句にはその次女の面影が宿っているという説がある。俳人の眼差しには深い哀しみが込められているとも考えられる。

 「藪の中」はありのままの風景だろうが、この言葉は芥川龍之介の小説「藪の中」も想起させる。「破れ小靴」そのものが謎めいた物であり、謎の迷宮の中に陽炎のように存在しているとも考えられる。生と死に対する問いかけがあるのかもしれない。

 また、切れ字の「や」、「破れ」の「や」、「藪」の「や」という「や」の連鎖と「やぶ」音の反復が独自の韻律をつくる。さらに「の中」という語法を伴うことによって、音がループする感覚を奏でている。


 志村正彦の眼差しは少年期の「胸を締めつける」「残像」に、飯田龍太の眼差しは子どもの「破れ小靴」に注がれている。表現された世界は異なるが、胸が締めつけられるような痛みの感覚が共通している。そして、「陽炎」が揺れはじめる。生と死、過去と現在の迷宮のなかに表現主体が包み込まれる。


 今日は7月10日。志村正彦と飯田龍太。日本語ロックを代表する存在と現代俳句を代表する存在。山梨で生まれた二人の詩人が同一の誕生日である偶然を祝したい。


2025年6月29日日曜日

6月の甲府Be館『小学校~それは小さな社会~』『教皇選挙』『敵』『リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界』

  6月は「シアターセントラルBe館」で四本の映画を見た。

 僕も妻もいろいろと忙しい毎日を送っていて、このところ、週に一度の映画館通いが唯一の愉しみである。Be館は甲府の中心街にあるので、映画の前後にランチを食べ、街を歩く。日常から解放される。ささやかだがそれなりにぜいたくな時の過ごし方かもしれない。今日はこの四本の映画について少しだけ感想を書きたい。






山崎エマ監督『小学校~それは小さな社会~』  父親が英国人、母親が日本人である山崎監督は、日本の公立小学校、インターナショナルスクールの中高、米国の大学で学んだ。小学校が「日本の子どもたちを“日本人”に作り上げる」というモチーフで、東京の世田谷区立塚戸小学校の生徒・保護者・教師を一年間撮影したドキュメンタリー作品だが、教師と生徒の人間的な交流と学校全体としての集団的な規律訓練が交錯する姿を丹念に追いかけている。この映画を見ながら、半世紀以上前になる小学校での出来事の記憶がぼんやりとうっすらと浮かび上がってきた。懐かしいという感情ではなく、こういうこともあったのだという発見のようなもの。それがこの映画の核にある。



エドワード・ベルガー監督 『教皇選挙』  新しいローマ教皇を選出する教皇選挙(コンクラーベ)をめぐる人間模様を描いた映画。4月にフランシスコ教皇が亡くなりコンクラーベが行われたこともあって話題作となった。予備知識がなかったのでドキュメンタリー的な作品なのかと思っていたが、実際はミステリー仕立ての映画だった。結末は想定外の展開になる。ほんのわずかに伏線が張られてはいるが、その伏線には誰も気づかないであろう。そのことを含めて、すべては前教皇の意志である、という物語の展開がバチカンらしいのかもしれない。



吉田大八監督『敵』  筒井康隆の同名小説の映画化。七十七歳の主人公の男は元大学教授。フランス文学・演劇の権威だったが、妻に先立たれ、日本家屋で一人暮らしの日々を送る。老齢や孤独ということもあってか、男は次第に自らの夢や妄想にひきこまれていく。原作者の筒井康隆がずっと(作家生涯をかけてというべきだろう)探究しているテーマだ。吉田監督は美しいモノクロ映像の陰翳と秀逸なカット割りとモンタージュによってこの難しいテーマを見事に映像化している。ただし、「敵」を映像として実体化するような戦闘的シーンは不要だった気がする。夢や妄想はあくまでも自らの内部の「敵」、無意識の「敵」として存在するのが筒井文学の本質であるからだ。


エレン・クラス監督『リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界』  報道写真家リー・ミラーの人生を描いた伝記映画なのだろうが、見終わったときに感じたのは本質的に、戦争の本質を厳しく鋭く映し出した戦争映画ということだった。写真家の眼差しが戦争の犠牲者たちを捉える。その過酷な仕事に打ち込む写真家の姿。映画内の映像だとはいえ、見ることに耐えられない残酷な被写体の姿。人間の生と尊厳を根こそぎ奪い取る戦争の姿。なぜリー・ミラーが戦争の報道写真を撮ることになったのかという問いは最後にインタビューで語られることになる。一言で言えば、戦争と性を貫く男性の暴力との闘いになるのだろうが、そのモチーフは的確に表現されている。



 四本の映画はそれぞれ本質的な問いかけを持っていた。甲府市内に残る唯一の映画館「シアターセントラルBe館」はミニシアター系作品の二番館のような存在だが、上映作の選択がいつも素晴らしい。この甲府の地でこのような映画を鑑賞できるのは特筆すべきことだ。

 この映画館はこのまま存続してほしい。僕たちにできるのは、とにかく、Be館に通うことだと思っている。