11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

右下の《申込フォーム》から一回につき一名お申し込みできます。名前欄に〈氏名〉、メール欄に〈電子メールアドレス〉、メッセージ欄に〈11月15日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。(三つの欄のすべてに記入しないと送信できません)申し込み後3日以内に受付に関するメールを返信します。《申込フォーム》での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。  *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する連絡および今後の当会の公演案内のみに利用することをご了承ください。それ以外の利用は一切いたしません。

2019年7月28日日曜日

「めくるめくストーリー」-『同じ月』4 [志村正彦LN226]

 一月ぶりに志村正彦・フジファブリックの『同じ月』に戻りたい。
 前回は第一ブロックを論じたので今回は第二ブロックとなる。このブロックは次の二つからなる。


  月曜日から始まって 火曜はいつも通りです
  水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって

  イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです
  何万回と繰り返される めくるめくストーリー


  木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです
  金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです

  家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ
  映画を見て感激をしても すぐに忘れるから


 月曜日、火曜日は「いつも通り」だが、水曜日は「気抜け」し、木曜日は「やる事」が多すぎて、金曜日になると「週末」に期待する。
具体的な描写があるわけではないが、歌の主体の一週間のリズムが伝わってくる。「慌てて転びそうになって」「多すぎて手につかずなのです」「イチニサンとニーニッサンで動いてく」などというユーモラスな語り口から、作者志村正彦の素顔が現れている。飾り気のない実直さとでも言うべきか。そうして冷静に自分を観察している。

 志村正彦は、「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々」の中に「何万回と繰り返される めくるめくストーリー」を物語っていく。彼は繰り返される日々の出来事から、あまり気づかれることはない微細なものであるが、何かを契機に輝きはじめるものを見つけ出す。例えばそれは「四季盤」の作品に傑出した形で表現されている。一年という単位の繰り返しは、春・夏・秋・冬という季節の循環となる。その反復の中で、「桜」「陽炎」「金木犀」「銀河」の物語を紡ぎ出す。定型的な表現ではなく志村の眼差しが捉えた独特の景物の「めくるめくストーリー」でもある。

 この『同じ月』では繰り返しの単位が一週間となっている。月・火・水・木・金そして週末という、より日常的な単位での反復である。題名に「月」が入っていることも示唆的である。一週間が何度か繰り返されると「月」の単位となる。また、「昨日、明日、明後日、明明後日」と歌われる『ルーティーン』は、一日単位の繰り返しを描いている。
そして、アルバムタイトルの『CHRONICLE』は年代記・編年史のことだから、一年単位の繰り返しによって築かれていく人生の年代記を指している。

 「家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ」という表現がある。志村のすべての歌詞の中で「欲望」という言葉が使われているのはこの箇所だけである。尽きることのない欲望とは何か。具体的な文脈が語られていないのであくまでも想像になるが、歌うことの欲望、作品を創ることの欲望だと僕は捉える。
 時間の反復の感覚は、一年、一月、一週間、一日という単位で繰り返し表現されてきた。そのような時間の中の「めくるめくストーリー」を歌うのが志村正彦の欲望である。志村はその欲望について何も譲ることがなかった。欲望に忠実であった。優れた表現者の欲望とはそのようなものである。

2019年7月21日日曜日

NHK『沁(し)みる夜汽車』

 昨夜、7月20日、BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車 2019夏』が放送された。NHKのwebで次のように紹介されている番組だ。

寝入りばなの一時、旅情ある夜行列車がゆく。鉄道にまつわる素敵なお話、心に染み入るエピソードを一日のおわりにお届け。出会い、別れ、日々の営み。鉄道はそれぞれの人生にとって大切な役割を担っている。その中でも、人々の心に“沁みる”物語を取り上げご紹介していく。番組は駅や路線にまつわる心温まるストーリー、本当にあった「沁みる話」を現場取材のドキュメンタリー部分と再現イメージで構成していく。

 制作者側から“沁みる”物語を強調されると、少し引いてしまう人が多いかもしれないが、この『沁(し)みる夜汽車』は僕のようなすれっからしの心にも沁みてきた。

 「沁」は常用外漢字なので「(し)みる」と読み仮名が当てられている。そのような表記を避けるために他の字で代用することをしないで、この「沁」の字をあくまで使ったことには意味がある。漢字の形はまさしく文字通りである。「氵」と「心」が織り込まれている。「氵」はそのまま「涙」と捉えてもいい。あるいは何か心の中で流れていくもの、静かに流動するものとも考えられる。なにかが心の中を流れていく。それが「沁みる」なにかなのだろう。

 昨夜の五つの物語はどれも素晴らしかったのだが、「親子をつなぐ鉄道画~西武鉄道~」「50歳からの再出発~紀州鉄道~」がとりわけ沁みてきた。ネタバレになってしまうので内容には触れないが、親と子のすれ違いの行方を追う物語であった。

 今回の番組は、4月に放送された『沁(し)みる夜汽車』の続編である。4月放送版の第1話は「49歳差の友情~JR中央線~」だった。5年前のJR中央線が舞台。山梨から東京に単身赴任してきた56歳の男性が、電車の中で具合が悪くなった小学1年生の男子を助けたことから交流が始まる。49歳の差を超えた不思議な友情の物語。あたたかくてやわらかなものが沁みてくる。

 題名に「夜汽車」とあるが、「夜汽車」が舞台となっているわけではない。タイトルバックなどの映像として流されていて、物語全体の象徴として使われている。その夜汽車のシーンを見ると、志村正彦・フジファブリックの『夜汽車』が僕の心の中で再生されてくる。


  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
  夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう

 
 この歌についてはもう何度か書いてきた。新たに付加できることもないのだが、「FAB LIST I - 2004~2009」投票に関連して、歌の完璧な叙情性という観点からすると、『夜汽車』はベスト3に入る作品であろう。
 志村の歌う「夜汽車」の物語は、具体的な出来事としては語られることがない。「長いトンネル」「見知らぬ街」「夜」「明かり」「峠」と、通り過ぎる場と時が描かれるだけである。
 「眠りの森へ行く」「あなた」に「本当の事を言おう」とする歌の主体。主体の想いそのものが叙情に純化されて、聴く者に静かに届けられる。聴く者の心に沁みてくる。
 なにかが心の中を静かに深く流れていく。それが志村正彦の叙情である。


 BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車』はもともと一話10分の作品。昨夜は五本分まとめての総集編だった。明日7月22日午後10時40分から一話ずつNHKBS1で放送される。

2019年7月10日水曜日

上映會のあるシーン[志村正彦LN225]

 今日7月10日は志村正彦の誕生日。そして『FAB BOX III』の発売日。予想より大きな箱が我が家にも昨日届けられた。まだ開封していない。なんだかもったいない気がする。週末までそのままにして落ち着いた気分の時に聴くことにしよう。

 上映會について書き切れなかったこと、とても大切なことを記したい。

 新装版『志村正彦全詩集』は会場入口のすぐ横で先行販売されていた。大きな看板があって目を引いた。
 初版は箱入りで重厚感があったが、新装版は全体として軽やかな印象だ。装丁家は初版と同様に名久井直子さん。スカイブルー系の薄い青色にかすかに緑系の色が入りこんでいる色合い。手触りがよくてめくりやすい紙質。あまり重くないので手に携えるのにも適している。新装版は手元に置いていつでも開いて読める。そんな親しみやすさがある。(まるで近代詩人の詩集のようだった質感を持った初版は本自体の価値が高い。愛蔵版や保存版としてこれからも愛されるだろう)


 購入してすぐに本を開けると、扉の志村正彦の写真が変更されていた。それを見て僕は心が動かされた。まだ一般発売されていないのでその写真について記すことは控えたいが、詩人としての志村を表象する素晴らしい写真である。この日の記念品として志村の描いたヤクザネコのステッカーが付いていた。しおりのようにして挟み込んだ。
  ホールで僕等の近くに座っていた二十代前半の男子二人もこの詩集を熱心に読んでいた。頁をめくり詩を追いかける眼差し。購入できた喜び。微笑ましく頼もしい。初版は法外な値段で取引されていて入手困難だった。だがこの新装版の発売によって、志村正彦の詩が新しい読者を獲得していくことだろう。最近聞き始めた若者たちが志村の詩の全貌に触れることができるのはとても喜ばしい。



 上映會について付言すれば、設置された装置の限界なのか、スクリーンに投影された映像、特に音質や音量にやや問題があったことは否めない。耳への刺激が少し強かったが次第に慣れてきた。個人が室内でDVD鑑賞する場合には映像も音声も調整可能ではあろうが。
 『FAB BOX III』のDVDは「Official Bootleg Live & Documentary Movies」と記されていたが、上映會の映像を見る限り、「Live」作品というよりも「Documentary」作品の色合いが強い。観客席の後ろから撮影された映像には客の後ろ姿や腕や指の動きが映り込んでいる。ノイズのように思われるかもしれないが、まるでその場にいるような臨場感を感じることもできる。やはり「Documentary」なのだ。2009年のファンの熱い想いが伝わってきた。
 

 上映中は冷静に観賞することにつとめたが、悲しみがこみ上げてきたシーンがあった。志村が富士急ハイランドで来年コンサートを行うと告知したシーンである。そのことを誇らしく思い、そして自らを鼓舞するかのようなポーズもあった。
 2010年7月の富士急ハイランドでどのようなコンサートが開かれたかを僕たちは知っている。そのことを知っている僕たちが、今、スクリーンの中で、故郷での大規模コンサートを告げる2009年の志村を目撃している。時間は確かに流れた。映像は時間をさかのぼろうとした。真逆の時間の流れの中で時が交錯し、スクリーンの志村が幻のように見えてきた。

 2010年は志村正彦・フジファブリックにとって飛躍となる年だった。富士急ハイランドはかつて奥田民生の音楽と出会った場所、志村の音楽家としての原点である場所だった。上映會会場の富士吉田市民会館とともに富士急ハイランドが彼にとってどれだけ意味のある場だったか。音楽家としての彼の軌跡の一つの到着点となり、そして新たな出発点となる地だった。

 残酷な現実が残された。
 そのように書いてはいけないのかもしれないが、上映會のあのシーンを見てその言葉が浮かんできた。上映會の最後までその想いを引きずっていた。でも、最後の最後の「闘っている」という志村の言葉を聴いて、引きずる想いから少しずつ離れていくことができた。
 残酷な現実が残されたなどと書くのはある種の感傷なのだろう。彼は残酷な現実とも闘っていたのだ。そして時間とも闘っていた。

 志村正彦は闘っていた。

 


2019年7月7日日曜日

7月6日『FAB BOX III 上映會』[志村正彦LN224]

 昨日7月6日、フジファブリック志村正彦没後10年『FAB BOX III 上映會』を見てきた。午後3時近くに僕と妻の二人は会場に到着。富士吉田市民会館に来るのも2014年4月の『live at 富士五湖文化センター上映會』以来だ。

 ほんの少しだけ雨が煙っている。富士山は残念だが姿を現さない。
 会場「ふじさんホール」の収容数は800人、午前と午後の二回上映ということは今日ここに1600人の志村正彦・フジファブリックを愛する人々が集う。これはやはり特筆すべきことだ。列に並んでいる人々を眺める。志村の同世代のファンが多いが、20代前後の若者たちもいる。そして意外というべきか、男性も少なくはない。

 会場の入り口には大きなポスターがスタンドにかけられていた。




 さっそく同時開催の「路地裏の僕たち」企画の『志村正彦展』に並ぶ長い列に加わったのだが、開始時間に間に合いそうもない。列から離れ、先行発売されていた新装版『志村正彦全詩集』を購入。薄青色の装丁になり手に取った感触もいい。新しい読者を獲得していくことだろう。

 会場に入った。前方に新倉山浅間講演から見た富士山の緞帳が広がる。ほぼ定刻通り、今村圭介ディレクター(EMI Records / UNIVERSAL MUSIC)の前説から上映會が始まった。DVDの総収録時間は430分、つまり7時間10分で偶然志村正彦の誕生日と同じ数字になったという話に感心した。今村氏の仕事のおかげで『FAB BOX Ⅲ 』そしてこれまでの『Ⅰ』も『Ⅱ』も存在している。

 あの大地讃頌のコーラスがしばらく流れてから幕が上がり映像がスタート。まず2004年のデビューから2009年までの歴史が振り返られる。中では『CHRONICLE』録音地ストックホルムのインタビュー映像が興味深かった。「スウェーデンレコーディングの未収録オフショット映像」から編集したものだろう。これまで公開されていない発言もあり、『FAB BOX III 』を入手してから丁寧に追っていきたい。

 演奏シーンではいくつか興味深いことがあった。
 「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO」のリハーサルシーンと本番での『茜色の夕日』が素晴らしかった。2005年の志村の声はとても伸びやかで透明感もあり力強い。
 5周年ツアー時の『桜の季節』は歌詞の一部(坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く そして追いかけていく/諦め立ち尽くす 心に決めたよ)が歌われなかった。なぜだろうか。歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない。かねてからそう考えていたのでこの改変には納得できたのだが、どういう意図からそうしたのかという関心を持った。

 最近このブログで書いている『同じ月』の演奏全篇が上映された。志村が「僕が歌うためだけに生まれてくれた曲」「自分で言ってしまうけど、最高だ。」と述べた曲だ。CD音源よりこのライブ映像の方がこの曲の魅力は増す。やや自分を突き放しているようなユーモアがあり、独特のゆるやかさで歌われていた。
 全体として志村の笑顔のシーンが多く含まれ、明るい激しい曲調の作品中心の構成だった。彼の足跡をたどり、2009年の映像に向き合うことが悲しくならないようにという配慮があったのだろう。

 一番心に刻まれたのは『雨のマーチ』。梅雨の季節、曇り時々小雨模様の日ということもあってか、昨日は特にこの曲が心に染み込んだ。


  ぽつりぽつりぽつりと ほろりほろりほろりと

  雨が降ったよ しとしと降ってたよ
  僕を通り過ぎて遠くにいった人
  時が経ったよ 戻れなくなっちゃったよ
  おあいこにしたり戻したり


 書き写していると、歌詞と楽曲の基調ともなる雨の風景が浮かび上がる。「時が経ったよ 戻れなくなっちゃったよ」という時間の感触が哀切に響く。「おあいこにしたり戻したり」といういくぶん無邪気でそして謎めいた表現が志村らしい。

 まだ半日しか経っていない上映會の印象を断片的に綴ってみた。『FAB BOX III』を視聴してから、気がついたり感じたりしたことをふたたび書いてみたい。

 終了後、「路地裏の僕たち」による『志村正彦展』を見ることができた。時間がなかったので駆け足だった。僕が関わった2014年『ロックの詩人志村正彦展』や2011年志村展で掲示した説明文も展示されていた。ありがたかった。
 今回おそらく初めて展示されたもの、これまで見たことのない写真のパネルもあり、とても充実した展示会だった。楽器類、服装や帽子も綺麗に並べられていた。準備や展示自体にかなりの時間がかかっただろう。僕たちファン一人ひとりにとってほんとうに貴重な機会となった。
 出口で、8月5日河口湖湖上祭「路地裏の僕たち」による花火打ち上げのための協力金を入れた。湖上祭ではどんな花火が打ち上げられるのだろか。『若者のすべて』が会場に響くのだろうか。楽しみである。
 そして久しぶりにお会いできた方々の元気な姿がうれしかった。

 最後に最も印象に残った志村正彦の言葉について記したい。
 2時間ほどの上映のラスト、映像の背後にかぶさる形で志村の言葉が場内に広がっていた。

  闘っている。

 という意味の言葉だった(と聞こえた。あるいは闘っていくだったかもしれないが。『FAB BOX III』で確認したい)

 志村正彦は何に対して闘っているのか。闘ってきたのか。闘おうとしているのか。
 音楽か、自分自身か、それとも世界か。
 ありふれた言葉をそこに入れてもしかたない。何と闘っているのか分からないこともある。分からないのだが、何かと闘っているという確信がある。そういうことかもしれない。あるいは闘っているという実感が自らの活動を支えることもある。自らの動力になることもある。

 そんなことを考えて甲府への帰路についた。

2019年6月30日日曜日

FAB LIST I - 2004~2009 投票結果 [志村正彦LN223]

 注目の「FAB LIST I - 2004~2009」投票結果が発表された。1位から15位までの15曲が『FAB LIST 1』に収録される。特設サイトから30位までの作品を列挙する。


 1 .赤黄色の金木犀
 2. 星降る夜になったら
 3. 若者のすべて
 4. 茜色の夕日
 5. バウムクーヘン
 6. 虹
 7. 陽炎
 8. サボテンレコード
 9. 銀河 (Album ver.)
10. 花屋の娘

11. ロマネ
12. Sugar!!
13. 笑ってサヨナラ
14. 桜の季節
15. Anthem
16. TAIFU
17. ペダル
18. ダンス2000
19. 記念写真
20. 線香花火

21. シェリー
22. TEENAGER
23. エイプリル
24. 花
25. 環状七号線
26. Day Dripper
27. 打上げ花火
28. タイムマシン
29. クロニクル
30. NAGISAにて


 僕が選んだのは『花』、『セレナーデ』、『ルーティーン』の三曲。『花』は24位、『セレナーデ』、『ルーティーン』は30位までにも入らず圏外。予想はしていたが、実際はどのくらいの投票だったのだろう。せめて50位くらいまで公表してもらえれば、フジファブリック・ファンの好みが分かるのだが。

 1位『赤黄色の金木犀』、2位『星降る夜になったら』、3位『若者のすべて』の並びで意外だったのは『星降る夜になったら』。この作品は作詞:志村正彦、作曲:金澤ダイスケ・志村正彦。フジファブリックの中では明るい曲調とロマンティックな歌詞が特徴である。若い世代に支持者が多いようだがそれが反映された2位なのだろう。3位の『若者のすべて』はトップ3に入るのは確実だと予想していた。志村正彦作品の中で最も知名度が高く、人々に愛されている曲であることは間違いない。

 『赤黄色の金木犀』が1位だったことには納得できる。歌詞、楽曲、演奏ともに完成度がきわめて高い。総合的な完成度という観点ではナンバー1といえるだろう。ファンが支持しているのもうなずける。
 歌詞の世界は、金木犀の花、香り、秋の季節感と日本文学の伝統とも呼応する。「過ぎ去りしあなたに」の「し」という文語助動詞も効いている。イントロアウトロの志村が奏でるアルペジオ。次第にスピート感を増すテンポ。言葉の世界と楽曲が見事に溶け合っている。ミュージックビデオの同一ポジションを維持した実験的な撮影も秀逸だ。
 以前この歌詞について書いた拙文を引用する。


  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。


 あらためて『赤黄色の金木犀』を聴いてみた。
 歌詞の行間に沈められた作者志村の想いが静かに溢れてくる。
 「僕」は僕の「影」を追いかけ、僕の「影」が「僕」を追いかける。この曲には何かに追いかけられるような焦燥感がある。夕暮れ時に「僕」は「帰り道」にいるのだが、その道は遠く感じられる。
 「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」という言葉の連鎖は、志村正彦が表現した言葉の中でも最も痛切に哀切に響いてくる。

 日本語ロックの枠を超えて日本語の歌として傑出した作品『赤黄色の金木犀』がファン投票の1位だったことを素直に喜びたい。

 『FAB LIST 1』は8月28日EMI Records / UNIVERSAL MUSICから発売される。初回生産限定盤は、TOP15曲を収録したプレイリストCDとフジファブリックEMI在籍時代のツアーやライブより厳選した貴重なライブCDの2枚となる予定だ。

2019年6月23日日曜日

鏡としての月-『同じ月』3 [志村正彦LN222]

 『同じ月』(詞・曲:志村正彦)は主に三つのブロックから構成されている。

 第一は、冒頭の「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか Uh〜」という問いかけ。
 第二は、2,3連の「月曜日から始まって 火曜はいつも通りです/水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって」「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです/何万回と繰り返される めくるめくストーリー」と6,7連の「木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです/金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです」「家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ/映画を見て感激をしても すぐに忘れるから」から構成される「こんな日々」のブロック。

 第三は、4連「君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです/振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど」、8連「君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです/壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです」、5連「にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜」、12連「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜」から構成されるブロック。
 三つのブロックの鍵となる表現、モチーフは、第一が「同じ月」、第二が「こんな日々」「つきない欲望」、第三が「君の言葉」、「君の涙」であり、最終的には「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ」に収斂していく。

 今回は第一のモチーフ、「同じ月」について考えてみたい。
志村正彦・フジファブリックのインディーズ時代の作品で、「月」は数多く歌われている。ここでは『午前三時』『浮雲』『お月様のっぺらぼう』の三作に注目したい。(初期では他に『環状7号線』『打ち上げ花火』『花』で「月」が登場する)


『午前3時』

  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
  もやがかった街が僕を笑ってる様

  鏡に映る自分を見ていた
  自分に酔ってる様でやめた

  夜が明けるまで起きていようか
  今宵満月 ああ


『浮雲』

  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り

  (中略)

  独りで行くと決めたのだろう
  独りで行くと決めたのだろう


『お月様のっぺらぼう』

  眠気覚ましにと 飴一つ
  その場しのぎかな…いまひとつ
  俺、とうとう横になって ウトウトして
  俺、今夜も一人旅をする!

  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう


 『午前3時』の「鏡に映る自分を見ていた」「僕」。『浮雲』の「独りで行くと決めたのだろう」と自らに語りかける「僕」。『お月様のっぺらぼう』の「今夜も一人旅をする!」「俺」。歌の主体である「僕」「俺」。作者の分身といえるこの一人称の主体は、「独りで行く」「一人旅をする」孤独な主体であるが、「鏡に映る自分を見ていた/自分に酔ってる様でやめた」とあるように、その孤独な「自分に酔う」ことからは距離を置いている。自分が自分に酔う「鏡」の効果から逃れている。

 歌詞の中の「月」はどのようなあり方を示しているのだろうか。
 満月 、満ちる欠ける月、「のっぺらぼう」の月。どちらかというと光に溢れた月がイメージの中心にある。太陽の光を受けてそれを反射する月。太陽という「他」が光の源であり、月はそれ「自」ら光を持たない。逆に言うと、「月」は「他」を反射する「鏡」である。そしてこの「他」と「自」の関係は象徴的に機能し、志村正彦の歌に作用している。

インディーズ時代の「月」が登場する三作を連鎖する光景を描いてみよう。
 夜、「独りで行く」主体。その視線の向こう側に「月」がある。主体は「月」を見つめる。「月」も主体を見つめる。主体の眼差しを反射する鏡のように「月」が空に浮かんでいる。志村はこのような光景を繰り返し歌った。

 『同じ月』は2009年『CHRONICLE』収録曲としてリリースされた。(作詞作曲は2008年7月)。初期からは数年の時間が流れている。「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか」という一節には、「僕」と「君」が登場する。一人ではなく二人であることに留意したい。

 月は古来から、遠く離れた恋人や友人が同時に眺めている景物として詩歌に登場してきた。月への想いはまるで鏡のように「自」と「他」、「他」と「自」を照らし合わせる。
 その伝統の中で作者志村正彦は、「僕」と「君」が「同じ月」を眺めているのだろうかと問いかける。異なる場所にいる。それでも同一の時間を共有している。そう想えるのかどうか。その問いかけがこの歌の起点となっている。

   (この項続く)

2019年6月16日日曜日

歌の作者と歌の主体-『同じ月』2[志村正彦LN221]

 前々回の記事で、志村正彦が『東京、音楽、ロックンロール 完全版』の「インタビュー」(p202)で、2008年の6,7月頃を指して、「この頃はまだポリープ中で、人の提供曲ばっかり書いていたけど、自分のためだけに作った曲を7月30日に書いて。これは4枚目のアルバム『CHRONICLE』に入っている”同じ月”って曲です。そのへんから徐々に回復していきました。」と述べていることを紹介した。
  この頃の状況について別の記事(『bounce』 310号2009/5/25、文・宮本英夫)ではこう語っている。


『TEENAGER』というアルバムを昨年1月にリリースして、5月31日に僕の中学時代からの夢だった(故郷の)山梨県富士吉田市富士五湖文化センターでライヴをやることができて、そこで夢を叶えてしまったんです。今後どうしたらいいんだ?ということを6~7月にずっと悩んでいて、その後、8月中旬に喉のポリープの手術をしました。僕は人から〈曲を作れ〉と言われると作らないタイプなんですけど、手術に失敗したら声が出なくなるかもしれないという話を聞いて、自発的に2~3週間でアルバム収録曲のほとんどを書いたんです。明日はどうなるかわからないと思った末に、後悔したくないし人のせいにしたくないというのがあったので、全作詞作曲とアレンジを僕が考えてやりました。28歳になったという意識も強くありましたし、28歳のミュージシャンがいろいろ考えている、切迫感が出ているアルバムになったと思います。


  「全作詞作曲とアレンジを僕が考えてやりました」という『CHRONICLE』収録曲の中で『同じ月』は特別な存在であった。志村は、「志村日記2008.07.30」(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』所収)で、7月30日に書いた曲について次のように説明している。この作品が『同じ月』である。


   2008.07.30 スランプ脱出か?

 提供曲ばっかで、最近自分のために曲作ってなかったんで。自分用に作りました。人にあげる曲も最高だったけれども、今回は僕が歌うためだけに生まれてくれた曲。
 最高だ。自分で言ってしまうけど、最高だ。曲作ったりして2,3日もすると結構その曲になんとなく冷めてきたりするんですが、今回は、無い。多分リリースすると思う。っていうかしたいんですけど。志村、作曲モチベーション上がってます。
 ここからは暴露話。僕は正直、デビュー以降4年間くらい、作曲ペースがスランプ気味だったのですが、これからスゴいですよ。スランプでも今までのあのクオリティでしょ? それが自分でスランプ脱出しそうって言ってるんだから、そういうことです。


 この「僕が歌うためだけに生まれてくれた曲」が何よりも「最高だ。自分で言ってしまうけど、最高だ。」とされていることに注目すべきだろう。自分の作品についてどちらかというと控えめに抑制気味に語ることの多い彼だが、『同じ月』については「最高だ」という確信があったことがうかがわれる。「スランプ脱出」の悦びや開放感がその背景にあるのかもしれない。
 結果として、この『同じ月』はアルバム『CHRONICLE』の基調をなす作品となった。
 
 『bounce』 310号の記事は、初期の歌詞についての興味深い発言を記している。


昔のフジファブリックは、歌詞を見られて頭が悪いと思われたくないというのがとてもあって。文学的な感じに見られたいというのがあったんですけど、今回はまったく意識せずに思ったことを完全ノンフィクションで歌ったというそれだけです。怖いとか弱いとか臆病だとか、そういう歌詞は後ろ向きかもしれないですけど、それはネガティヴではなくて誰しも持っているものだと思うんですね。誰しも持っている後ろ向きなことを惜しまずに出した、という気持ちはあります。


 「歌詞を見られて頭が悪いと思われたくない」「文学的な感じに見られたい」というのは、読書好きの文学青年でもあった志村らしい発言だ。特に1stアルバム『フジファブリック』では、四季の風景や季節の感覚を定型から離れて表現する工夫や言葉の行間その余白を効果的に作用させる技術を駆使している。
 「今回は」「完全ノンフィクション」で歌ったという対比から、「昔」の作品にはフィクションが入り込んでいるという含意が読み取れる。例えば四季盤の作品には、幾分か虚構とも捉えられる「小さな物語」的な枠組がある。

 『桜の季節』の別離、『陽炎』の少年時代、『赤黄色の金木犀』の「帰り道」、『銀河』の「逃避行」。いずれも作者の私的経験にある程度まで基づいているのだろうが、その経験の断片は複雑に組み合わされながら「小さな物語」として構築されていく。それでも物語に収束するのではなく、その枠組の中で、主体が感じる現実的で切実な感覚とそれを包み込む風景や季節の感触とがファブリックのように織り込まれる。

 作者志村と歌の主体(志村の分身ではある)の「僕」との間にはある一定の距離、分離がある。小さな物語、フィクションとしての枠組がその距離を支えている。凡庸な歌との違いがここにある。彼の歌が詩として評価されるゆえんもまたここにある。フジファブリック初期作品の深さと豊かさは、作者志村正彦とその分身との分離によって成立していると考えられる。

 その文脈からすると、『CHRONICLE』収録曲は「完全ノンフィクション」を目指して、作者と歌の主体との距離を限りなく近づけた。「完全」とあるから、志村はその距離がほとんどゼロとなるように心がけた。それは勇気ある試みだった。フジファブリックの作品の可能性を広げたと同時に、志村正彦にとってみれば少なからぬ反作用もあったのかもしれない。

(この項続く)


2019年6月9日日曜日

King Crimson - Starless

 6月9日は69「ロックの日」、ということで短い記事というか映像紹介を一つ記したい。
 このところ土日まで仕事に追われテキストを書く時間がほとんどない。息抜きにyoutubeで遊んでいたところ、King Crimson の『Starless』に遭遇した。2015年来日時の収録らしいが、詳しいことは分からない。公式映像「DGM LIVE」で視聴できるのはありがたい。

 演奏メンバーはロバート・フリップ(G・Key)、ジャッコ・ジャクスジク(Vo・G)、メル・コリンズ(Sax・Flute)、トニー・レヴィン(Ba・Chapman Stick)、ギャヴィン・ハリソン(Dr・Perc)、パット・マステロット(Dr・Perc)、ビル・リーフリン(Dr・Perc・Key)のようだ。トリプルドラムの編成はきわめて珍しい。




 この曲は、1974年9月発表のアルバム『レッド』(Red)で初めて聴いた。もう45年前のことだ。1973年3月発表の『太陽と戦慄』(Larks' Tongues in Aspic)に驚嘆した僕はこのバンドのファンになっていた。GenesisとKing Crimsonが僕にとってのプログレッシブ・ロックのすべてだった。
 1984年4月、五反田簡易保険ホール。2003年4月、長野県松本文化会館。この二回はライブ演奏も聴いた。どちらも昔の話だが、音源とライブ演奏の差異を愉しむのがクリムゾン経験でもある。

 すでにこの映像は700万回以上視聴されている。キング・クリムゾンのファンがそれだけいるのは驚きだ。繰り返し聴くことが多いのだろうがそれにしてもすごい回数である。
 70歳近いロバート・フリップは相変わらずの演奏だが、全体として穏やかな感じが漂っている。これをどう捉えるかは聴き手の自由だが、様式としても演奏としても完成された音楽がここにはある。

 作曲は発表時のメンバー、ロバート・フリップ、ジョン・ウェットン、ビル・ブルーフォード、デヴィッド・クロス。 作詞はリチャード・パーマー・ジェイムス(Richard Palmer-James)。

 歌詞を引用したい。


  Sundown dazzling day
  Gold through my eyes
  But my eyes turned within
  Only see
  Starless and bible black

  Ice blue silver sky
  Fades into grey
  To a grey hope that oh years to be
  Starless and bible black

  Old friend charity
  Cruel twisted smile
  And the smile signals emptiness
  For me
  Starless and bible black


 久しぶりに歌を聴き、歌詞を読んだ。以前より色彩感の感触に心が動かされた。リリース時の音源とは2番と3番が入れ代わっている。最近のライブではこの順だが、こちらの方が色彩の変化や時間の経過が浮かび上がる。

 外界の色彩の溢れる世界が消えていく。内界の色彩のない世界、「Starless and bible black」へと。ロックの言葉と音楽の到達点の一つには違いない。
     

2019年6月2日日曜日

フジファブリックのネトネト言わせて #112 -『同じ月』1[志村正彦LN220]

 フジファブリック 志村正彦没後10年 2009年映像作品集 特設サイト内で、ネットラジオ「フジファブリックのネトネト言わせて」の2007年~2009年に配信した114本を一挙にアーカイブ配信という知らせがあった。「ネトネト言わせて」のアーカイブ化がついに実現したことになる。

 オフィシャル・ブートレグ映像のリリースや「ネトネト言わせて」配信など、志村正彦・フジファブリックの映像や音声資料が「アーカイブ」化されていくのは、志村正彦没後10年というタイミングがあってのことだろうが、そのこととは無関係に今後も、この不世出の詩人・音楽家の足跡を示すものを公開してほしい。権利関係が複雑なのだろうが、音楽フェスティバルの映像などもいつかアーカイブ化できるといい。

 早速少し聴いてみたが、たまままクリックした「#112」は「ネトネト言わせて」の公開収録の回だった。出演者は志村正彦と金澤ダイスケの二人。『CHRONICLE』リリースを記念したもので、ネットで調べると、2009年5月30日、大阪タワーレコードNU茶屋町店での録音のようだ。本人たちのいう「グダグダ」のおしゃべりの後、『同じ月』のライブ演奏が収録されている。29分頃からそのシーンとなる。




 ネトネト音源を聴きながら言葉を追えるように、歌詞を引用したい。


 同じ月(詞・曲:志村正彦)

この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか Uh〜

月曜日から始まって 火曜はいつも通りです
水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって

イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです
何万回と繰り返される めくるめくストーリー

君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです
振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど

にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜

木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです
金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです

家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ
映画を見て感激をしても すぐに忘れるから

君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです
壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです

にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜

君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです
攘り返っても仕方がないと分かってはいるけれど

君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです
壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです

僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜


 「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです」「にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ」。ゆるい雰囲気の言葉が独特の味わいを醸し出す。
 一、二、三。月、火、水、木、金。ルーティーンのように、数字や曜日が進んでいく「こんな日々」の「変われずにいる」「僕」。志村はその「僕」を率直に歌っていく。でも幾分か距離を置くように歌っている感じもある。歌い方そのものは、高いキーの音が不安定でやや声もかすれている。一種の愛嬌のようにも聞こえてくる。加工されていないので、志村の声と節回しが生々しい。どのように形容したらよいのか適切な言葉が見つからない。これは「志村節」としか言いようがない。

 『同じ月』はあまり注目されることがない曲だが、『東京、音楽、ロックンロール 完全版』の「インタビュー」(p202)で、志村はこう語っている。


  この頃はまだポリープ中で、人の提供曲ばっかり書いていたけど、自分のためだけに作った曲を7月30日に書いて。これは4枚目のアルバム『CHRONICLE』に入っている”同じ月”って曲です。そのへんから徐々に回復していきました。


 「この頃」というのは富士吉田ライブを終えた2008年の6,7月頃を指している。『同じ月』は、自分のためだけに作った曲であり、この曲を作ったあたりからスランプ状態から徐々に回復してきたという重要な証言である。

      (この項続く)


2019年5月20日月曜日

2009年5月20日、『CHRONICLE』リリース。[志村正彦LN219]

 十年前の今日、2009年5月20日、フジファブリック4thアルバム『CHRONICLE』が発売された。
 初の海外レコーディング音源(スウェーデン・ストックホルム)を中心に全15曲で構成され、「ストックホルム“喜怒哀楽”映像日記」という80分強の映像(『ルーティーン』レコーディングセッションなどを含む)を収録したSpecial DVDが付いた意欲作だった。

 雑誌『音楽と人』2019年2月号に「フジファブリック クロニクル ~アルバム・セルフライナーノーツ~ これまで発表したアルバム/ミニアルバムをバンドの歴史とともに振り返る」という記事(文=樋口靖幸)が掲載されている。
 『CHRONICLE』について、山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一の三人が次のように語っている。(雑誌発売から数ヶ月経ったので、この箇所を全て引用させていただく) 


実は僕……この時期に「このアルバムを作り終わったらバンドを辞めようかと思ってて」という相談を加藤さんにしたことがあって……というのも前の反動なのか、志村君がたくさん曲を作ってきたんですけど、これからのフジファブリックは志村君が作った曲にプレイヤーとして関わっていくだけのスタンスになりそうな感じがしたんですよ。(山内) そうそう。志村のギアがものすごく高回転になってる時期でしたね。アクセルがベタ踏み状態というか。誰も止められない、みたいな。(金澤) バンドとしてはけっこう険悪な空気もあった時期で。でもそこからみんなで話し合って、これからも一緒に頑張っていこうっていう気持ち作ったアルバムですね。(山内) そんなひと悶着があってからのストックホルムでのレコーディングだったんですよ。あそこからまたバンドの空気がいい感じになっていったんで、あの海外レコーディングは必然だったんだなって思います。(加藤)


 『CHRONICLE』の制作時期に(発言内容からするとレコーディングというよりその前の準備段階だろうが)、フジファブリックはある「危機」を迎えていた。これまでのいくつかの記事や発言から推測されていた状況が、現メンバーの三人によって証言されている。山内の「バンドを辞めようか」と思っていた発言とその理由にも驚かされる。
 かなり正直にある意味では赤裸々に語られているのは、「デビュー十五年」関連記事という性格の所産かもしれない。そうであるからこそ、僕たちファンはこの発言をそのままに受けとめるべきなのだろう。だが、フジファブリックの創始者、この発言で言及されている志村正彦本人はここにはいない。そのような振り返りである以上、限定的な証言にすぎないということは確認しておきたい。

 「けっこう険悪な空気もあった時期」はストックホルムでのレコーディングで解消されていったようだが、それでも「険悪」という言葉には強い意味合いがある。平穏なものからはほど遠い。バンドは仲良しクラブではないので、様々な葛藤や軋轢もあるだろう。それがどういうものだったか、具体的には想像できないが、『CHRONICLE』の音源、志村の歌の言葉の中に、その痕跡のようなものがある程度まで刻み込まれているかもしれない。

 『CHRONICLE』発売後の6月から7月にかけて「CHRONICLE TOUR」が行われた。今年7月、その映像が『FAB BOX III』、「Official Bootleg Live & Documentary Movies of “CHRONICLE TOUR"」DVDとしてリリースされる。
 この記録映像も、フジファブリックにとって、というよりも、志村正彦にとって『CHRONICLE』がどのような作品であったのかという「問い」に対する「答え」の一つになるのだろうか。

2019年5月5日日曜日

『FAB LIST』の三曲 [志村正彦LN218]

 7月6日(土)11:00からと16:00からの二回ふじさんホールで開催されるフジファブリック志村正彦没後10年『FAB BOX III 上映會』。僕たちも何とか赤富士通信先行予約でチケットを入手できた。あと二ヶ月ほどだが楽しみにしている。

 上映時間は2時間ということで、『FAB BOX III』の『Official Bootleg Live & Documentary Movies of "CHRONICLE TOUR"』『Official Bootleg Movies of "デビュー5周年ツアーGoGoGoGoGoooood!!!!!"』の二つの映像作品からダイジェスト編集した特別先行上映となるようだ。僕個人としては『ルーティーン』を聴いてみたいがどうなるだろうか。2014年の上映會でもこみ上げるものがあったので冷静に鑑賞していられるかこころもとないが、どのような感情が去来してもそれをそのまま受けとめたい。志村正彦・フジファブリックの2009年の「ライブ」を観客のみんなと共有できるのは希有な経験になるであろう。

 フジファブリックの公式サイトから、ファンが選ぶPLAYLIST ALBUM『FAB LIST』リリース決定というアナウンスもあった。『FAB LIST』2004~2009はかつて在籍していたEMI Records / ユニバーサルミュージックから、『FAB LIST II』2010~2019は現在在籍しているSony Musicからリリースされる。収録曲は今までリリースした作品を対象として5/19(日)までの期間内に「FAB LIST」特設サイトで三曲を投票して決定される。『FAB LIST』の発売日等は後日発表となるそうだ。

 僕自身は以前書いたように、すでにリリースされているCD『SINGLES 2004-2009』と、『FAB BOX』【完全生産限定BOX】中の1枚としてリリースされたCD『シングルB面集 2004-2009』を合体させた『コンプリート・シングル集』を発売してほしいと思っている。志村正彦・フジファブリックの事実上のベスト盤となるからだ。できるだけ安価のパッケージ盤にして若者たちに届けてほしいのだ。

 だから今回の『FAB LIST』の企画には複雑な想いもあるが、肯定的に捉えれば、シングルには収録されていない曲が入る可能性があること、ファンの投票による選曲にも新鮮さがあることになる。また、『FAB LIST I』(2004~2009)は全曲リマスタリングで収録ということで音源の質に期待できる。だから2019年という年の試みの一つとしては理解もできる。2004~2009と2010~2019という年代別に二枚に分けたことは英断である。この二つの時代には明らかな断絶があるからだ。

 『FAB LIST I』(2004~2009)にはプレデビュー盤『アラモルト』からシングルまでこの時代の全曲から選ぶことができるのがいい。三曲までの投票ということでファンはみんな考え込んでしまうだろう。
 僕ならどの曲を選ぶか。三曲に絞ることなど到底できないという前提がある。だからある観点を設けて選ぶことになる。別の観点を設定すれば異なる選曲になる。選択する時期や季節、時代や年齢も関係するだろう。今回の投票に加わる全ての人に各々の観点がある。現時点で選択された観点が集積すると『FAB LIST』が構成できるのだろう。

 2019年5月、僕の選曲の観点は、「君」に対する想いを叙述しその想いが限りなく祈りに近づいていく歌であること、志村正彦でなければ創作しえない曲であることの二つである。
 その観点から選ぶと、『花』、『セレナーデ』、『ルーティーン』の三つになる。


『花』
花のように儚くて色褪せてゆく
君を初めて見た日のことも

『セレナーデ』
明日は君にとって 幸せでありますように
そしてそれを僕に 分けてくれ

『ルーティーン』
折れちゃいそうな心だけど
君からもらった心がある


 この三つの歌をつなぎ合わせると、志村正彦の「君」への想い、少なくとも「君」への想いというモチーフの変化を感じる。変化というよりも成熟として捉えられる。『花』は高校時代にその原型が考えられていたようだ。『茜色の夕日』とは少し異なる感受性が刻まれている。この二曲と『浮雲』を合わせた3曲が志村の原点と言える。(この三曲を投票するという観点もあるあろう)

 『セレナーデ』と『ルーティーン』については何度も書いてきたので新たに書けることもないのだが、一つ付言するのなら、「明日」(『セレナーデ』)、「昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も」(『ルーティーン』)とあるように、過ぎ去った時よりもこれから到来するであろう時の中に「君」への想いを歌ったことである。 

 「君」への想いを述べた素晴らしい歌は数多くある。『FAB LIST《君への想い》』というアルバムを夢想するのもいいかもしれない。


2019年4月30日火曜日

不穏なものとその分離-『ともしび』(アンドレア・パラオロ監督)

 昨日、シアターセントラルBe館で、シャーロット・ランプリング主演の『ともしび』(Hannah、アンドレア・パラオロ監督、2017)を見た。
 甲府での上映は5月2日(木)まで。1日(水)は映画サービスデー。他の地域でも上映中やこれから上映の館があるようだ。(東京では6月上旬に下高井戸シネマで予定されている)
 この映画は何の予備知識もないまま席に座ることが絶対の条件のような気がする。(これから鑑賞予定の方は以下のテキストも飛ばしてほしい)何も知らないまま、何も分からないまま、この世界に入り込むことによって、何かを経験する映画である。




 いきなりの異様な声が館内に響きわたる。分節された音のようにも単なる奇声にも聞こえる。誰の声か、どのような状況なのかも分からない。不穏なものが立ち上がる。おそらく視聴する時間ずっとこの不穏なものを追いかけていくのだなという予感に折り合いを付ける。覚悟のようなものと共に。

 画面が切りかわると、ダンスか演劇か体操か分からないが身体的なレッスンの場面だということ分かる。
 焦点人物は、シャーロット・ランプリング(アンナ)。73歳の彼女の全身が70年を超える生の時間を表象している。続いて、アンナの家の室内。夫と思われる同年齢の男性。その夫の年齢を感じさせる色合いの肌、衰えてはいるがそれなりの滑らかさもあるかのような背中をマッサージするアンナ。老齢期の夫の肌。やわらかく揉む妻の指。肌と指の接触。これがイメージ上のモチーフになるのかなという予感がしたのだが、その予感が裏切られることはなく、その後の展開の中でシャーロット・ランプリングの老齢期の肌を繰り返し描いていく。観客は自らの眼差しでアンナの肌を揉みほぐしていく。『愛の嵐』(Il Portiere di notte, 英題: The Night Porter,リリアーナ・カヴァーニ 1974年)の裸体を想起させるショットもある。美しさからは遠く離れていくのだが、それでも肌の「肌理」は不思議な存在感を持つ。
 
 物語は、夫が収監されるところから始まる。おそらく小児に対する性愛・虐待の罪だと推測されるのだが確かなことは結局明かされない。このことを契機に、アンナ夫妻と息子家族との断絶が起こり、アンナの人生は行き詰まる。観客の眼差しは、至近距離から、それこそアンナの肌を感じるような距離から、彼女を見つめていく。不穏なものが加速していく。

 映画全体に不明なところが多い。いくつかの小さな出来事が起きるのだが、それが回収されることはない。「謎」を解くことが目的とされていない。「話」を語ることも目的とされていない。むしろ物語はこの映画の欄外、枠外にあるという気もする。この映画は物語に依存していない。「話」らしい話のない映画、「話」を本質的には必要としてない映画というものがあるとしたらこの作品が第一に挙げられるだろう。

 それではこの映画の枠内、その中心にあるのは何だろうか。
 シャーロット・ランプリングという「存在」そのものとしか言いようがない。監督はもともと彼女を宛て書きにして構想を練った。虚構作品である以上「アンナ」を描いているというのが穏当だろうが、シャーロット・ランプリングを主題とする「虚構のドキュメンタリー映画」を見ているような境地に陥る。「アンナ」を演じる「シャーロット・ランプリング」を演じる「シャーロット・ランプリング」というように、メタ的な視線が仮想される。映画そのものがジャンルを破る不穏さに溢れている。

 最後の地下鉄駅の場面まで、不穏ものはそのまま持続する。不穏なものを追いかける種類の映画であっても、どこか途中でそれがやわらいだりすることが少なくないが、この作品は最後まで不穏なものがほどけることはない。カメラの眼差しはほぼ「アンナ」と一体化する。眼差しは不穏なものをまとう。いや、眼差しが不穏なものを作り出している。観客はその眼差しから逃れることができない。「アンナ」の歩行と共に観客も歩行しなければならない。歩みのその先には何があるのだろうか。映画はその先を避けることなく描く。それでも解釈も分析も拒んでいるようでさえある。観客個々の自由であろうが。

 僕自身には、不穏なものからほんのわずかな距離かもしれないが離れていった、のかもしれないと感じとれた。
 取りあえず、取りいそぎ、分離すること。通過すること。乗り換えること。
 不穏なものからの分離。この時代の勇気がそこにあるのかもしれない。