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2016年10月13日木曜日

ボブ・ディラン「新しい詩的表現」

 今夜帰宅後、ノーベル文学賞が気になってテレビをつけてみた。BSフジの「プライムニュース」がストックホルムからの映像を生中継していた。
 午後8時、発表者から読み上げられた名は「Bob Dylan」だった。英語での説明がゆっくりした発音だったので「new poetic expressions」「the great American song tradition」という言葉が耳に入ってきた。数年前から候補に挙がっていたことは知っていたので意外ではなかった。それよりも「偉大なアメリカの歌の伝統」の中で「新しい詩的表現」を創造したという授賞理由に心が強く動かされた。

 志村正彦の歌詞・詩を中心に日本語ロックの歌詞について語り続けてきたこのblogの主催者としては、現在のロックやフォークの歌詞の最も大きな源流であるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことは率直に嬉しい。ノーベル賞という大栄誉、大権威から承認されることは「ロック」的でないという野暮な意見もあろうが、そんなことはどうでもいい。ロックやフォークの言葉はもっと多くの人に親しまれるべきだ。その契機となるならこの受賞には大きな意義がある。
 朝日新聞の記事によると、発表したサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ。非常に巧みに伝統を取り込みつつ、常に自分自身の殻を破ってきた」と述べたそうだ。「読まれるべき」詩という捉え方には大いに共感する。

 今年の4月、渋谷オーチャードホールでボブ・ディランを聴いたことは以前このblogに記した。1978年2月武道館以来の2度目のディラン体験だった。その時書いたように、僕は「70年代のディラン・ファン」ではあるが、ずっと聴き続けているという意味での本来のファンではない。それでも断続的ではあるが、彼の軌跡を追っていたとは言える。
 あの日のディランは、アメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。自分の書いた文をそのまま引用する。

ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。

 60年代から70年代にかけての「孤高の単独者」の影を追いかけてしまうのは、僕たちの世代の幻影、一種の病のようなものかもしれないが、それは自ら引き受けるものなのだろう。ディランを源流とするロックやフォークの言葉。その伝統と現在は今だ転がる石のように動き続けている。世界のあらゆるところで、この日本でも。僕たちには志村正彦という稀有な「ロックの詩人」がいる。

 志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。一つ一つ、彼の言葉の軌跡をたどっていきたい。

2 件のコメント:

  1.  「ロックの詩人」が開催された際、足を運ばせていただきましたが、『志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。』で、どうしてロックの詩人なのか、という意味がようやく本当に分かった気がしました。何となくは思っていましたが、それを言葉にするのは難しかったので、非常に納得がいきました。素晴らしい表現ですね。
     季節をロックに入れ込むなんて、志村さん以外でいたでしょうか。だから、志村さんの曲を知った人々は、彼の曲と詞にはっとさせられるのでしょうね。私もその一人です。

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  2. 「ロックの詩人」展をご覧いただいたのですね。ありがとうございました。うれしいです。「志村正彦と季節」というテーマをずっと考えてきたのですが、なかなか難しくて深いテーマです。頭の中で温め続けていても仕方がないので現時点で分かってきたことを近いうちに書いてみます。
     志村正彦・フジファブリックの作品に出会うことができれば、kapaさんの言われる「彼の曲と詞にはっとさせられる」ことを、多くの人が経験するのだと思います。もっともっと彼の歌を広めたいですね。

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