歩行の系列の最後の言葉「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」を経て、『若者のすべては』は「最後の花火」の系列、第3と第4のブロックにたどり着く。ここで、「最後の花火」系列の歌詞全体を引用する。(1・2は録音時の歌詞ノートにあったが、3・4とサビのα・βは筆者が論述のために付加したものである)
1.サビα) 最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ
2 サビα) 最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ
3 サビα) 最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
サビβ) ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな
4 サビα) 最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ
1~3のサビαの部分、「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」が、「最後の花火」系列のモチーフを形作っている。「今年もなったな」「何年経っても」という時間の経過の設定により、回想や想起という方法が歌の内部のもう一つの枠組みを形成している。この回想によって、「歩行」の系列と「最後の花火」の系列が接合されているとも言える。
1~3のサビβの「ないかな ないよな」で始まる1行目は、歌の主体「僕」の状況や周りの風景の描写を主とする「歩行」の系列やサビαとは異なり、文脈を省略した呟きのような言葉で歌われている。その「ないかな ないよな」の「ない」とう声が「僕」の内面を覆い、通奏低音のように歌に鳴り響いている。『若者のすべて』は、「ない」ことを巡る呟きの歌なのだ。
1・2のサビβの2行目の部分で、「僕」は「会ったら言えるかな」と繰り返し述べている。「会ったら言えるかな」は、ただ言葉を交わす挨拶のようなものか、それとも、何か大切な言葉を「言えるかな」と自分に問いかけているのか。後者の可能性が高いが、そうであるならば、再会時に何か大切なことを言うことが「僕」の目的かもしれない。何が言われるのか、聴き手には分からないが、「僕」がその情景を「まぶた閉じて浮かべている」とまで思い続けていることは確かに伝わってくる。まぶたを閉じて浮かぶ情景は、いくぶんか夢想に近いものとなる。
構成上、1と2は同一の繰り返しであり、3の前半部も1と2の前半部の反復である。しかし、3の後半部から、大きな展開が起こる。「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」の三度目の反復、それを受けて「ないかな ないよな」の三度目の反復が同じように続く。しかし、続く言葉「なんてね 思ってた」によって、この「最後の花火」の物語は大きな転換を迎える。
「ないかな ないよな」は、「なんてね 思ってた」と受け止められることで、「ない」が反転し、「ある」こと、あるいは「いる」ことが立ち現れる。不在が現前へと変化するのだ。思いがけないことであったせいか、歌の主体「僕」は「まいったな まいったな」と戸惑う。聴き手の方も、いったい何が起こったのかと戸惑うが、続く「話すことに迷うな」によって、事態をおおむね理解する。どうやら、「僕」はいつのまにか、誰かとの再会というか予期しない遭遇が果たせたようなのだ。ただし、「話すこと」そのものが「僕」をまだ迷いの中に閉じこめる。
この現実の遭遇は、「まぶた閉じて浮かべているよ」という夢想と円環をなしている。「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。
ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』で、恋愛対象の不在と現前、「あなたは行ってしまった」と「あなたはそこにいる」との間の「苦悶」について次のように述べている。
不在の人に向けて、その不在にまつわるディスクールを果てどなくくりかえす。これはまことに不思議な状況である。あの人は、指示対象としては不在でありながら、発話の受け手としては現前しているのだ。この奇妙なねじれから、一種の耐えがたい現在が生じる。指示行為の時間と発話行為の時間、この二つの時間の間で、私は身動きもならない。あなたは行ってしまった(だからこそわたしは嘆いている)、あなたはそこにいる(私があなたに話しかけているのだから)。そのときわたしは、現在というこの困難な時間が、まじり気のない苦悶の一片であることを知るのだ。
ロラン・バルトは、「あなた」の不在と現前による「わたし」の「苦悶」を強調している。志村正彦も繰り返し、バルトの言うような文脈での不在と現前そして苦悶のモチーフを描いている。『陽炎』の「きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう」「またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ 出来事が 胸を締めつける」がその一例である。
しかし、『若者のすべて』では、「会ったら言えるかな」という夢想から「話すことに迷うな」という現実への転換によって、「苦悶」というよりもある種の恩寵のような「悦び」が「僕」に訪れているような気がする。それは若者という時の過ごし方、そのあり方に特有の「悦び」かもしれない。
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