公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2014年1月19日日曜日

志村正彦の音楽遺産 (志村正彦LN 69)

  LN68で、志村正彦が彼が遺した作品が「音楽遺産」として、今、新たな聴き手を獲得していると書いた。このことに関連して、『佐久間正英からの提言(後編) ~これからの音楽家の活動 音楽産業のあり方~』[http://mutant-s.com/special-interview01_02/]に言及したい。音楽の作り手側が、音楽業界がロックの「文化財産」をどのように残していくべきかという課題について述べた貴重な発言である。鈴木健士氏が音楽産業の今後のあり方について問うと、佐久間氏は次のように答える。

 僕は今のメジャーメーカーがやるべきことは新しいものは出さずに過去の音源だけを販売すること。原盤を保持しているものを上手く商品化すれば、10人位で儲かる会社はできると思います。廃盤もなく文化として創り上げた作品を残して行く、それは文化財産としてもいいことだと思う。
 新しいものはレコード会社ではない枠というか新しい事務所的なものになるのか判らないけれど専門の新しい音楽をつくる組織や集合体が出来るといいなと。


 「過去の音源だけを販売すること」がメジャーメーカーの役割だとは、ずいぶん思い切った提言だが、ここには衰退してきた音楽業界に向けた佐久間氏ならではの「ラディカルな意志のスタイル」がある。メジャーが所有している原盤権を活かすためにも、人員を縮小して運営していくのは、会社の存続という現実的問題についての解答の一つだろう。グローバリズムの進展の中で、どの業界も強いられていることだ。

 クラシックやジャズだけでなく、半世紀の歴史を持つロック音楽についても、過去の優れた作品を「文化財産」として保管、経営していく部門と、新しい音楽を制作、経営する部門の二つに分割すること。そして、後者は会社の枠を越えた新しい組織になる可能性があること。業界のことなど全く分からないが、一人の聴き手としては、非常に理解できる考え方だ。

 現在が、60年代後半から80年代前半までに顕著であった、新しいものが日々生まれ、古いものを革新していく時代でないことは確かだ。あの時代は現在進行形で多種多様なものが生まれ、色々なものが入れ替わり、結果として、「ロックの領域」を深化、拡大させていった。
 現在の新しい音楽は、すでにかなり形成されたロックの領域の中の一部分として生み出されるしかない。ただし、新しいと言っても、ある程度、反復されたものが入り込んでいることも致し方がない。半世紀という時間から来るジャンルの成熟は不可避であり、反復は必然的だからだ。

 おそらく、英米でも日本でも、90年代以降の新しい音楽、可能性のある音楽は、反復されたものの「解体構築」のような音楽が中心をなしている。あらゆる物語はすでに語られてしまっているように、あらゆるロックもすでに歌われ、奏でられてしまっている。そのような意識を持たずに、そのような制約から離れて、音楽を作ることは難しい。すでにある音楽をどのように解体し、何を活かし、何を組み合わせ、再構築していく方法しかないだろう。

 ロックの領域は、もはやその「外部」へと拡大深化することはなく、その「内部」で解体構築を繰りかえすしかない。作り手は必然的にそうなり、聴き手もそのように向かわざるをえない。聴き手も聴くという行為を通じて、音楽経験を解体構築していく。まだ抽象的にしか語れないが、そのような方向性がかすかに見えてくる。そのためにも、音楽の「文化財産」がこれまで以上に重要になる。

 志村正彦、フジファブリックの音楽も、ロックを中心とする過去の音楽遺産の解体構築として築かれている。多様な音楽の痕跡が聞こえてくるだろう。しかし、作品として結実された志村正彦の言葉と音楽は、誰にも、他のどのような音楽にも似ていない。それは個性や独創性などという言葉では表せない。絶対的に他と異なる、ある意味では孤絶している、とでも表現するしかない。このライナーノーツは、彼がどのように過去の言葉と音楽を解体し構築し、自らの作品を創っていったのかを、言葉に焦点を当てて、少しでも解き明かすことを目的としているが、まだその端緒についたばかりだ。

 彼を神話化したり、伝説化したりするつもりはない。彼はそれを拒むだろう。
 それでも、志村正彦は「志村正彦という音楽」を創造したのだ、と書くより他に、今は適切な言葉が見つからない。

 今年は、フジファブリックのメジャーデビュー10年、志村正彦の没後5年という区切りの年だ。以前にも述べたが、志村正彦が作った音源やライブの記録映像の中で未発表・未発売のものが、ある程度の量で遺されていると推測される。様々な現実的な問題はあろうが、日本語ロックの文化財産、音楽遺産として、少しでも聴き手に届けられることを待ち望んでいる。

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