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2019年6月23日日曜日

鏡としての月-『同じ月』3 [志村正彦LN222]

 『同じ月』(詞・曲:志村正彦)は主に三つのブロックから構成されている。

 第一は、冒頭の「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか Uh〜」という問いかけ。
 第二は、2,3連の「月曜日から始まって 火曜はいつも通りです/水曜はなんか気抜けして 慌てて転びそうになって」「イチニサンとニーニッサンで動いてくこんな日々なのです/何万回と繰り返される めくるめくストーリー」と6,7連の「木曜日にはやる事が 多すぎて手につかずなのです/金曜日にはもうすぐな 週末に期待をするのです」「家にいたって どこにいたって ホントにつきない欲望だ/映画を見て感激をしても すぐに忘れるから」から構成される「こんな日々」のブロック。

 第三は、4連「君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです/振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど」、8連「君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです/壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです」、5連「にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜」、12連「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜」から構成されるブロック。
 三つのブロックの鍵となる表現、モチーフは、第一が「同じ月」、第二が「こんな日々」「つきない欲望」、第三が「君の言葉」、「君の涙」であり、最終的には「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ」に収斂していく。

 今回は第一のモチーフ、「同じ月」について考えてみたい。
志村正彦・フジファブリックのインディーズ時代の作品で、「月」は数多く歌われている。ここでは『午前三時』『浮雲』『お月様のっぺらぼう』の三作に注目したい。(初期では他に『環状7号線』『打ち上げ花火』『花』で「月」が登場する)


『午前3時』

  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
  もやがかった街が僕を笑ってる様

  鏡に映る自分を見ていた
  自分に酔ってる様でやめた

  夜が明けるまで起きていようか
  今宵満月 ああ


『浮雲』

  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り

  (中略)

  独りで行くと決めたのだろう
  独りで行くと決めたのだろう


『お月様のっぺらぼう』

  眠気覚ましにと 飴一つ
  その場しのぎかな…いまひとつ
  俺、とうとう横になって ウトウトして
  俺、今夜も一人旅をする!

  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう


 『午前3時』の「鏡に映る自分を見ていた」「僕」。『浮雲』の「独りで行くと決めたのだろう」と自らに語りかける「僕」。『お月様のっぺらぼう』の「今夜も一人旅をする!」「俺」。歌の主体である「僕」「俺」。作者の分身といえるこの一人称の主体は、「独りで行く」「一人旅をする」孤独な主体であるが、「鏡に映る自分を見ていた/自分に酔ってる様でやめた」とあるように、その孤独な「自分に酔う」ことからは距離を置いている。自分が自分に酔う「鏡」の効果から逃れている。

 歌詞の中の「月」はどのようなあり方を示しているのだろうか。
 満月 、満ちる欠ける月、「のっぺらぼう」の月。どちらかというと光に溢れた月がイメージの中心にある。太陽の光を受けてそれを反射する月。太陽という「他」が光の源であり、月はそれ「自」ら光を持たない。逆に言うと、「月」は「他」を反射する「鏡」である。そしてこの「他」と「自」の関係は象徴的に機能し、志村正彦の歌に作用している。

インディーズ時代の「月」が登場する三作を連鎖する光景を描いてみよう。
 夜、「独りで行く」主体。その視線の向こう側に「月」がある。主体は「月」を見つめる。「月」も主体を見つめる。主体の眼差しを反射する鏡のように「月」が空に浮かんでいる。志村はこのような光景を繰り返し歌った。

 『同じ月』は2009年『CHRONICLE』収録曲としてリリースされた。(作詞作曲は2008年7月)。初期からは数年の時間が流れている。「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか」という一節には、「僕」と「君」が登場する。一人ではなく二人であることに留意したい。

 月は古来から、遠く離れた恋人や友人が同時に眺めている景物として詩歌に登場してきた。月への想いはまるで鏡のように「自」と「他」、「他」と「自」を照らし合わせる。
 その伝統の中で作者志村正彦は、「僕」と「君」が「同じ月」を眺めているのだろうかと問いかける。異なる場所にいる。それでも同一の時間を共有している。そう想えるのかどうか。その問いかけがこの歌の起点となっている。

   (この項続く)

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