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2021年4月30日金曜日

『桜並木、二つの傘』ABCDのかたち[志村正彦LN272]

 四月が終わる。今朝の朝日新聞「天声人語」では、北海道函館の五稜郭公園のソメイヨシノが盛りを迎えた、とあった。史上2番目の早さということだ。

 この園内1500本の大半は樹齢60年以上で衰えが目立ってきたので、昨年から「お礼肥(ごえ)」プロジェクトを始め、ボランティアを募って老木に肥料を挙げたそうだ。「桜が枯れた頃」とならないように桜を大切に養生する。記事は「今年の桜前線は列島を常ならぬ早足で駆け抜け、めでる余裕もなかった。来年こそは心穏やかに花の盛りを迎えたい。過度の負担を幹や根にかけぬよう気をつけながら」と結ばれていた。同感である。コロナ禍があり、桜を静かに眺めるという心のゆとりがもなかった。でも昨年も「来年こそは」という言葉が交わされていた気がする。ここ山梨の地元放送局テレビ山梨は、『若者のすべて』を音源にして「STAY HOME」のCMでそのようなメッセージを流していた。コロナ禍を含め、未来がきわめて不透明な時代だ。先が見通せない辛い現実がある。

 志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』のことを続けて書きたい。現代詩作家の荒川洋治は、『詩とことば』 (岩波現代文庫 2012.6、原著2004刊)で、詩の基本的なかたちを次のように示している。(p102)


 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
    こんなことがある      A
  そして、こんなこともある  B
  あんなこともある!     C
  そんな ことなのか      D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。


 このABCDは確かに起承転結のかたちだが、それを〈こんなことがある→そして、こんなこともある→あんなこともある!→そんな ことなのか〉と述べているところが愉快だ。荒川洋治的な語り口がある。このABCDのかたちを志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』にあてはめてみよう。


1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで

2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた

3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

*リフレインの部分は省略


〈A こんなことがある〉
1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈B そして、こんなこともある〉
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈C あんなこともある!〉
1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか


〈D そんな ことなのか〉 
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト


 三つのブロックがあるので、1,2,3の番号を付けた上でABCDに分けて靑色の字で示した。3にはABがなくCDのみがあると考えた(分け方はいろいろあるだろうが)。それをABCD別に再配置したのが赤字の部分である。

 そうするとこの歌詞も、荒川洋治の言う「ABCD」の基本的かたち、起承転結の構成を持つことが分かる。1と2のABは、過去や現在の状況をめぐる「何故なのだろう」という問いかけである。123のCでは、「僕」は別れを「君から告げてはくれないのか」と思い、「会話」が続くわけもないので「僕」は苛立ちタバコに火をつける。スキャットを挟んで、「最後に出かけないか」と「君」を誘う。3は明らかに転換の箇所である。そして物語の中の行動の箇所である。「僕」は苛立ち、そして急いでいる。123のDは、空・雨・桜並木というように、気候や季節の感触を活かして「二人」の情景を描いている。天気が「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」へと移ると共に、「二人の沈黙」が少し和らいでいく。空と雨に呼び込まれるようにして、「傘」のモチーフが現れる。そして、「桜並木」はこの歌詞全体の終わりの舞台として登場する。「桜並木と二つの傘」の姿と色が「きれいにコントラスト」をなすことでこの歌詞はエンディングを迎える。

 この『桜並木、二つの傘』では、志村正彦はサウンドに急き立てられるかのよう歌う。自分で自分の言葉を追いかける。そして、「二人」の物語を語るというよりもむしろ語らないままで追い越してしまう。この歌には、ABCDという起承転結のかたちはあるのだが、ほとんどかたちだけであり、具体的な物語は浮かび上がらない。

 志村は物語を置き去りにしてまで、「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という情景へ疾走したかったのだろうか。

 『桜の季節』では、「桜が枯れた頃」という遠い時間が設定されていた。桜をめぐる循環した時間があった。その時間の中で「遠くの町に行くのかい?」「その町に くりだしてみるのもいい」という「町」がそこにはあった。その町にはそれなりに自然の景観が広がっている。そんな雰囲気がある。それに対して『桜並木、二つの傘』の場は、「町」というよりも「街」のように感じる。それも都会の街であり、街の桜並木だろう。時間もせわしく流れている。

 『桜並木、二つの傘』と『桜の季節』。志村正彦の二つの桜の歌は、時と場が、きれいにコントラストをなしている。


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