ページ

2013年8月26日月曜日

メレンゲ『Ladybird』 (志村正彦LN 46)

 前回「クレーター」について書いた後、PCやオーディオセットで何度も聴いたが、大音量の方が曲の本質が伝わる曲だ。「すべて欲しがって そこに星があって」の「ホシガ ッテ」「ホシガアッテ」の微妙なずれを含む音韻の反復、「すべて」「そこに」の照応など、クボケンジは巧みに美しく言葉を操っている。宇宙への欲望とでも言うことになるだろうが、アニメ『宇宙兄弟』のオープニングテーマという条件の下で、依頼されたテーマと自分自身のモチーフをなめらかに融合できるところに、音楽家としての確実な成長が見られる。

 21日深夜、テレビ東京『ロック兄弟』のインタビューでは、「メレンゲっていうものの考え方は、自分、僕自身のストーリーなんだろうなあとも思っているんで」「いつも課題にしているのは、やっぱり前作った曲より良い曲をというのがいつも自分の中では課せられるし」と述べていた。そして、「宇宙」という言葉は以前の曲にもけっこう多く、「遠くにあるものが好き」だと語っていた。クボは「もっと遠くまで」(『ビスケット』)たどりつこうとすると同時に、無限の遠方、彼方から自分を見つめ直すストーリーを追いかけているようだ。

 シングルの2曲目『Ladybird』は複雑な歌詞を持つ。

   明け方の道
   散らかってるゴミ
   どうせ誰かが片付けるのだろう

 この3行からなる節を前後の枠にした上で、その枠組の内部に、ある恋愛の終わりの物語を配置している。クボがtwitterで「僕の渾身の情けない大人のラブソングです。。。不倫を助長しているわけではないのですが。。。」と呟いたことが、解釈の方向を与えている。枠内にある物語は、短編小説の場面を抜粋したように描かれていて、聴き手は断片的な像しかつかめないが、逆に、断片を自分でつなぎあわせて物語を作っていくことができる、とも考えられる。

 それにしても前後の枠の部分が耳にこびりつく。早朝、路上に散乱しているゴミを見た時の経験を思い返してみる。そのゴミの方から見つめられているような、何だか居たたまれないような、罪深いような想いに捉えられたことがある。そのゴミは自分とは無関係なのだが、関係がないとは言えないような、むしろ関係があるかのような、不思議な痛みと自己嫌悪のような感覚と共に。

 『Ladybird』の歌の主体「僕」も、「明け方の道 散らかってるゴミ」を見つめているのだが、逆に、そこに散乱している「廃棄されたもの」の側から見つめ直されているように感じたのではないだろうか。そのような眼差しの逆転から、「僕」の眼前にはどのような光景が広がっているのか。都市の早朝。捨てられた恋、失われた愛、廃棄された欲望。それらもやがて他者の手によって片付けられ、回収される。そのようにして、他者から他者へとゆだねられる。恋愛も欲望も循環する。独りよがりの解釈だろうが、そんな光景が浮かんできた。

  もうこれ以上先はすすめない すべてに意味を持ってしまう
  終わりを告げる夜明け 黒いセダン 黒いセダン

 「すべてに意味を持ってしまう」、これはクボケンジの詩の世界と方法の鍵となるような言葉だ。
  歌い手も聴き手も、「すべてに意味を持ってしまう」振る舞いから逃れられない、というか、それを求めてしまう。私たちもクボの歌に「志村正彦」という意味を見いだしてしまう。もちろん、どのような意味を見いだしたとしても、その見いだし方は聴き手の個々の自由だ。「志村正彦」という意味を見いだしても見いださなくても、そのような自由をクボケンジの歌は織り込んでいる。そうであるならむしろ、クボと志村正彦との対話は深まっていると言える。
 時は「終わりを告げる夜明け」から「明け方の道」へと流れ、「黒いセダン」(この言葉は最も謎めいている)と共に、「君」は「君の帰り待ってる僕の知らない所」へと帰っていく。断片的であるゆえに妙に喚起的である物語が終わる。

 最後に、2つの新曲、DVDの3曲のライブを通じて、メンバーのタケシタツヨシ、ヤマザキタケシ、サポートの大村達身、皆川真人による演奏の調和と抑制がとれた美しさに感嘆したことを付言したい。「歌」を大切にした上で、この水準のバンドアンサンブルを維持できるバンドはなかなか無いだろう。『バンドワゴン』のフィナーレは、あの『ビスケット』のイントロに続いていた。あの素晴らしいリズムを聴くと、メレンゲ『星めぐりの夜 in 日比谷野外音楽堂』完全版DVDへの欲望が高まる。リリースを切に願う。

0 件のコメント:

コメントを投稿