2015年7月3日金曜日

志村正彦がつなげた偶然-浜野サトル5

 昨日、浜野智氏のサイト「毎日黄昏」(http://onedaywalk.sakura.ne.jp/one/index.html)の7月2日の記事にこう書かれてあった。前回で一休止し再び歩み始めたいと記したが、思いがけない出来事が起こったので、今回はこのことについて「5」として書きたい。現在の氏は「智」と署名されているので、この文では「サトル」ではなく「智」と記させていただく。

 志村正彦というシンガーについてちょっと調べたいことがあって「偶景web」というサイトにたどり着いたときはびっくりした。なぜかといえば、ここには意外にも僕の古い文章についてのあれこれが盛りだくさんに載っていたからだ。

 浜野氏が志村正彦について調べ、この「偶景web」にたどり着く。インターネット特有の遭遇に驚くと共に素直に喜んだ。志村正彦が媒介した「縁」のようなものをとても大切にしたい。

  念のために申し添えると、当然のことではあるが、私は浜野智氏とは一面識もなかった。私は一読者という立場で、彼の著書や、断続的ではあるが、ネットで発表された文を愛読してきた。このwebを始めてからずっと、いつか氏の批評について書きたいと考えていた。私にとって音楽を語る原点として氏の言葉をたどりなおしたかった。二年経ち、ようやくその端緒につくことができた。

 「偶景web」の拙い試みはともかくとして、氏が「志村正彦」を調べているという事実そのものに感激する。理由や経緯は分からないが、志村正彦について関心を持つ。私だけでなく、志村正彦の多くの聴き手にとっても、この出来事は重要なものとなるかもしれない。

 《「偶景web」サイトを見ていて、いろいろなことを思い出した。》と述べられていたが、その契機となったのであれば、今回の試みも意味を持つ。
  「終りなき終り」についての早川義夫の発言、『ボブ・ディラン論集』の件など、一つひとつの挿話が興味深い。早川は浜野に何を語ったのだろうか。70年代初頭、あの渋谷BYGのレコード係として、浜野氏は「はっぴいえんど」や「風都市」の志した日本語ロックの現場近くにいた。
 そして、《「バイオグラフィー=線」ではなく、「一瞬の沸騰=点」をめぐって書きたいと思っていた》という平凡社新書『ボブ・ディラン』の企画。氏にとって第三の批評書、最新のディラン論となるはずのこの書物は、やはり、幻の本になってしまうのだろうか。

 私は何よりも浜野智氏の文体に魅了された。
 「エッジの効いたリズム」のような鋭い硬質な論理、その背後に響くやわらかい感受性の音調。「論理」と「音調」の融合した文体は、「批評」の内部に「歌」(その歌は「歌われない歌」であるのだが)を響かせている。

2015年6月29日月曜日

『ディランにはじまる』-浜野サトル4

 前回紹介した浜野サトル『終わりなき終わり ボブ・ディラン』(『都市音楽ノート』1973年12月10日、而立書房)の最後は、次のように閉じられている。

 だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。

 ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
 
 しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。

 ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。

 著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
 

 最初にディランの歩みをふりかえりたい。

 60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
 この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
 あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。

 次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。

 彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。

 文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
 この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。

  『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)


 この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。

 ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。

 73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
 「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。


[付記]

 四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
 浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
 その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
 そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。

2015年6月21日日曜日

『終わりなき終わり ボブ・ディラン』-浜野サトル3

 二回続けて、浜野サトルの四十年前ほどの批評をこの《偶景web》で紹介したことは、やや唐突に感じられたかもしれない。
 これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。

 ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
 また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。

 浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。

 『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
 (私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)

 彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。

 フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。

 彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
 しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。

『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。

 60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。

 なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。

 70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
 

   (この項続く)

2015年6月10日水曜日

『ポールサイモン パッケージされた少年時代』-浜野サトル2

 前回も今回も、画像は雑誌を机に載せて、そのまま小さなデジカメで撮った。すぐにデータをアップロードして本文に添付。ほんの数分間の作業だ。(昔、展示や図録の仕事のために書籍や雑誌を時々複写していた。専用の複写台と照明を使い、資料を無反射のガラスにはさんで撮影した。今はそのような器具がないので、歪んで不鮮明な画像になってしまった。お許しいただきたい。)

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号に戻ろう。
 雑誌をめくると、48頁から53頁まで6頁にわたり、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』が掲載されている。
 その後、この批評は彼の二冊目の著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)に収録されている。(書籍の方は古書を検索すれば見つかるかもしれない。また、大きな図書館なら所蔵されているかもしれない)

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号、48頁

 この魅力的で優れた批評は次のように語り出される。

 べつだんフジクロームでも他の何であってもいっこうにかまわないのだが、とりあえずはコダクロームにしておくとして、このひとまきのスライド用カラーフィルムという、あきらかに工業文明の申し子である、考えてみればとても奇妙な物体から、人はどのような実感をくみとりう るだろうか。

 浜野サトルの批評は、ある具体的な「問いかけ」から始まる。
 直接、ポール・サイモンと『僕のコダクローム』に向き合う前に、歌のモチーフとなった「カラーフィルム」という「奇妙な物体」からくみとる「実感」を自らに問いかける。
                                        
 続く箇所では、「まず、ぼくの場合なら」とことわり、「黄色の小箱があたりにただよわせている、一種独特の感触」にひかれると述べる。その上で、「中身のフィルムがひらきうるファンタスティックな虚構の世界」と「消費のための産物」である現実的な商品という二つの世界を対比させる。
 ここまでの分析であれば、虚構世界と商品世界という二重性の指摘で終わる。しかし彼はさらに論を進め、「ひとまきのコダクロームは、またそれ以上の何ごとかを、伝達してくれているようだ」と語る。カメラという近代のメカニズムによる表現を通して「人は、何か抽象的なことではなく、この世に存在する具体的なものへの関心を新たにしうるのだ」ということが漠然と伝わる、と述べている。

 第二章の冒頭で初めて『僕のコダクローム』の歌詞四行が引用され、サウンドについても言及される。

 だが、サウンドの魅力に強くひかれたからには、何がうたわれているのかぐらいは、ぜひとも知っておきたい。そこでは、歌としての高い完成度のなかで、サウンドのもつ抽象化されたメッセージと言葉のもつより具体性を帯びたメッセージとがたがいに拮抗し合っているにちがいないのだから。

 ここでは、ポール・サイモンの聴き手や『ニューミュージック・マガジン』の読者に(つまりあの当時の私たちに)に、説得力ある言葉でさりげなく、「何がうたわれているのか」を知ることを諭しているようでもある。サウンドの抽象性と歌詞の言葉の具体性の関係という問題意識は、浜野の「歌」についての批評に通底するものであった。

 序章から続く「コダクローム」をモチーフとする「問いかけ」は、次のような「応答」を生み出す。(新たな「問いかけ」でもあるのだが)

 全体的な明るさのなかに、いや明るいからこそ、いまこの時代に自分の言葉というものはどこにもなく、だからこそコダクロームのようなものがとりあえずどこにもない言葉の代用でありうるのだという、いくぶんかはペシミスティックな意思が聴きとれるのではないか。

 浜野の批評は単なる感想や解釈では終わらない。表現主体とその客体、表現者と受容者およびその場の問題というように、「歌」をめぐる関係性を分析し、立体的に描くところに特色がある。
 この『ポールサイモン パッケージされた少年時代』では、まずはじめに、表現主体と写真による表現をより一般的な観点で考察し、それから個別的な『僕のコダクローム』という歌について、具体的な「言葉」を引用し、表現主体、歌の主体であるポール・サイモンと、表現の客体、歌のモチーフでもある「コダクローム」の関係の分析へ進んでいく。そのような過程を経て、「コダクローム」という表現の媒体が、この時代に「どこにもない言葉」の「代用」でありうるという認識に至っている。さらにこの歌から、幾分か「ペシミスティックな意思」を奏でるような音調も聴きとっている。

 もちろん、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』は、まぎれもなく「言葉」で描かれ、「歌」で歌われている。受容者・聴き手である浜野サトルもまた「言葉」で論じている。
 表現者・歌い手の歌う意志、言葉への欲望。受容者・聴き手の聴く意志、言葉への欲望。その二つが中心となり、楕円をなす場に、この時代の「歌」が成立している。

 浜野サトルの批評にはたえず、この時代の「歌」、「言葉」とはどのようなものであるのか、ありうるのか、あるべきなのか、という「問いかけ」がある。このような真摯な「問いかけ」は、しかも彼のような言葉と論理の水準で語られることは、当時のロック批評には無かった。

         (この項続く)

2015年6月6日土曜日

『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号-浜野サトル1

 
 音楽との出会いが記されることはあっても、音楽を語る言葉との出会いが書き記されることは少ない。
 この場合の「音楽を語る言葉」とは身近な誰かの言葉でも、音楽家の言葉であってもいいのだが、私がこれから書こうとするのは、ある批評家の言葉との出会いである。

 『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号。
 高校に入る年の春だった。甲府の老舗の本屋でこの号を手に入れて愛読した。デジカメで撮影するために書棚から久しぶりに取り出すと、それなりに日を浴びて、紙質も劣化していた。四十年を超える時が積み重なっている。


『ニューミュージック・マガジン』1974年3月号 表紙画・矢吹申彦


  表紙はポール・サイモン。濃いグレーの背景から少し浮き上がる彼の肖像画。彼の左眼の直ぐ下から鼻や口を覆うようにして、コダクロームの黄色いパッケージが佇んでいる。ポール・サイモンからコダクロームが浮き上がってくるようにも、コダクロームがポール・サイモンを促して、ある風景を描こうとしているようにも見える。

 この表紙はもちろん、ポール・サイモンの1973年のヒット曲『僕のコダクローム』(原題Kodachrome)をモチーフにしている。描いたのは矢吹申彦。『ニューミュージック・マガジン』の69年4月の創刊号から76年3月号の表紙絵・ADを担当していた。

 矢吹の描いたコダクロームは独特の存在感を漂わせている。(この雑誌には「表紙のメモ」の頁があり、コダクロームについて「リアルに!!」、ポール・サイモンについて「今回は髭アリ」などという愉快な言葉が添えられている。)
 「人」と「物」、人とフィルムという記録媒体。この二つの間の静かな「対話」の跡が漂ってくる。しかし、「人」と「物」の重なり合いの構図から、この二つの間の微妙な断層、一種の距離のようなものが描かれているようにも感じられる。

 表紙をめくると、キョードー東京の広告。ポール・サイモン《初来日》、4月9,10日の日本武道館でのコンサートの文字。(「売り切れ近し」の字もある)70年代の前半、ポール・サイモンの人気は日本でも高かった。(それでも、サイモン&ガーファンクルには及ばなかったが)来日に合わせてこの表紙が企画されたのだろう。

 この号に、浜野サトルの『ポールサイモン パッケージされた少年時代』という批評が掲載されている。矢吹申彦の素晴らしい表紙画と浜野サトルの優れた言葉が合奏し、奥行きのあるハーモニーを奏でている。
 『ニューミュージック・マガジン』この音楽誌が輝いていたのはやはり、この時代、69年から70年代半ばの頃だ。矢吹による音楽家の肖像画が表紙を飾り、浜野による批評が誌面に時々掲載された時代に重なる。

 すでに中学生の頃から洋楽のロックを中心に聴いていた。誰もがそうするように、気に入った音楽を友達に語ったり、ラジオ番組のリクエスト葉書を書いたりしていた。未熟なものだったが、音楽だけでなく音楽を語ることにも、楽しさと面白さがあるように感じていた。そのような時を経て、浜野サトルの文章に出会った。彼の批評は、その頃から少しずつ読み始めていた文学や思想の本と同じ水準にあると思われた。ロック音楽を語ることの地平が大きく開かれていくように感じた。

 私と同世代以上のロックやジャズファン、特に『ニューミュージック・マガジン』の読者であった人の中には、彼の名を記憶している方も多いだろう。『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)、『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の著書2冊がある。(ミステリー小説の翻訳や音楽書の編集でも知られる)しかし、およそ80年代以降、音楽メディアの表の場に登場することが少なくなったこともあり、若い音楽ファンにはあまり知られていない存在だろう。

 彼の仕事については私のような一読者より、著名な音楽評論家である北中正和の言葉を紹介したい。(「追憶・松平維秋-4インターネットの窓から」http://www.geocities.co.jp/Bookend/3201/M_SITE/TSUITO/KITANAKA.html ここでは「浜野智」と記されているが、おそらく彼の本名なのだろう。最近はこの「浜野智」名で書いているようだ)


浜野さんはぼくと同世代で、1960年代末からジャズやロックの評論に筆をふるっていて、そのころポピュラー音楽について彼ほど切れ味鋭い評論を書いている人は誰もいなかった。


 あの時代、浜野サトルの「切れ味鋭い評論」は、彼の愛用した語を使うのなら、「単独者」の批評=危機の意識から発せられた「問いかけ」だった。
 彼の批評は、ひとつの「問いかけ」から始まり、もうひとつの「問いかけ」で終わろうとする。「問いかけ」へのとりあえずの「応答」が果たされることもあるが、その「問いかけ」は読者に働きかけ続ける。

 次回は、『ポールサイモン パッケージされた少年時代』の言葉そのものを読み返してみたい。
 

   (この項続く)

2015年5月31日日曜日

キングサリの時間

 
 四月末のことになる。キングサリの花がようやく咲きはじめた。

 二年前の春、園芸店で探し、小さな苗木を見つけた。家人が鉢植えでしばらく育てたが、一度枯れそうになって、庭に植え替えた。一年すると枝は育っていったが、花を咲かせることはなかった。いつか咲くのか、それとも、一度枯れそうになってしまったので咲くことはないのか。待ち遠しいような、心配のような、幾分か諦めも混じる気持ちで、時折眺めていた。

 春の始まりの頃、葉に勢いがあるのに気づいた。今年はもしかするとと期待していると、四月の中旬頃から徐々に、蕾がふくらみはじめた。蕾そのものが花として開かれるのを待つ。それを眺めている私たちも待つ。

 一週間程経って、黄色い、可憐で小さい花々が咲きはじめた。
 蝶々のような形状の花弁。一つ一つは小さいが、それが集まり、たくさんの束となって黄色い鎖をつくる。朝の日差しをあびて、房のようにたわわになり、地面の方へ垂れさがる姿。視覚だけでなく、聴覚も刺激される。打楽器の小刻みなやわらかい音のように、黄色の花の粒々が戯れている。


朝のキングサリ


 亡き父が好きな花だった。庭木として植えられていたが、三年前、庭を作り直す必要に迫られた際、大きくなりすぎて植え替えるのも難しいゆえ、しかたなく伐採した。その代わりに、新しい苗木を植えて、時を待った。今年、キングサリの花に再会することができた。年を超える時の中で花を待つ、という初めての経験をした。

 調べると、キングサリの花言葉は「哀愁の美」、「儚い美」「淋しい美」、「哀調を持った美しさ」らしい。

 朝日をあびるキングサリの黄色は明るい華やかな美にあふれている。夕方になり、周囲の色合いが落ちついてくると、そこはかとなく、黄色が沈んでくる。花言葉のように、幾分か、儚いような淋しいような色調に見えてくる。夕方のキングサリは、自らの花の房の量感をもてあましながら、とりとめもなく、想いにふけっているようだ。朝と異なり、弦楽器の奏でるメロディ、「哀調」を帯びてはいるが、起伏の少ない抑制のとれた旋律がふさわしい。


   どうしたものか 部屋の窓ごしに

   つぼみ開こうか迷う花 見ていた     (志村正彦作詞作曲 『花』)

 
 志村正彦、フジファブリックの『花』をこのところ最もよく聴いている。

 「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」。この眼差しが志村正彦そのものである。そして、「つぼみ開こうか迷う」というのは彼でしか成しえない表現であろう。

 彼がこのとき見ていた花が何の花か、路地の花か鉢植えの花か、何もかも分からない。彼の心のありかも分からない。
 しかし、彼が、「つぼみ開こうか迷う」花の時間、蕾から開花へと至る時間そのものを慈しんでいることだけは分かるような気がする。ほんとうは分かってはいけないのかもしれないが、分かりたいという心持ちになる。

2015年5月28日木曜日

「がんばる甲州人」のオープニング映像 [志村正彦LN106]

 二週間ほど前になるだろうか。NHK甲府、夜6時台のローカルニュース「まるごと山梨」を見ていた。偶々、火曜日だった。この曜日には時々、「がんばる甲州人」(一昨年の夏、志村正彦を取りあげたことがある)シリーズが放送される。そんなことをぼんやりと意識していたところ、オープニング映像が始まった。

 記憶にある以前のものとは違っていたので画面に視線が止まった。4月からキャスターも交代したので新しいものに変わったのだろうか。過去に取材した素材をつなぎ合わせたタイトルバックの映像がメロディと共に終わろうとする頃、一瞬、志村正彦が歌う映像が流れた。驚いた。彼の像が消えると共に、「がんばる甲州人」のタイトル文字が浮かび上がった。

 一昨日の火曜日、「がんばる甲州人」の放送が予告されていたので、確認するために録画しておいた。やはり、志村正彦の歌う姿がテレビ画面に一瞬(というか、一瞬にもう一瞬を重ねたくらいの間だったが)ではあるが映し出されていた。あの特徴あるシャツは、富士吉田ライブでのものだろう。

 フジファブリックの富士吉田市民会館のライブ素材を使ってオープニング映像が作成された。しかも、「がんばる甲州人」の代表としての扱いだ。事態がそのように了解できた。彼はもちろん、「甲州人」などという狭い枠組みに収まるはずもない存在なのだのが、それでも、こうして地元番組に繰り返し登場するのは、一人のファンとして、とても嬉しい。

 彼の名は示されてはいない。視聴者の大半は、この歌う若者が誰であるのかは知らないだろう。(残念ながら、山梨では彼の知名度はそう高くない。辛うじて名は知っていても、名と顔が結びつく人は少ないだろう)
 それでもいい。 「志村正彦」という固有名を離れても、彼の像がこのようにして茶の間の人々の「まなざし」に届いている。有り難い。
 その出来事、その偶景から、一瞬の、ほのかなものではあるが、何か力のようなものが与えられた。

 一昨日は偶然、『郡内織の傘にかける』というテーマ。郡内織というのは富士吉田や西桂町を中心とする郡内地域の織物を指す。その若き経営者、がんばる甲州人を取材した番組だった。地場の産業にとっては厳しい時代だが、郡内織の歴史が途絶えることのないように頑張っている方々がいる。心から声援を送りたい。(私も最近は、「ふじやま織」のロゴのネクタイ、赤と銀の格子模様、青色の縦線のグラデーション、その二本がとても気に入っている。色合と柄が微妙に和風で微妙にモダン、生地も軽やかなのがいい。)

 志村正彦の映像がいつまで使われるのかは分からない。このところは隔週で放送されているようだが、NHK甲府火曜日の「がんばる甲州人」をこれから注意して見てみたい。


[付記]
この記事は当初は[偶景]シリーズに分類しましたが、その内容から、[志村正彦LN106]に変更させていただきました。

2015年5月24日日曜日

二年の月日を超えて [諸記]

 
  「志村正彦ライナーノーツ[LN]」は、十回に及ぶ武道館ライブのエッセイの連載中に百回を超えた。2012年3月から今日までおよそ二年の間にこの回数となり、ページビューも十万回に達することができた。
 もともと志村正彦を巡る出来事、ある種の《偶景》を契機に書き始めることになった。出来事で区切るのなら、2012年12月の富士吉田での同級生による志村正彦展と『若者のすべて』チャイムから、2014年11月のフジファブリック武道館ライブまでの二年間となる。その間、2013年の夏の『茜色の夕日』チャイムやそれを巡るNHKの番組、2014年夏の甲府での志村正彦展もあった。
 この二年という時間は非常に濃縮されたものであり、それらの経験を通じて感じたこと考えたことがこのblogの原動力となった。
 そのような凝縮された「季節」もある転機を迎えているような気が今している。


 武道館ライブをめぐる批評、「声」から描きだされ、「月」で閉じられたエッセイの歩みは、志村正彦は彼の遺した音源の中に「作品」として存在している、という当然で自然であり、自明で明確な地平に辿りついた。だからこそ、今後は、音源の声と言葉にさらに焦点を当てて、読むこと、聴くことを深めていきたい。
 「志村正彦LN」は、 漠然とではあるが、少なくともあと二百回ほどは書くべきことがある予感がしている。その航路もほのかには見えている。時間との闘いになるが、これからも書き続けていきたい。

 最近は掲載の間隔が以前より空いてしまっている。納得のいくものとなるまで(とりあえずの納得ではあるのだが)、非才ゆえに時間がかかってしまう。武道館ライブについて断続的だが半年を要した。この間、少しだけでも記しておきたい他の事柄があったが、時機を逸してしまった。遡って書くこともできるのではあるが、逸してしまったものをどうするかという課題が浮上してきた。
 その解決策として、これからは、断片的なもの、相対的に短いものも、随時、書きとめていくようにしたい。「私」を一つの「まなざし」として設定し、その「私」の前で通り過ぎていくいくものを「声」として語る短い文となるだろう。《偶景》スタイルの短文エッセイ。ある意味では「twitter」に近いものかもしれないが、字数はより長いものとならざるをえない。

 このblogは今後、二つの様式のテクスト、「志村正彦LN」を中心とする批評的エッセイ(その全体としても部分としても「連載」となる)と、《偶景》風の短文エッセイとを、ファブリックのように織り交ぜて進んでいく。対象となる作品や出来事、テーマやモチーフもより多様なものとなるだろう。

2015年5月18日月曜日

月-フジファブリック武道館LIVE10 [志村正彦LN105]

 昨年11月末のフジファブリック武道館ライブから半年近く経つ。その翌日から書き始めたこのライブに関するエッセイも断続的に続いてきたが、今回で終了としたい。

 第1回目で、志村正彦の声の音源による『茜色の夕日』を聴いた経験を、彼が「《声》という純粋な存在になった」という言葉に集約させた。そして、「聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる」と結んだが、その時にあらかじめ分かっていたわけではないが、その後、このエッセイは結局、志村正彦の《声》を巡る文となっていった。あの武道館の巨大な空間に満ちあふれたあの《声》に導かれるようにして、行きつ戻りつ巡回しながら、同じことを繰り返し、視点を少し ずつ変えながら書いていった。錯綜や矛盾があるかもしれないが、そのようにしか書き進められなかった。

 書いているうちに確かなものとなってきたモチーフもある。現在のフジファブリックをどう捉えるか、というものだ。このライナーノーツでいつか書こうと準備してはいたのだが、難しい主題ではあった。いまだに、現在のフジファブリックについての議論(消極的あるいは懐疑的な評価にせよ積極的な評価にせよ)が共存している状況下で、単純な否定論や肯定論を超えるような視座がないかと模索してきた。考えあぐねていたというのが正直なところだが、武道館での『卒業』の歌と映像によって、ある考えの枠組みが浮かんできた。それと共に言葉が動いていった。

 志村正彦の音源の《声》が自らの作品『茜色の夕日』を、山内総一郎の《声》が志村の作品『若者のすべて』を、続いて、山内が自作の『卒業』を歌う。この三曲の《声》の主体と歌の作者の組合せの変化が、このメジャデビューから十年という時を、象徴的にそしてある意味では儀式的に、表していた。『卒業』の歌詞の分析によって、現在のフジファブリックの「位置」、志村正彦との関わり方の「方位」を測定することができた。
 そのことと同時に、志村在籍時のフジファブリックに焦点を変えてみるのなら、現在のフジファブリックの歌と演奏から逆説的に、志村正彦の歌と楽曲、《言葉》と《声》のかけがえのなさ、独自性と創造性が、一つの「経験」として強く迫ってきた、ということに尽きる。

 武道館という「トポス」ゆえに、ロックの聴き手としての私の個人史も差しはさんだ。(トポスとはギリシア語で「場所」を意味し、転じて、特定の「場」に関係づけられるテーマやモチーフ、それらの表現を指す)
 武道館というトポスは、70年代以降の「来日」洋楽ロックや80年代以降の邦楽ロックに関わる様々な記憶と結びつく。1973年のマウンテンから2014年のフジファブリックまで、40年を超える年月が流れている。密度の濃淡はあっても、この間、欧米と日本のロックを聴き続けてきたわけだ。
 PA技術の進化によって、武道館の音が以 前に比べてはるかにクリアになったことに驚かされた。(昔は「悪い」という定評があったのだが、「良い」とは言えないにしても「悪くはない」水準にはなっている) 志村正彦の歌の音源とメンバーの楽器演奏によるリアルタイムの「合奏」も、この技術の進化によって実現したのだろう。収容人数からするとコンパクトな座席とその配置も一体感を醸し出していた。(昨日、5月17日付の朝日新聞「文化の扉」欄に偶然「はじめての武道館」と題する記事が掲載されていた。この「トポス」についてはいつか再び書いてみたい)
 また、一連の記事について何人かの方にTwitterで触れていただいた。感謝を申し上げます。


 あの日は、甲府への帰途につかねばならない都合があり、アンコ ールの途中で武道館を後にした。背後から大音量の演奏と観客の拍手の音が漏れてくるが、一歩一歩階段を下りると、音は少しずつ遠ざかっていく。
 外はすっかり夜の時を刻んでいる。十一月末の冷たい空気が、直前まで身にまとっていた熱気を冷ましてくれる。十周年を祝う祝祭の時と場に別れを告げると、奇妙に静かな風景が広がっていた。
 前方に広がる公園の樹木の陰、その暗がりの上方を見ると、三日月よりやや大きな月が現れている。雲間からこぼれるようにかすかな光が差しこむ。淡い穏やかな光だった。


 志村正彦の月。瞬間、その言葉が浮かんできた。

 彼の歌には「月」がしばしば登場する。

 2014年初冬の武道館。
 現在のフジファブリックと数千人の観客。
 その熱狂を静かに淡く照り返す月光。

 不在の志村正彦が月の光となり、私たちを見つめているかのようだった。

2015年5月4日月曜日

歌い手と言葉-フジファブリック武道館LIVE9[志村正彦LN104]

 『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]のスリーブには、次のようなクレジットがある。

  vocal/guitar:山内総一郎
  keyboards:金澤ダイスケ
  bass:加藤慎一
  vocal:志村正彦

  guitar:名越由貴夫
  drums:BOBO

 この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
 二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。

 これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。

 この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
 あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
 何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。

 さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
 歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
 厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。


   あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
   英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
       
   またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   残像が胸を締めつける                                  (『陽炎』)


 「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。

 今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
 しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。

 しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
 四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
 すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。

 少し視野を広げてみたい。
 例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
 志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。

 志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
 自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。

 どうしてなのだろ う。

 志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。

    (この項続く)

2015年4月21日火曜日

日曜日の昼の「ココロネコ」

 一昨日の日曜日。昼、県立図書館から甲府駅の北口へと歩いていた時のことだった。(この界隈に来ると、昨年の「ロックの詩人 志村正彦展」のことを想い出す)

 この日は、月一度の「甲府空中市ソライチ」の日。焼き菓子の店やいろいろな店が並んでいた。
 駅構内に入ると、ロック風のサウンドが聞こえてきた。音の方向には4人編成のバンド。アコースティック楽器を奏でている。CDを売っていた棚を見ると、「ココロネコ」とあった。

 ココロネコ?偶然の遭遇だった。

 地元メディアで紹介されていたので記憶にある名。確か、山梨県立大の学生が結成したバンドで、最近、インストアライブもやった。知っていることはそれだけだったが、ココロネコというありそうでなさそうな名は面白い。少しだけ時間があったので、2曲ほど聴いた。

 ヴォーカルとコーラスのハーモニーがなかなか美しい。声はやや線が細いが、のびやかに広がっていく。演奏にもインディーズレベルの確かな技術がある。
 声と音の透明な感触とその広がりがこのバンドの可能性を感じさせた。

 その場で『リフレイン』というミニアルバムを購入、帰宅後視聴した。
若者の内面を素直に吐露した歌詞は、変に言葉をこねくり回すこともなく、好感が持てる。かっこつけることもなく、ひねくれてもいないが、まだまだありふれた言葉が多い。しかし、次の一節には、作り手が自分の言葉を探りあてつつある予感がある。

  この街の夢も希望も明日も何もかも
  一つも君を裏切ること無く、そこにあってほしい
  それ以上はもういらないんだ      (『この街の』)

 「一つも君を裏切ること無く」と一度区切られ、「そこにあってほしい」と記された願望はみずみずしい。あえて言うなら、「この街の」というモチーフの中心にある、「この」の指し示す像を何らかの言葉で表すことができれば、この歌はもっと聴き手に届くのではないだろうか。
 [ ココロネコ / この街の MusicVideo ショートバージョン    https://www.youtube.com/watch?v=JYjn6F8Ts9A がネットにある ]

 卒業後もバンドを続けているようだが、引用した歌詞の一節をもじるならば、彼らの言葉が「そこにあってほしい」。ロックは言葉だと考えるからだ。
 

 偶々、街で、山梨発のロック、ココロネコに出会う。
 日曜日の昼の偶景のような出来事を記した。

2015年4月12日日曜日

出来事と再現-フジファブリック武道館LIVE8 [志村正彦LN103]

 注文した『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]が届いた。
 初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
 大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。

 リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
 オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。

 時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
 斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
 あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
 現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。

 『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
 こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
 茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
 しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。

 《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
 《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。

 武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
 

 その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
 

 (この項続く)