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2014年2月27日木曜日

クボケンジ 『ソト』

 前回触れたように、渋谷公会堂ライブのMCで、クボケンジは、『星の出来事』までは故郷の兵庫、それ以降は東京が舞台となり、歌詞の世界が創られているという意味のことを語っていた。
 その変化はもちろん、兵庫から東京に上京したという現実の出来事に起因しているが、物理的な場所の移動だけでなく、青年の成熟という時間的な要因も関わっている。
 クボケンジの世界には変化するモチーフと変化していないのモチーフの二つがあると前回書いたが、この問題を今回は追跡していきたい。

 デビュー作『ギンガ』に、『ソト』というカタカナ表記の曲がある。クボの繊細な感受性と巧みな作詞と楽曲の技術が結実した作品だ。渋公ライブを前にして、初期から現在まで通してCDを聴く中で、印象深い曲の一つだった。この原稿を準備するにあたり、ネットで調べると、2009年9月27日、SHIBUYA-AXで開催のメレンゲ5th Anniversary ワンマンライブで、ゲストの志村正彦が『ソト』を歌ったことを知った。彼の亡くなる3ヶ月ほど前のことで、おそらく、彼が歌った最後の他者の作品が、クボケンジ作の『ソト』になるだろう。『ソト』を選択したのが志村の意志かクボの提案かは分からないが、この事実を知ってからますます、この『ソト』という作品に惹かれるようになった。
 『ソト』は歌詞検索サイトにもほとんど掲載されていないので、参考までに詞全体を歌詞カードから引用する。

  『ソト』

 ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた
 ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう


 彼は話に夢中だ デタラメに船をこいでる
 オレはもう出かけたいな 窓を閉める
 出かけようぜ


 行こう! 恥ずかしい外へ 沈む太陽 追いかけるのさ
 揺れるブランコの音が 夢を連れて 逃げたりしない様に


 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?

 
 白い君の手を ふと 思い出すけど
 息も忘れるほどに僕を乗せて生活はまわる


 でもギターはもうほら嘘のなる木 食べれやしないよ? 
  行こう! 懐かしい外へ 上がる体温 復活のとき
 期待を背負って外へ・・・・外へ・・・


 『ソト』を一読しても、歌詞の言葉から背後にある物語がなかなか読み読みとれない。構成された物語よりも、断片的な《光景》と、冒頭に「ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた/ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう」とあるように、気温、汗、臭い、という《感覚》が聴き手に迫ってくる。 「子供達」という語から、幼少年期の記憶を引きずっているようにも感じられる。(MCの言葉からすると、この歌の舞台は兵庫になる。そうすると、もしかしたら、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶が入り込んでいるのかもしれない。あの当時、クボは高校生だったようだ)

 歌の主体は「オレはもう出かけたいな 窓を閉める/出かけようぜ」と呟く。最後は「期待を背負って外へ・・・・外へ・・・」で締めくくられる。題名「ソト」も示しているように、歌の主体「オレ」の「ソト」への出航が物語のモチーフの中心であることだけは確かなようだ。

 『ソト』は歌われることを前提とした作品ではあるが、歌詞の言葉を追っていくと、《書かれた詩》としのて性格が濃いように思われる(そもそも、「ソト」「外」、「オレ」「俺」という表記の二重性は、書かれて読まれることを前提としている)。言葉の凝縮の度合いが強く、抽象性も高い。これはこれで優れた達成なのだが、歌われる歌という面では内容的に難しい、物語がたどりにくいという属性も帯びてしまう。『ギンガ』収録曲にはその傾向が強いが、その後はゆるやかに変化している。

 クボケンジは、記憶や風景を解体し再構築する術を身につけている。『ソト』の物語の余白を埋めるように、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に/悲しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」という不思議な一節が歌われる。

 「どこに隠れているだい」と言われる対象、「出て来い俺の前に」と呼びかけられる対象は、いったい誰なのか。歌詞の世界には、冒頭に「僕らは汗を掻いた」の「僕ら」、「彼は話に夢中だ」の「彼」、「オレはもう出かけたいな」の「オレ」である歌の主体(後には「俺」とも表記されるので「俺」に統一する。付言すると、一人称複数が「僕ら」であるのに、単数が「オレ」「俺」であることも謎だ)、「白い君の手を」の「君」が登場する。人称代名詞で指し示されるだけで、各々の個性は分からない。「彼」の方は少年、「君」の方は少女だという気がするが、この「彼」と「君」が同一人物の可能性もある。その場合は少年になるだろう。どちらにしろ、「隠れている」対象は「彼」か「君」と考える解釈があり得る。(先ほど、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶を指摘したが、その場合、この「彼」や「君」という他者はすでに失われた、不在の対象という可能性もある)

 もう一つ、「隠れている」対象が自分自身であるという解釈もできる。歌の主体「俺」が隠れてしまっているもう一人の「俺」(それは現在のことなのか過去のことなのか分からないが)に「出て来い俺の前に」と語りかけている。この場合、「俺」と「俺の分身」とが対話している光景になる。この「ソト」という歌詞のモチーフと重ねるなら、「ソト」ならぬ「ウチ」に隠れている「俺」に対して、「ソト」に出ていこうとする「俺」が呼びかけている。反転して、「ウチ」にいる「俺」が「ソト」に行こうとする「俺」に話しかけているとも考えられる。

 あるいは、「恥ずかしい外」「懐かしい外」が「隠れている」対象だとすることも可能かもしれない。そのような隠れている「外」へ呼びかけ、「外」に出ようとする「俺」の存在を誇示するかのように。
 また、「哀しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」の解釈は難しいが、「哀しみのトンネル」をくぐることが、「隠れている」対象と歌の主体「俺」とが再び「あえる」ためには不可欠なのだろう。

 初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」と「君」「あなた」との対話、その変奏としての歌の主体と分身との対話は、クボケンジの歌詞の枠組みを形作ることが多い。枠組みに留まらず、この対話そのものが初期から現在まで続く、クボケンジの変わらない主題でもある。   (この項続く)

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