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2021年10月10日日曜日

《眼差し》だけの再会-「若者のすべて」22[志村正彦LN292]

 「若者のすべて」の〈僕らの花火〉の系列は、四つのブロックで構成されている。


1 最後の花火に今年もなったな
    何年経っても思い出してしまうな
  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ 

2 最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな
  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

3 最後の花火に今年もなったな 
      何年経っても思い出してしまうな
    ないかな ないよな なんてね 思ってた
      まいったな まいったな 話すことに迷うな

4   最後の最後の花火が終わったら
    僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 2013年に書いた〈「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」-『若者のすべて』6 (志村正彦LN 44)〉では、〈僕らの花火〉の系列について次のように考察している。 


  構成上、1と2は同一の繰り返しであり、3の前半部も1と2の前半部の反復である。しかし、3の後半部から、大きな展開が起こる。「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」の三度目の反復、それを受けて「ないかな ないよな」の三度目の反復が同じように続く。しかし、続く言葉「なんてね 思ってた」によって、この「最後の花火」の物語は大きな転換を迎える。  
 「ないかな ないよな」は、「なんてね 思ってた」と受け止められることで、「ない」が反転し、「ある」こと、あるいは「いる」ことが立ち現れる。不在が現前へと変化するのだ。思いがけないことであったせいか、歌の主体「僕」は「まいったな まいったな」と戸惑う。聴き手の方も、いったい何が起こったのかと戸惑うが、続く「話すことに迷うな」によって、事態をおおむね理解する。どうやら、「僕」はいつのまにか、誰かとの再会というか予期しない遭遇が果たせたようなのだ。ただし、「話すこと」そのものが「僕」をまだ迷いの中に閉じこめる。
  この現実の遭遇は、「まぶた閉じて浮かべているよ」という夢想と円環をなしている。「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。


 この時の考察は、〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉から〈ないかな ないよな なんてね 思ってた〉への変化を、不在から現前への転換というように捉えて、その現前を強調するものであった。そのように考えて、この〈どうやら、「僕」はいつのまにか、誰かとの再会というか予期しない遭遇が果たせたようなのだ〉という解釈を導いた。しかしこの時も、〈ただし、「話すこと」そのものが「僕」をまだ迷いの中に閉じこめる〉という但し書きを添えている。「僕」はまだ迷いの中にいるのだ。

 〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉の場面において、「僕」は少なくとも〈会ったら言えるかな〉と思い続けていた誰かを目撃した。〈まぶた閉じて浮かべているよ〉と繰り返されるように、この歌の中心には「僕」の《眼差し》があり、「僕」は何よりも《見る人》なのだ。観察者であり、時に幻視者でもある。

 そしてここからが解釈の分かれ道である。その誰かを目撃した後、「僕」はどうしたのだろうか。またその目撃の際に、僕がその誰かを見つめただけで終わってしまったのか、それともその誰かも僕を見つめ返したのか、ということもある。視線の交換があったのかどうかによって、解釈も異なるだろう。


 およそ三つの可能性があるだろう。

・「僕」はその誰かを目撃する。その誰かは「僕」の方を見てはいない。視線を交わし合うことはない。「僕」は〈話すことに迷う〉ままに、その場所から去ってしまう。

・「僕」はその誰かを目撃する。その誰かも「僕」を見る。視線は一瞬の間交わされる。「僕」は〈話すことに迷う〉ままに、その場所を通り過ぎてしまう。(しかしその遭遇の瞬間に、「僕」は《眼差し》だけで想いを伝え、相手の《眼差し》も返ってきたのかもしれない)

・「僕」はその誰かを目撃する。その誰かも「僕」を見る。視線は一瞬の間交わされる。そうして、「僕」はその誰かの方に歩いて行く。「僕」は〈話すことに迷う〉が、何らかの言葉をかけるのだろう。実際の再会が果たされる。


 予期しない遭遇は確かにあった。その遭遇が、《眼差し》だけの遭遇に終わったのか、実際の再会につながる遭遇になったのか。視線を交わし合うことの有無によって、前者はさらに二つに分かれる。それ以外の状況も想定できるかもしれない。

 以前の論考では、筆者は三つ目の解釈を取っていた。解釈には聴き手の想いや判断が込められている。つまり、「僕」とその誰かとが何らかの再会を果たしたという解釈には、そのような再会を果たしてほしいという聴き手の想いが投映されている。「僕」は誰かと再会し、その二人は「僕ら」となる。この「二人」が歌の現実において「僕ら」となるところに、「若者のすべて」の歩みの帰結がある。そして、〈最後の最後の花火が終わったら〉という仮定のもとに、〈僕らは変わるかな〉という想いが「僕ら」に共有される。〈同じ空を見上げているよ〉という二人の場と時の共有と共に。このような場面を想像した。そこには筆者の願いや望みもあったのだろう。

 また、〈「ない」が反転し、「ある」こと、あるいは「いる」ことが立ち現れる。不在が現前へと変化するのだ〉という論理を根拠としたことも影響している。不在から現前へ、「ない」ことから「ある」ことへの転換を強調していた。この現前は実際の再会につながると考えた。

 長い間、この再会についての解釈が変わることはなかった。しかし最近、それが変わってきた。二番目の捉え方がこの歌には合っているのではないか、そんな想いがある時ふと浮かんできた。実際の再会ではなく、眼差しも交わさずに通り過ぎるのでもなく、《眼差し》だけによる「僕ら」の再会。しかし、一瞬かもしれないが、その《眼差し》は「僕」の想いを相手に伝える。その瞬間、相手の《眼差し》から想いが返ってきたのかもしれない。言葉が交わされることのない再会。〈会ったら言えるかな〉という自らへの問いかけは、やはり、会っても言えない、言葉として伝えることはできない、という結果に終わる。〈話すことに迷うな〉という迷いは迷いのままに閉じられる。沈黙の再会がこの場面にはふさわしい。これは推論というよりも感覚のようなものだ。そして、この歌の最後の場面、その想像の場面も変化してきた。

      (この項続く)


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