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2014年2月1日土曜日

佐久間正英

 
 前回、佐久間正英氏の発言に触発されて、音楽遺産という観点で志村正彦について書いた。その翌日、佐久間氏の逝去が伝えられた。
 自らの限りある生を受けとめてから、機会を得て、氏はさらに沢山の重要なことを述べられた。結果として、音楽家と音楽業界への「遺作」のような言葉を遺された。
 LN69で触れた『佐久間正英からの提言(後編) ~これからの音楽家の活動 音楽産業のあり方~』[http://mutant-s.com/special-interview01_02/]には、次の発言がある。

 音楽を演る、創る側にとってはとても楽な時代に向かっていく。そこは制約されることは無いから、形はどうであれ、いい方に動いていくきっかけにはなっていると思います。業界があって音楽が作られるのではなくて、音楽があってその周りが作られていくのだから、

 音楽があってその周りが作られていく、という見失われがちの原点を再確認させてくれる発言だ。そして、「その周り」という言葉を選んでいるように、音楽の後に作られてくる「周り」は、前回引用した発言の中では、「専門の新しい音楽をつくる組織や集合体」を想定している。
 既存の音楽出版社やレコード会社とは異なる「組織や集合体」とはどのようなものか。現在、クラウドファンディングによる制作費の捻出、独立系によるディストリビュート、ネット配信の多様な展開など、様々な試みがなされているようだが、まだ試行錯誤の段階だと思われる。

 しかし、音楽の「周辺」がどのように変化したとしても、ロック音楽を始めとする「複製芸術」の制作には、プロデューサーやディレクターという、作りと受け手とを結ぶつける「第3の人」が不可欠になる(セルフプロデュースの場合でも、機能としては分化している)。その存在は、作り手と受け手との「媒介」となり、各々の「他者」としての位置を貫く。新しい音楽制作の流れの中では、確固たる意志と優れた方法を持つプロデューサーやディレクターが、従来よりさらに重要とされるのではないだろか。佐久間氏は、このインタビューの最後近くで、「今まで以上に音楽をやる人間は自らの行動に自覚と責任を持つ事が大事ですね」と述べている。音楽家だけでなく、聴き手にとっても記憶すべき言葉だ。

 一人の音楽家の死について、何をどのように語ることができるのだろうか。書かれる客体と書く主体との関係を厳密に測定して、その間の「関係」あるいは「無関係」を関係づけながら、文は書かれるべきだ。しかし、そのことは容易でなく、沢山の丁寧な時間が必要となる。(「志村正彦ライナーノーツ」のアポリアでもある)
 ここ2週間近く、そのことを考えていたのだが、ここでは、一人の聴き手としての経験のみに限定して記しておきたい。

 四人囃子の『一触即発』は、私にとって、十代を通じて最も聴きこんだ日本語のロックアルバムだった。佐久間正英の名は、四人囃子の2代目ベーシストとして、刻まれていた。
 彼の演奏を初めて聴いたのは、1981年、中野サンプラザでのプラスチックスのライブだった。長身の彼はキーボードを奏で、全体の音のバランスを取っていた。トーキング・ヘッズの「前座」扱いだったが、前座というより日米の最先端音楽の「対バン」のようだった。プラスチックスは、当時の日本の「テクノポップ」の中でも、突き抜けたポップ感覚とある種の批評性を持っていた。

 「copy copy 全ては copy」「copy copy 東京copy town」(『copy』中西俊夫・作詞)と彼らは歌う。「copy & paste」全盛の今日なら、「全ては Copy」と言われても当たり前という感想しかないだろう。しかし、80年前後の当時は違った。「全てはcopy」という歌詞には、時代と文化に対する鋭い批評性が込められていた。佐久間氏が初めてプロデュースしたP-MODELの第1作にある『サンシャイン・シティー』(平沢裕一・作詞)の「サンシャイン・シティー ペテンの街で/サンシャイン・シティー 詩人は死んだ」も同様だ。80年当時の東京は、高度経済成長が終わると共に、成熟した世界都市になりつつあった。音楽でも世界同時性のような動きがあった。佐久間氏は、そのような動向に敏感でありつつ、東京の音楽や時代に対する批評意識を持っていた。

 その後は、プロデューサーとしての活動が主になっていった。同時代の音楽を追いかけることが少なくなった私が再び出会ったのは、早川義夫を支える相棒としてであった。
 1995年、五反田ゆうぽうとホールで早川義夫のコンサートがあり、久しぶりに、それもギターリストとしての氏の演奏を聴いた(LN54で触れた)。その後何度か、早川義夫とのユニットで、氏の透明で広がりのある美しい音色に接することができた。

 四人囃子のベースプレーヤーとしての佐久間氏を初めて見たのは、2002年10月、新宿厚生年金会館での「ROCK LEGENDS Vol.2 四人囃子 VS 頭脳警察」コンサートの時だった。ずっと長い間待ち望んでいた機会が訪れた。四人囃子のライブをついに経験したのだ。新しさとか古さとか、そのような物差しでは計れない、日本語ロックの最高のパフォーマンスが繰り広げられていた。

 最後に聴いたのは、2010年10月15日、甲府の桜座での「早川義夫・佐久間正英」ライブだった。これについて触れている「on the road again」という題の佐久間氏のブログ記事がある。(October 16, 2010、http://masahidesakuma.net/2010/10/on-the-road-again-1.html)その時の桜座の舞台写真も載っている。

 そして間髪入れず昨日からまた早川義夫さんと On the road again!!
 初日は甲府。続いて長野、新潟と移動をして行く。

 四人囃子、PLASTICSとバンド人生が一段落した後はほとんどスタジオでの音楽制作がメインとなり、こんな頻繁にライブをやった事は無かった様に思う。
 ライブと言ってもGLAYのゲストで幕張20万人とかドーム・ツアーだとか日常とはかけ離れた規模の世界だった。あるいは数年毎の四人囃子再結成など。いずれもホールでの公演。


 それがここ数年だんだんとライブハウスで演奏をする機会が増えてきた。早川義夫さん、hachi、もちろん自分のバンドを組んでからは unsuspected monogramとして。(中略)
 ここ最近は平日スタジオに入り週末はライブとなる機会も多く、正しく”サンデー・ロッカーズ”状態。

  佐久間氏はこのころ、平日は「レコード・プロデューサー」、週末は「一介のバンドマン」という「サンデー・ロッカーズ」な日々に意義を見いだしていたのだろう。この「On the road again」によって、甲府で、早川義夫と佐久間正英の初コンサートが開かれることになった。我が街で敬愛する音楽家のライブを経験できるのはとても幸せなことだ。

  記憶の中の像を取り出してみる。
 桜座の上部に吹き抜けのある空間は音を吸い込む。早川義夫の言葉は、文字通り、屹立する。垂直に立ち上がってくる早川義夫の声。水平に広がっていく佐久間正英のギターの音。『身体と歌だけの関係』だったろうか。
 早川が「歌だけがのこる 歌だけがのこる ステキな僕らのステキな歌だけがそこにのこる」と歌い終わる。「歌だけがのこる」という言葉が消えていく。その消えゆく言葉の隙間を補うように、佐久間の透で浮遊する音が広がっていく。強度の高い早川の声の余白を、佐久間のギターがやわらかく包み込む。

 「自己表出」の人、早川義夫、と対比するなら、「他者」を支える「他者表出」の人、佐久間正英と、60年代後半風に名付けてもよいだろうか。(逆に、佐久間正英の「自己表出」と早川義夫の「他者表出」もあるのだろうが)

 
 この時には、「自分はこの人の歌のために音楽をやって来たのではないだろうか。この人と出会うためにギターを弾き続けて来たのではないだろうか」という想いを知る術もなかったが、演奏中も演奏後も、確かに「寄り添う」姿を感じとることができた。(この時は物販で早川氏の本を購入し、サインしていただいたのだが、その近くに佐久間氏がいたように思う)
 佐久間氏が四人囃子時代に作詞した楽曲のことなど、触れたいことはまだあるのだが、すでにかなりの字数に達してしまったので、別の機会に譲りたい。

 最後になってしまったが、2008年7月に、「四人囃子×フジファブリック」のライブがあったことも書き記しておきたい。四人囃子からの提案でこの企画は実現した。フジファブリックに対する評価や期待が高かったのだろう。アンコールでは、四人囃子の4人とフジの5人が一体となり、「九人囃子」として演奏したそうだ。(このライブの音源や映像が発掘されないだろうか)
 志村正彦、フジファブリックの楽曲に、系譜的に四人囃子につながるものがあるのは確かだ。

 3月には、作詞作曲した遺作“Last Days”も収録されたコンピレーションアルバム『SAKUMA DROPS』が発売されるそうだ。四人囃子、早川義夫。日本語ロックの最も優れた潮流を支えた才能と意志の人として、佐久間正英の作品はこれからも聴かれ続ける。

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