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2021年4月25日日曜日

『桜並木、二つの傘』[志村正彦LN271]

  甲府では桜の季節はとうに過ぎ去ったが、今回から、志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』について書いてみたい。

 この作品は、2002年10月21日リリースのフジファブリックの1stミニアルバム『アラカルト』に収録された。その後、2004年4月14日、1stシングル『桜の季節』のカップリングとしてリメイクされた。この二つの曲にはアレンジや演奏の違いがあり、聞き比べるのも興味深い。

 他の四季盤のA面とB面(メインとカップリング)の曲が、テーマが明確に異なるのに対して、この春盤では、「桜」というテーマが一致している、しかも「別れ」というモチーフまでも共通している。なぜこのような組合せにしたのか。それこそ、この歌の一節「何故なのだろう」という気分である。あえて言うのなら、同一のテーマとモチーフによって、『桜並木、二つの傘』の一節で言うのなら「きれいにコントラスト」を作ったのだろうか。

 フジファブリック Official Channel に『アラカルト』の音源がある。これはありがたい。Vo./Gt. 志村正彦、Gt. 萩原彰人、Ba. 加藤雄一、Key.  田所幸子、Dr. 渡辺隆之の編成によるインディーズ時代の通称「第2期フジファブリック」の録音。その後のメジャーデビュー時のフジファブリックでは失われた独特のグルーブ感がある。志村の声も若々しい。

 桜並木、二つの傘 · FUJIFABRIC アラカルト

℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura


 

歌詞の全文を引用しよう。


 桜並木、二つの傘
 作詞・作曲:志村正彦

あれはいつか かなり前に君を見たら
薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
偶然街で出会う二人 戸惑いながら
照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

されど 時が経てば覚めてしまうもので
そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
何か少し期待外れの部分見つけ
膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

解りきった会話続くわけもない
苛立つ僕はタバコに火をつけ
強く降り出した通り雨の音
二人の沈黙を少し和らげた

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト
DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

AH〜


 1番目のブロック。冒頭の「あれはいつか かなり前に君を見たら」という一節。「あれはいつか かなり前に」という過去の時間設定。それに続いて、「君を見たら」という過去における出来事の仮定というのか、ある種の提示があり、それに対して「薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう」という帰結がある。「あれはいつか かなり前に君を見た時に 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無かったのは 何故なのだろう」が通常の表現だろう。この表現であれば、過去の回想と現在の「何故なのだろう」という問いかけがきっちりと分離されている。しかし、志村正彦の選択した表現は、時間にも構文にも、奇妙なねじれがある。ある意図が込められたのだろうが、それは判然としない。続く「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」の「偶然」「戸惑いながら」という状況との関係から選択されたのだろうか。このあたりの表現の機微は、志村正彦的なあまりに志村正彦的な、とでも言うしかない。そして「薄笑い」にしろ「照れ笑い」にしろ、自分が自分を笑う。そのような位置の取り方をしている。

 2番目のブロックには、「切り出しそうな僕に気付いたのなら/君から告げてはくれないのか/降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、「僕」「君」「二人」という人称代名詞やそれに類する言葉が出そろう。「僕」は「君」に対して、「切り出しそうな僕に気付いたのなら」「君から告げてはくれないのか」と心の中で呟く。ここでも「たのなら」「てはくれないのか」という仮定とその帰結という形式を取っている。「降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、雨が降り出しそうな午後の空の色が描かれる。その色は「二人の気持ちを映してるかのようで」と捉えられるが、「かのようで」とあることから、歌の主体「僕」があたかもこの場面の外側にいて、その外側の視点から、「空の色」と「二人の気持ち」を「かのようで」で接続していると受けとめられる。つまり、「僕」と「君」が居合わせる「二人」の場と、それを眺める「僕」との間には、分離、隔たりがある。「二人」の場面をカメラのフレーム、枠組みの中に収めている「僕」がいる。「僕」はそのフレームの向こう側とこちら側の両方にいる。冒頭の時間と構文のねじれようなものは、このことに起因しているのかもしれない。

 3番目のブロックは、「されど」で始まる。ここで「僕」の想いの方へと焦点が当てられていく。歌の物語の転換である。「時が経てば覚めてしまうもので」「何か少し期待外れの部分見つけ」という「二人」の関係の変化。そのようにして「どうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう」と、自分が自分に問いかける。

 4番目のブロックで、一連の出来事がひとまずの収束を迎える。「解りきった会話続くわけもない/苛立つ僕はタバコに火をつけ」と、志村正彦の歌詞では珍しい「苛立つ」という直接的な感情表現がある。その感情は、「強く降り出した通り雨の音」によって少し鎮められたのだろうか。通り雨の「音」が「二人の沈黙を少し和らげた」とある。「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」への空模様の変化は、時間の進行を示している。

 5番目のブロック、サビの「DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA/最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」は「僕」の内心の呟きというか静かな叫びなのだろう。「通り雨の音」と「二人の沈黙」の音をめぐるコントラストが、二人のいる室内にある。そこから外に出ることを「僕」は想像している。「最後に出かけないか」と「僕」は「君」を誘う。おそらく「二人」の別れの場面だろう。でもこの歌の中で、そこに到る物語が語られることはない。物語は覚めてしまって、期待外れに終わっている。「僕」の心の中には「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という「最後」の情景が浮かび上がる。これははあくまでも僕が想像している光景である。その光景はあくまでも「きれいにコントラスト」を成していなければならない。そうでなければ、「二人」の物語の「最後」の光景が完結しないかのように。

 『桜並木、二つの傘』は、本編の物語がほとんど欠落している。(あるいは隠されていると言うべきかもしれないが)「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」を成すラストシーンだけが上映される短編映画のような作品である。そのラストシーンへの展開、時間の凝縮の仕方が、志村正彦の語りの技術でもある。

      (この項続く)


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