昨夜、夜10時過ぎに車で帰宅途中のことだった。たまたまFM-FUJIをつけていたのだが、突然、「メレンゲ」という言葉が聞こえてきた。3人がシングルCD『クレーター』のプロモーションで番組に出演していたのだ(FM-FUJIの本社は甲府にあるのだが、この収録は東京で行われたようだ)。トークと『クレーター』と『Ladybird』の2曲を聴くことができたが、車中だったので、曲の雰囲気を味わうことが精一杯だった。そうして、明日21日が『クレーター』の発売日だったことに気づいた。早速、AMAZONのお急ぎ便で、日比谷野音ライヴのDVD付の初回生産限定盤『クレーター』を注文した。今夜この作品を聴き、考えるところがあったので、今回はそれを書いてみたい。
メレンゲ、クボケンジの作詞作曲の歌、言葉の何処かに、「志村正彦」の痕跡を求めてしまう、ということが志村正彦のファンの自然な所作になっているのかもしれない。私もそのような一人である。しかし、そのようなあり方は聴き手の身勝手な欲望のような気がしないでもない。抑制しなくてはという気持ちもある。クボケンジがいつもそのような聴き手の欲望に晒されていることは、一つの束縛になってしまうかもしれないからだ。
そのようなことを考えながら、CDとDVDがパッケージされた『クレーター』を開けると、歌詞カードのクレジットの「special thanks to 」の第1行目に、「Masahiko Shimura, Akito Katayose」とあった。クボケンジと志村正彦そして片寄明人、この3人の絆、トライアングルは強固だということを今回も確認することができた。先ほど書いた聴き手の欲望の問題など、クボケンジは「強がりと本音」(歌詞の一節にある言葉)で軽々と克服して、もっと遠い空間にまでたどりついているのかもしれない、そんなことを考えさせられた。
『クレーター』を聴き始める。冒頭の「詰め込んだ分だけ重くなるカバン」という言葉を聞いた瞬間、志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』のあるコメントにワープしてしまった。
かばんが重いのは、夢が詰まってますから。僕は昔から言っているのですけど、かばんの荷物が少ないやつは夢が少ないっていう。氣志團の團長だっていつもすごい荷物持っていたし、某女性アーティストもすごい荷物持っていたし。だから、フロントマンというか、いろんなものを背負っている人は荷物が多いんだと思います。(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』224頁)
そして、志村正彦が持っていた大きな重いカバンについてのある挿話を実際に語ってくれたある人の言葉も浮かんできた。
志村正彦の痕跡を探してしまう、そのような行為を意識的に行うというより、自然にほとんど瞬間的に、関連する彼の言葉を想起してしまう。これはすでに無意識的な欲望になっているのかとも考えてしまったが、このことはもう少し考えていきたい。
『クレーター』に戻る。クボケンジは「カバン」について第2ブロックで次のように歌う。
詰め込んだ分だけ重くなるカバン
果たして持って歩けるモノなのか?
あきらめた分だけ軽くなるはず
なのに何故だ 前よりしんどいな
あきらめた分だけ軽くなるはずのカバン。しかし何故か、歌の主体は「前よりしんどい」と感じる。この隠喩が何を語っているのか。一人ひとりの聴き手の解釈が待たれる。
自分の欲望にも向き合いながら、歌の言葉にも向き合う。そんなことを考えてしまった。
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