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2013年8月4日日曜日

志村正彦に関する番組について (志村正彦LN 42)

 1日、志村正彦に関する番組がNHK総合の「情報まるごと」の枠内で全国放送された。これは、7月23日にNHK甲府放送局で放送された「がんばる甲州人 ロックミュージシャン志村正彦さん」がそのまま「再放送」されるのだと思っていたが、そうではなく、いくつかの異なる点があった。県外の方はNHK甲府の「がんばる甲州人」を未見だろうから、両者の違いを以下示すことにする。(各々を「甲府版」と「総合版」と呼ぶ)

 ・「甲府版」と「総合版」の本編部分の映像は同じで、ナレーションの原稿も同じだが、ナレーターの声は異なるようだ。(断定できないが、ナレーションは新たに録音し直したように聞こえる)映像右上のインポーズ文字も、「ロックミュージシャン志村正彦さん」(甲府版)、「夭折のロッカー 富士吉田に”生きる”」(総合版)というように違っている。

 ・本編前後のアナウンサーによる語りの部分が異なる。「甲府版」では、本編前後にNHK甲府放送局のキャスター二人による丁寧なコメントと、母志村妙子さんによる「一期一会」という言葉と印象深いエピソード(このことについては後に触れたい)の紹介があった。「総合版」では、本編前後に、フジファブリック4人と志村正彦の写真と『陽炎』と『茜色の夕日』のCD音源が流され、キャスター1人によるコメントがあった。 また、番組最後に、視聴者からの「音楽でありながら、文学作品を読んでいるかのような素晴らしさがある」というメールが紹介され、これからも志村さんの音楽が人々に力を与えていく、という二人のキャスターによる暖かい言葉が添えられた。

・題名については、「甲府版」は、「がんばる甲州人」シリーズの1回分としての「ロックミュージシャン志村正彦さん」であるが、「総合版」では、「情報まるごと」の中の一つとしての扱いなので、独立した題名はなかったようだ。(勝手に名づけるなら、映像右上のインポーズ等を考慮して「フジファブリック志村正彦さん 夭折のロッカー富士吉田に”生きる”」になるだろうか)

  以上のことから、NHK総合は、「総合」という全国放送にふさわしいように、NHK甲府制作の番組を「再放送」するのではなく、「番組素材」にして、東京の視点から地域での動きを伝える、新たな番組として放送したように思われる。この方針自体は、番組のキャスターも異なり、全国放送という性格からいっても了解できるが、「志村正彦の特集番組」という期待で視聴された方の中には、ローカル色の濃い内容にやや違和感を持たれた方もいると思われる。このあたりの事情を含め、私が知っている、および書くことのできる範囲で、この番組について伝えるべきことをここで伝えておきたい。

  NHK甲府の「がんばる甲州人」というシリーズは、今この山梨という場で、様々なテーマについて「がんばる」人々(有名無名とか立場に関わらず)を取り上げるもので、すでに亡くなっている人物は対象外というのが基本のようだ。そのような原則から、志村正彦についての番組が実現できるかどうかという壁もあったが、担当ディレクターの熱意と努力によって、局内で了承を得ることができ、制作されることになったそうだ。

  「がんばる甲州人」の趣旨から、志村正彦の人生の軌跡や作品については、小学生の頃やインディーズ時代の写真、『若者のすべて』『茜色の夕日』ライブDVDの映像、実家の部屋の映像(少しだけ映されていたが、彼の楽器や機材、衣装や帽子、所蔵CD・DVD、ファンからの贈り物などの、言葉では言い尽くせないような「かけがえのないもの」が御家族によって大切に保管されている。今回の番組のために特別に公開されたもので、映像として紹介されたのは初のことだろう)、母妙子さんによる、ファンへの感謝や現在の心境が込められたコメントを中心に描かれることになった。
 

 そして、富士吉田を中心に、甲府を含め山梨という地域で、彼の歌を伝えていくことを目的とした活動が分量的にも多く取り上げられた。
 富士吉田で「志村正彦展」を主催し、市の若手プロジェクトと共に「夕方のチャイム」を企画している「路地裏の僕たち」(彼の同級生や先輩後輩たちのグループ)の中心メンバーである渡辺雅人さん(「非営利」という原則のもと、彼は幼馴染である「正彦」のために、純粋に活動を続けてきました)、「Fujifabric International Fan Site」の主催者で、彼の作品を翻訳し海外に発信している杉山麻衣さん(彼女がこの3年間自身のサイトで、翻訳をはじめ、地元での様々な動きを丁寧に粘り強く伝えてきたことをご存知の方は多いでしょう。今回の放送を機に彼女もブログで実名を公開されたので、ここでも実名で記させていただきます)、地域の高校で彼の作品を授業の教材にする試みをしていることから、私が出演させていただくことになった。
 富士吉田から甲府、山梨、日本そして世界へという場の広がり、行政・インターネット・教育という分野の展開、という視点を担当ディレクターが重視したからである。私たちもそのような視点に共感し、番組作りに協力させていただき、あのような構成となった。

 貴重なものとしては、自分の作詞の方法について述べた録音(2009年12月14日、亡くなる十日前に収録されたもので、関係者の特別な配慮により放送された)に残された彼の元気そうな声が、ファンにとって思いがけない大切な贈り物となっただろう。
 最後に、『茜色の夕日』のチャイム、新倉浅間神社で開催された「志村正彦を謳う会」、フランスから来た男の子による『タイムマシーン』の演奏シーン、あの場に集まった志村正彦を愛する人々の様子に焦点を当てて、志村正彦の歌が今も確かに人々の心の中で生き続けていることを伝えていた。担当ディレクター、出演者、そしてあの場にいたすべての人々の想いがあの番組には凝縮されていて、視聴した人々の記憶に残る番組となったと考えている。

  全国放送された「総合版」を視聴された方は、このような趣旨と経緯によって、今回の番組はあのような構成と内容になったことを御理解いただきたいと思います。(担当ディレクターを代弁するような言い方で申し訳ありませんが、出演者の立場からしてもそのように考えています) 今回の番組を契機にして、志村正彦に関するより本格的な番組を、時間を長くして、より多くの人に取材し、より多くの音楽や映像や資料を使って、制作し放送されることを、私自身が強く望んでいます。そして、そのように望む皆が、一人ひとり各自の声を届けていけばよいと考えています。

付記
 この《偶景web》は表現者としての私の場であるので、これまであえて、本職である教師の仕事については触れませんでした。この二つの立場は相互に独立してあるべきだ、というのが私の基本姿勢です。(もちろん、一人の同じ人間ですので重なってしまうことも時にはあるかもしれませんが、そのことには自覚的でありたいと考えています)
 教師としては、ここ2年半ほど、勤め先の高校の「小論文」という科目を中心に「志村正彦の歌について書き、語り合う」授業を実践してきました。ただし、このブログで書いているような私自身の解釈を授業で生徒に伝えることはしていません。そのような行為は、生徒が志村正彦の歌に向き合うことの妨げになるからです。生徒は、教師から受け取る先入観のない状態で、自由に素直に、彼の歌そして彼の歌を聴いている自分自身に向き合い、感じ、考えたことを書く。そして生徒同士で語りあう。これが私の授業の原則です。その結果、生徒は皆、私の予想を超えて、深い感受性と高い分析力を発揮し、すばらしい文を書きました。私自身、志村正彦の作品が十代の若者に与える力の大きさと、多様な解釈を生み出す豊かさと深さを実感しました。
 この試みが2011年6月に「山梨日日新聞」で沢登雄太記者によって紹介され、その記事がきっかけとなって、その年の12月の「志村正彦展 路地裏の僕たち」で生徒および私の文章がパネルとして展示されました。このときに、まったく思いがけなく、志村さんの御家族との出会いがありました。生徒の文を丁寧に読んでいただいたことを知り、とても感激し、このような授業をする上での励ましともなりました。また、杉山さんとも知り合うことができ、このようなブログを始める勇気をいただきました。
 ですから振り返ってみると、あの授業を始めたからこそ、かけがえのない出会いがあり、この《偶景web》の「志村正彦ライナーノーツ」が存在していることは確かです。

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