11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

10月1日から申込の受付を開始します。 右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月15日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2015年5月31日日曜日

キングサリの時間

 
 四月末のことになる。キングサリの花がようやく咲きはじめた。

 二年前の春、園芸店で探し、小さな苗木を見つけた。家人が鉢植えでしばらく育てたが、一度枯れそうになって、庭に植え替えた。一年すると枝は育っていったが、花を咲かせることはなかった。いつか咲くのか、それとも、一度枯れそうになってしまったので咲くことはないのか。待ち遠しいような、心配のような、幾分か諦めも混じる気持ちで、時折眺めていた。

 春の始まりの頃、葉に勢いがあるのに気づいた。今年はもしかするとと期待していると、四月の中旬頃から徐々に、蕾がふくらみはじめた。蕾そのものが花として開かれるのを待つ。それを眺めている私たちも待つ。

 一週間程経って、黄色い、可憐で小さい花々が咲きはじめた。
 蝶々のような形状の花弁。一つ一つは小さいが、それが集まり、たくさんの束となって黄色い鎖をつくる。朝の日差しをあびて、房のようにたわわになり、地面の方へ垂れさがる姿。視覚だけでなく、聴覚も刺激される。打楽器の小刻みなやわらかい音のように、黄色の花の粒々が戯れている。


朝のキングサリ


 亡き父が好きな花だった。庭木として植えられていたが、三年前、庭を作り直す必要に迫られた際、大きくなりすぎて植え替えるのも難しいゆえ、しかたなく伐採した。その代わりに、新しい苗木を植えて、時を待った。今年、キングサリの花に再会することができた。年を超える時の中で花を待つ、という初めての経験をした。

 調べると、キングサリの花言葉は「哀愁の美」、「儚い美」「淋しい美」、「哀調を持った美しさ」らしい。

 朝日をあびるキングサリの黄色は明るい華やかな美にあふれている。夕方になり、周囲の色合いが落ちついてくると、そこはかとなく、黄色が沈んでくる。花言葉のように、幾分か、儚いような淋しいような色調に見えてくる。夕方のキングサリは、自らの花の房の量感をもてあましながら、とりとめもなく、想いにふけっているようだ。朝と異なり、弦楽器の奏でるメロディ、「哀調」を帯びてはいるが、起伏の少ない抑制のとれた旋律がふさわしい。


   どうしたものか 部屋の窓ごしに

   つぼみ開こうか迷う花 見ていた     (志村正彦作詞作曲 『花』)

 
 志村正彦、フジファブリックの『花』をこのところ最もよく聴いている。

 「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」。この眼差しが志村正彦そのものである。そして、「つぼみ開こうか迷う」というのは彼でしか成しえない表現であろう。

 彼がこのとき見ていた花が何の花か、路地の花か鉢植えの花か、何もかも分からない。彼の心のありかも分からない。
 しかし、彼が、「つぼみ開こうか迷う」花の時間、蕾から開花へと至る時間そのものを慈しんでいることだけは分かるような気がする。ほんとうは分かってはいけないのかもしれないが、分かりたいという心持ちになる。

2015年5月28日木曜日

「がんばる甲州人」のオープニング映像 [志村正彦LN106]

 二週間ほど前になるだろうか。NHK甲府、夜6時台のローカルニュース「まるごと山梨」を見ていた。偶々、火曜日だった。この曜日には時々、「がんばる甲州人」(一昨年の夏、志村正彦を取りあげたことがある)シリーズが放送される。そんなことをぼんやりと意識していたところ、オープニング映像が始まった。

 記憶にある以前のものとは違っていたので画面に視線が止まった。4月からキャスターも交代したので新しいものに変わったのだろうか。過去に取材した素材をつなぎ合わせたタイトルバックの映像がメロディと共に終わろうとする頃、一瞬、志村正彦が歌う映像が流れた。驚いた。彼の像が消えると共に、「がんばる甲州人」のタイトル文字が浮かび上がった。

 一昨日の火曜日、「がんばる甲州人」の放送が予告されていたので、確認するために録画しておいた。やはり、志村正彦の歌う姿がテレビ画面に一瞬(というか、一瞬にもう一瞬を重ねたくらいの間だったが)ではあるが映し出されていた。あの特徴あるシャツは、富士吉田ライブでのものだろう。

 フジファブリックの富士吉田市民会館のライブ素材を使ってオープニング映像が作成された。しかも、「がんばる甲州人」の代表としての扱いだ。事態がそのように了解できた。彼はもちろん、「甲州人」などという狭い枠組みに収まるはずもない存在なのだのが、それでも、こうして地元番組に繰り返し登場するのは、一人のファンとして、とても嬉しい。

 彼の名は示されてはいない。視聴者の大半は、この歌う若者が誰であるのかは知らないだろう。(残念ながら、山梨では彼の知名度はそう高くない。辛うじて名は知っていても、名と顔が結びつく人は少ないだろう)
 それでもいい。 「志村正彦」という固有名を離れても、彼の像がこのようにして茶の間の人々の「まなざし」に届いている。有り難い。
 その出来事、その偶景から、一瞬の、ほのかなものではあるが、何か力のようなものが与えられた。

 一昨日は偶然、『郡内織の傘にかける』というテーマ。郡内織というのは富士吉田や西桂町を中心とする郡内地域の織物を指す。その若き経営者、がんばる甲州人を取材した番組だった。地場の産業にとっては厳しい時代だが、郡内織の歴史が途絶えることのないように頑張っている方々がいる。心から声援を送りたい。(私も最近は、「ふじやま織」のロゴのネクタイ、赤と銀の格子模様、青色の縦線のグラデーション、その二本がとても気に入っている。色合と柄が微妙に和風で微妙にモダン、生地も軽やかなのがいい。)

 志村正彦の映像がいつまで使われるのかは分からない。このところは隔週で放送されているようだが、NHK甲府火曜日の「がんばる甲州人」をこれから注意して見てみたい。


[付記]
この記事は当初は[偶景]シリーズに分類しましたが、その内容から、[志村正彦LN106]に変更させていただきました。

2015年5月24日日曜日

二年の月日を超えて [諸記]

 
  「志村正彦ライナーノーツ[LN]」は、十回に及ぶ武道館ライブのエッセイの連載中に百回を超えた。2012年3月から今日までおよそ二年の間にこの回数となり、ページビューも十万回に達することができた。
 もともと志村正彦を巡る出来事、ある種の《偶景》を契機に書き始めることになった。出来事で区切るのなら、2012年12月の富士吉田での同級生による志村正彦展と『若者のすべて』チャイムから、2014年11月のフジファブリック武道館ライブまでの二年間となる。その間、2013年の夏の『茜色の夕日』チャイムやそれを巡るNHKの番組、2014年夏の甲府での志村正彦展もあった。
 この二年という時間は非常に濃縮されたものであり、それらの経験を通じて感じたこと考えたことがこのblogの原動力となった。
 そのような凝縮された「季節」もある転機を迎えているような気が今している。


 武道館ライブをめぐる批評、「声」から描きだされ、「月」で閉じられたエッセイの歩みは、志村正彦は彼の遺した音源の中に「作品」として存在している、という当然で自然であり、自明で明確な地平に辿りついた。だからこそ、今後は、音源の声と言葉にさらに焦点を当てて、読むこと、聴くことを深めていきたい。
 「志村正彦LN」は、 漠然とではあるが、少なくともあと二百回ほどは書くべきことがある予感がしている。その航路もほのかには見えている。時間との闘いになるが、これからも書き続けていきたい。

 最近は掲載の間隔が以前より空いてしまっている。納得のいくものとなるまで(とりあえずの納得ではあるのだが)、非才ゆえに時間がかかってしまう。武道館ライブについて断続的だが半年を要した。この間、少しだけでも記しておきたい他の事柄があったが、時機を逸してしまった。遡って書くこともできるのではあるが、逸してしまったものをどうするかという課題が浮上してきた。
 その解決策として、これからは、断片的なもの、相対的に短いものも、随時、書きとめていくようにしたい。「私」を一つの「まなざし」として設定し、その「私」の前で通り過ぎていくいくものを「声」として語る短い文となるだろう。《偶景》スタイルの短文エッセイ。ある意味では「twitter」に近いものかもしれないが、字数はより長いものとならざるをえない。

 このblogは今後、二つの様式のテクスト、「志村正彦LN」を中心とする批評的エッセイ(その全体としても部分としても「連載」となる)と、《偶景》風の短文エッセイとを、ファブリックのように織り交ぜて進んでいく。対象となる作品や出来事、テーマやモチーフもより多様なものとなるだろう。

2015年5月18日月曜日

月-フジファブリック武道館LIVE10 [志村正彦LN105]

 昨年11月末のフジファブリック武道館ライブから半年近く経つ。その翌日から書き始めたこのライブに関するエッセイも断続的に続いてきたが、今回で終了としたい。

 第1回目で、志村正彦の声の音源による『茜色の夕日』を聴いた経験を、彼が「《声》という純粋な存在になった」という言葉に集約させた。そして、「聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる」と結んだが、その時にあらかじめ分かっていたわけではないが、その後、このエッセイは結局、志村正彦の《声》を巡る文となっていった。あの武道館の巨大な空間に満ちあふれたあの《声》に導かれるようにして、行きつ戻りつ巡回しながら、同じことを繰り返し、視点を少し ずつ変えながら書いていった。錯綜や矛盾があるかもしれないが、そのようにしか書き進められなかった。

 書いているうちに確かなものとなってきたモチーフもある。現在のフジファブリックをどう捉えるか、というものだ。このライナーノーツでいつか書こうと準備してはいたのだが、難しい主題ではあった。いまだに、現在のフジファブリックについての議論(消極的あるいは懐疑的な評価にせよ積極的な評価にせよ)が共存している状況下で、単純な否定論や肯定論を超えるような視座がないかと模索してきた。考えあぐねていたというのが正直なところだが、武道館での『卒業』の歌と映像によって、ある考えの枠組みが浮かんできた。それと共に言葉が動いていった。

 志村正彦の音源の《声》が自らの作品『茜色の夕日』を、山内総一郎の《声》が志村の作品『若者のすべて』を、続いて、山内が自作の『卒業』を歌う。この三曲の《声》の主体と歌の作者の組合せの変化が、このメジャデビューから十年という時を、象徴的にそしてある意味では儀式的に、表していた。『卒業』の歌詞の分析によって、現在のフジファブリックの「位置」、志村正彦との関わり方の「方位」を測定することができた。
 そのことと同時に、志村在籍時のフジファブリックに焦点を変えてみるのなら、現在のフジファブリックの歌と演奏から逆説的に、志村正彦の歌と楽曲、《言葉》と《声》のかけがえのなさ、独自性と創造性が、一つの「経験」として強く迫ってきた、ということに尽きる。

 武道館という「トポス」ゆえに、ロックの聴き手としての私の個人史も差しはさんだ。(トポスとはギリシア語で「場所」を意味し、転じて、特定の「場」に関係づけられるテーマやモチーフ、それらの表現を指す)
 武道館というトポスは、70年代以降の「来日」洋楽ロックや80年代以降の邦楽ロックに関わる様々な記憶と結びつく。1973年のマウンテンから2014年のフジファブリックまで、40年を超える年月が流れている。密度の濃淡はあっても、この間、欧米と日本のロックを聴き続けてきたわけだ。
 PA技術の進化によって、武道館の音が以 前に比べてはるかにクリアになったことに驚かされた。(昔は「悪い」という定評があったのだが、「良い」とは言えないにしても「悪くはない」水準にはなっている) 志村正彦の歌の音源とメンバーの楽器演奏によるリアルタイムの「合奏」も、この技術の進化によって実現したのだろう。収容人数からするとコンパクトな座席とその配置も一体感を醸し出していた。(昨日、5月17日付の朝日新聞「文化の扉」欄に偶然「はじめての武道館」と題する記事が掲載されていた。この「トポス」についてはいつか再び書いてみたい)
 また、一連の記事について何人かの方にTwitterで触れていただいた。感謝を申し上げます。


 あの日は、甲府への帰途につかねばならない都合があり、アンコ ールの途中で武道館を後にした。背後から大音量の演奏と観客の拍手の音が漏れてくるが、一歩一歩階段を下りると、音は少しずつ遠ざかっていく。
 外はすっかり夜の時を刻んでいる。十一月末の冷たい空気が、直前まで身にまとっていた熱気を冷ましてくれる。十周年を祝う祝祭の時と場に別れを告げると、奇妙に静かな風景が広がっていた。
 前方に広がる公園の樹木の陰、その暗がりの上方を見ると、三日月よりやや大きな月が現れている。雲間からこぼれるようにかすかな光が差しこむ。淡い穏やかな光だった。


 志村正彦の月。瞬間、その言葉が浮かんできた。

 彼の歌には「月」がしばしば登場する。

 2014年初冬の武道館。
 現在のフジファブリックと数千人の観客。
 その熱狂を静かに淡く照り返す月光。

 不在の志村正彦が月の光となり、私たちを見つめているかのようだった。

2015年5月4日月曜日

歌い手と言葉-フジファブリック武道館LIVE9[志村正彦LN104]

 『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]のスリーブには、次のようなクレジットがある。

  vocal/guitar:山内総一郎
  keyboards:金澤ダイスケ
  bass:加藤慎一
  vocal:志村正彦

  guitar:名越由貴夫
  drums:BOBO

 この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
 二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。

 これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。

 この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
 あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
 何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。

 さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
 歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
 厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。


   あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
   英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
       
   またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   残像が胸を締めつける                                  (『陽炎』)


 「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。

 今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
 しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。

 しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
 四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
 すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。

 少し視野を広げてみたい。
 例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
 志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。

 志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
 自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。

 どうしてなのだろ う。

 志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。

    (この項続く)

2015年4月21日火曜日

日曜日の昼の「ココロネコ」

 一昨日の日曜日。昼、県立図書館から甲府駅の北口へと歩いていた時のことだった。(この界隈に来ると、昨年の「ロックの詩人 志村正彦展」のことを想い出す)

 この日は、月一度の「甲府空中市ソライチ」の日。焼き菓子の店やいろいろな店が並んでいた。
 駅構内に入ると、ロック風のサウンドが聞こえてきた。音の方向には4人編成のバンド。アコースティック楽器を奏でている。CDを売っていた棚を見ると、「ココロネコ」とあった。

 ココロネコ?偶然の遭遇だった。

 地元メディアで紹介されていたので記憶にある名。確か、山梨県立大の学生が結成したバンドで、最近、インストアライブもやった。知っていることはそれだけだったが、ココロネコというありそうでなさそうな名は面白い。少しだけ時間があったので、2曲ほど聴いた。

 ヴォーカルとコーラスのハーモニーがなかなか美しい。声はやや線が細いが、のびやかに広がっていく。演奏にもインディーズレベルの確かな技術がある。
 声と音の透明な感触とその広がりがこのバンドの可能性を感じさせた。

 その場で『リフレイン』というミニアルバムを購入、帰宅後視聴した。
若者の内面を素直に吐露した歌詞は、変に言葉をこねくり回すこともなく、好感が持てる。かっこつけることもなく、ひねくれてもいないが、まだまだありふれた言葉が多い。しかし、次の一節には、作り手が自分の言葉を探りあてつつある予感がある。

  この街の夢も希望も明日も何もかも
  一つも君を裏切ること無く、そこにあってほしい
  それ以上はもういらないんだ      (『この街の』)

 「一つも君を裏切ること無く」と一度区切られ、「そこにあってほしい」と記された願望はみずみずしい。あえて言うなら、「この街の」というモチーフの中心にある、「この」の指し示す像を何らかの言葉で表すことができれば、この歌はもっと聴き手に届くのではないだろうか。
 [ ココロネコ / この街の MusicVideo ショートバージョン    https://www.youtube.com/watch?v=JYjn6F8Ts9A がネットにある ]

 卒業後もバンドを続けているようだが、引用した歌詞の一節をもじるならば、彼らの言葉が「そこにあってほしい」。ロックは言葉だと考えるからだ。
 

 偶々、街で、山梨発のロック、ココロネコに出会う。
 日曜日の昼の偶景のような出来事を記した。

2015年4月12日日曜日

出来事と再現-フジファブリック武道館LIVE8 [志村正彦LN103]

 注文した『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]が届いた。
 初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
 大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。

 リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
 オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。

 時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
 斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
 あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
 現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。

 『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
 こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
 茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
 しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。

 《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
 《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。

 武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
 

 その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
 

 (この項続く)

2015年3月31日火曜日

回想と連想-フジファブリック武道館LIVE7 [志村正彦LN102]

  ライブに出かけるという行為は、日々の暮らしの中の特別な出来事としてある。また、聴き手としての生きる過程、音楽を聴くという歴史の中での重要な結節点ともなる。フジファブリック武道館ライブによって浮かんできたある回想と連想を今回は記したい。

 回想モードで始めたい。
 あの日は、渋谷のユーロスペースで『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』(監督・杉本信昭)、 神保町の岩波ホールで『ミンヨン 倍音の法則』(監督・佐々木昭一郎)と、映画を二本はしごして見てから武道館に向かった。地方在住者の「上京」の一日は密度が濃くなる。二つの映画ともに、「詩」と「物語」について深い問いかけを持つ作品だった。

 神保町の古書店街を通り抜けて、九段下へ。北の丸公園へと上っていく道を歩いていると、初めてこの地を訪れた日のことを思い出していた。

 1973年の夏のことだ。四十年を超える時を遡ることになる。
 当時、私は14歳、中学3年生だった。電車で甲府から新宿へ、高田馬場で地下鉄に乗り換えて九段下へ。田舎に住む少年にとって初めて乗る地下鉄のゴーゴーとうなる響きは、ハードロックのようだった。喧しい音が今も耳の記憶に残っている。東京に住むようになると、その音にも慣れたが、地下鉄の音は東京の音の象徴のような気がしていた。

 マウンテンの武道館ライブだった。フェリックス・パッパラルディのベース、レズリー・ウェストのギター(志村正彦は「志村日記」の一節で彼の名をあげている)を中心とする米国のヘヴィーロックバンドだった(マウンテンの場合、「ハードロック」というよりも、語の本来の意味での「へヴィーロック」という名がふさわしい)。現在ではほぼ忘れられたバンドだが、70年代初頭は英米ともに特にこの日本でかなりの人気があり、優れた音楽性と文学の香りのする歌詞が高く評価されていた。(このライブから十年も経たない1983年にパッパラルディは悲劇的な事件で亡くなった。彼についてはある出来事が想い出としてあるので、いつかここに記したい)

 私にとって人生初めてのロックのライブは、この武道館でのマウンテンとなる。だから、武道館という場はライブの原点としてありつづけた。当時のロックコンサートはほぼ洋楽の「外タレ」(来日する外国のミュージシャンを指す言葉。今では死語だが、当時はよく使われていた)による大規模なものだった。日本語ロックはまだ少数派の音楽にすぎなかった。ライブハウスという場もごく少なかった。日常的にロックのライブを経験できる場はまだほとんどない時代だった。
 その後、ボブ・ディランやロキシー・ミュージックの武道館ライブが印象に残った。1994年のピーター・ガブリエルの素晴らしいライブを武道館で見て以来、長い空白があって、この日のフジファブリックとなった。

 武道館でのライブを想い出すにつれて、様々な記憶が独楽のように回り出した。

 私が最も好きな英米のロックバンドは、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスだ。それは昔も今も変わらない。ピーター・ガブリエルは1975年ジェネシスを脱退した。それ以来、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスのライブは見果てぬ夢、不可能な夢となった。

 1978年11月中野サンプラザで、ジェネシスの初来日コンサートを見ることができた。すでにピーター・ガブリエルの後継者として、フィル・コリンズがボーカルを担い、フロントマンになっていた。
 ピーター・ガブリエルの幻影を追いかけていたファンにとって(私もその一人だった)、彼のいないジェネシスはやはりジェネシスではない、という確信が強まったライブでもあった。

 フィル・コリンズがピーターガブリエルの作品を歌った。演奏は紛れもなくジェネシス。トニー・バンクスのキーボード、マイク・ラザーフォードのベース、そしてフィル・コリンズのドラムは、繊細で華麗、劇的で内省的な音を奏でていた。生で彼らの音に接する。それは幸せな経験だったが、どこか満ち足りない思いが残った。やはり、 ピーター・ガブリエルが、彼の声が、彼の声で歌われる言葉がそこには無かった。
 言うまでもなく、「フィル・コリンズのジェネシス」も素晴らしいバンドではあるのだが、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」とは本質的なというか決定的な違いがあった。

 「ピーター・ガブリエルのジェネシス」に出会うことは不可能になったが、その後、「ピーター・ガブリエル」のソロを経験することはできた。先に述べたように、1994年3月、「SECRET WORLD TOUR」の一環として初の単独来日公演が武道館で開かれた。武道館のピーター・ガブリエルは幻影ではなく、実在していた。彼の歌と言葉があの場に実在していた。

 武道館のフジファブリックは、プログレッシブロックの風味といい、レーザー光線を使った照明といい、少しレトロだがポップでもある音の感触といい、いつのまにか、記憶の残像にある「フィル・コリンズのジェネシス」と重なっていった。

 私の「感覚」そして「記憶」からすると、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」と「フィル・コリンズのジェネシス」との差異は、「志村正彦のフジファブリック」と「山内総一郎のフジファブリック」との差異と、ほとんど同型のものとなっていた。
 ピーター・ガブリエルは自らの意志で脱退することで、志村正彦は不帰の人となることで、バンドのボーカル・フロントマンが交代したという現実の出来事は異なるのだが、音楽そのものの変化、バンドの編成やプロモーションの方法の変容が構造的に同型のような気がする。

 「山内総一郎のフジファブリック」となった現在のフジファブリックを、「志村正彦在籍時のフジファブリック」とことさらに比較したいわけではない。価値や評価の問題でもない。
 音楽の好みは結局の所「感覚」や「記憶」の問題であり、それは自由だ。「感覚」や「記憶」は自由に連鎖していく。時の流れの中で複雑に絡まり合う。(それでも、ジェネシスとフジファブリックなどという対比は唐突に感じられるだろうから、この対比を「論」として示すことをいつか試みたい)

 回りくどく突飛でとりとめもない文になってしまった。
 武道館という場に関わる一人の聴き手としての回想と連想を綴りたかった。

    (この項続く)

2015年3月15日日曜日

『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』、静岡県立美術館で。

 2月中旬、静岡県立美術館で『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/06.php ]を見てきた。
 
 行きは、高速乗合バス「甲府-静岡線」を初めて使った。高速といっても、中部横断道がまだ全線開通していないので、甲府近郊からわずかばかりの高速を経てからは国道52号線の一般道をひたすら南下していく。静岡との県境を越えてしばらくすると、新東名高速に入る。
 山沿いの道から時々海が見えると心が少したかぶる。海のない山梨県人は、海を見ることに慣れるということがおそらくない。途中休憩を挟んで3時間で静岡駅前に到着。車内はたまたまかもしれないが3列シートで広々、運賃が2,550円と安いことも助かる。(自分で車を運転すれば、2時間半程だろうか。新東名のおかげで以前より短くなった。数年後、清水までの中部横断道が開通すれば、1時間半ほどに短縮されるだろう。静岡が近くなることが待ち遠しい)

 静岡駅前から路線バスに乗り、昼前に美術館に到着。「日本平」の小高い丘にあるこの館には何度か来たことがあるのだが、相変わらず落ちついた佇まいだ。眺望も良い。
 観覧前、館内のレストラン「エスタ」で「石田徹也展特別料理」のランチをいただく。彼の「故郷、焼津や、ここ静岡の食材を、ふんだんに使用」と紹介されていたコース料理はとても美味しかった。食材が山梨よりも豊かでうらやましい。石田徹也の作風とこんなに美味しい料理の取り合わせにはかなりギャップがあるような気もしたのだが、静岡の食文化の作品として堪能することにした。

 午後、企画展室へ入る。

 彼の存在は、2013年9月放送のNHK日曜美術館『聖者のような芸術家になりたい ~夭折の画家・石田徹也~』を見て初めて知った。テレビ映像を通じてではあるが、その作品と彼の言葉に強く惹かれるものがあった。吉野寿(eastern youth / outside yoshino)が登場し、『地球の裏から風が吹く』のジャケット画が石田作品だということにも興味を持った。隣県の静岡に巡回展が来るのは2015年ということもその時に知った。一年半近く待ち、この日、ようやく彼の作品そのものと向き合うことができたのだった。

 石田徹也は1973年静岡の焼津で生まれ、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科に進む。卒業後はアルバイトで働きながら制作を続けるが、2005年事故で不帰の人となった。
 [「石田徹也の世界 飛べなくなった人」石田徹也公式ホームページhttp://www.tetsuyaishida.jp/  参照]

 三十一歳という短い生涯、それにも関わらず遺された作品の数と質。生前からその才能をある程度まで評価されていたが、没後評価が非常に高まったという点において、美術と音楽というジャンルは違えど、どこか、志村正彦の人生と作品の命運に重なるような感じが最初からしていたことも書きとめておきたい。

 会場での印象を簡潔に記したい。
 彼の作品、特に初期のものは、例えば、eastern youthのCDジャケットになったように、ある種のデザイン性、メッセージ性という観点で語られることが多いだろう。描かれている世界の独自性は言うまでもない。また、彼の作品への関心を広げたという点でも肯定されるべきだろう。



石田徹也「兵士」 【eastern youth 『地球の裏から風が吹く』CD】
 

 しかし、静岡の展示室で彼の絵画を直に見ると、描かれている世界と同等かそれ以上に、その入念で執拗ともいえるような描きこみの方に衝撃を受けた。描くことの時間の重なりそのものが、彼の絵画として具現化している。描線と絵具のリズム、その複合的な反復のようなものが彼の作品をきわめて独創的なものにしてる。痛ましい言い方になるが、特に晩年になるにつれて、そのことが際だってくる。

 この日は講堂で、彼の親友の映像作家、平林勇氏による「石田徹也の発想の源をさぐる」という講演を聴くこともできた。平林氏によると、石田のアトリエは6畳ほどで、長辺の方にキャンバスを置き、短辺の方に位置して描いていたそうだ。大きな作品が多かったので必然的に短い距離で、作品に向き合うことになる。あの入念な時間をかけた描き混みは、絵との至近距離からの対話がもたらした。しかも、ほとんどの作品は2週間程度で完成させたそうなので、その集中力と持続力は凄まじい。
 平林氏は、石田が飲み会が終わるとすぐに描くためにアパートに帰ってしまったという挿話も述べてくれた。(志村正彦にも同様の話がある。志村もまた一年のほぼ毎日、音楽を作り続けた。)

 会場の所々に掲げられた彼のノートの言葉で強く記憶に刻まれるものがあった。次の文言だ。

   わたしが不安感にこだわる理由は、現実を見えるようにするためです。

 作者自身の言葉でその作品を説明することは、あまりにあからさまであり、分からないことを分かったような気にもさせるだろう。そのことを戒めながらも、それでもやはり、この言葉は熟読に値する。

 現実は幾層も何かに覆われている。見えるもの、あるいは見るべきものを見えなくするための覆いや装置が完備されている。安心して生きていくためにはその覆いは不可欠である。
 しかし、不安感が先行するのか、見えるようにする意志が先行するのかは明らかでないが、現実を見えるようにするという行為が、ある種の表現者にとって、不可避になることがある。

 不安感と共に、表現という行為が切迫してくる。その行為に追いたてられるようにして、時間がせきたてられる。
 時間が作品の内部に凝縮され、やがて、時間が「現実を見えるようにする」のだろうか。

 石田徹也はどのように時を過ごしたのか。何を見えるようにしたのだろうか。
 とりとめもないことを考えながら、美術館を後にした。
 (3月25日まで開催しているので、近隣の未見の方にはご覧になることをおすすめしたい)

 帰りは、身延線の特急「ふじかわ」に乗った。
 日は没していたので、夕暮れ時までは姿が浮かぶはずの富士山も何も見えない。闇の深い山間を夜汽車に揺られ、甲府へと還っていった。

2015年2月28日土曜日

シーナ&ロケッツ、2014年8月24日甲府の桜座で。

 もう半年ほど前になる。

 去年の8月24日、甲府の桜座でシーナ&ロケッツの《NEW ALBUM 「ROKKET RIDE」発売記念レコ発ライブ!》が行われた。おそらく山梨で初のライブということもあり、桜座に出かけた。感じることや思うことが色々とあり、このblogで取り上げようと用意はしたのだが、時機を逃してしまっていた。シーナさんの突然の訃報を聞いた後で書くのは遅きに失し、また、追悼の流れに乗るようで葛藤もあるのだが、それでもやはり、この機会に書きとめておきたい。

 私はシーナ&ロケッツのファンというわけではない。あくまで「好きな」バンドという位置づけであり、彼らの少し後の世代として同時代を歩んできたというにすぎない。その間、彼らは「気になる」バンドでありつづけた。

 出会いは、ほとんどの人がそうであるように、1979年リリースのシングル『ユー・メイ・ドリーム』そしてアルバム『真空パック』だった。『ユー・メイ・ドリーム』について、例えばwikipediaには、《JALの「マイ・ハート・キャンペーン」のCMに起用され、ブレイクを果たす》とさらりと書かれているが、当時を知るものとして付言すれば、「大ブレイク」だった。テレビで繰り返し繰り返し、あの印象深いサビのフレーズが流れていた。
 日本のロックそのものが、まだまだその存在を知られていない時代だった。

 シーナさんの甘えるようでそれでいてどこか芯のある《声》、鮎川誠の切れの深いギターの《音》、細野晴臣のプロデュースとYMOの協力によるサウンドデザイン。当時は、ロックンロールバンドというよりも、イギリス風の「NEW WAVE」バンドとして受け取られていた。
 女性をメインボーカルとする編成はまだ珍しかった。柴山俊之(サンハウス)による歌詞も当時のロックの歌詞の水準を超えていた。「ユー・メイ」、「YOU MAY」と「夢」の掛詞。日本語と英語のハイブリッドのような歌詞は、洒落ていて、どこか屈折していて、複雑で微妙な感情と感覚に染め上げられていた。

 『ユー・メイ・ドリーム』のサビのクールな盛り上がり、離陸して大空を滑空していくようなメロディやリズムは、80年代のロックの幕開けを告げるようだった。
 80年前後という時は、RCサクセション、YMOがブレイクし、「東京ロッカーズ」、「めんたいロック」などのムーブメントが起こり、日本のロックがより大きなシーンに浮上し始めた時代だった。(私が二十歳の頃のことだ。あの時代の感触をよく覚えている)

 開演十五分ほど前、桜座到着。入りは六十か七十人くらいか。少しさみしい気もしたが、甲府という場ではこの位の人数が精一杯かもしれない。
 予定より遅れてスタート。鮎川さんは、シーナ&ロケッツの長い歴史の中で初めて山梨に「着陸」したと話してくれた。やはり初めてだった。山梨初ライブの会場が桜座。時が折り重なっているような雰囲気のあるこの小屋は、結成37年というキャリアのこのバンドによく似合っていた。

 始まりから数曲は、シーナさんを除いたロケッツ三人、ギター・ボーカルの鮎川誠、ドラムの川嶋一秀、ベースの奈良敏博による歌と演奏。スリーピースによるブルースロックは、重厚なグルーブ感にあふれていた。(あの頃、新宿ロフトで聴いたルースターズのドライブ感を思い出す。「めんたいロック」のビート感には独特のうねりがある。)

 6曲ほど演奏後、「シーナ!」の呼び声と共に、シーナさんの登場。ミニスカートに網タイツというスタイル。「年齢を感じさせない」というよりも、「年齢など考える必要がない」という表現がふさわしい存在感だ。

 新しいアルバム『ROKKET RIDE』の同名の冒頭曲『ROKKET RIDE』が始まる。その後は新収録曲を中心に展開。現在進行形のロックに圧倒された。一度シーナさんがバックステージに戻り、再び登場。あの『レモンティー』そして『ユー・メイ・ドリーム』と続き、アンコールのストーンズ『サティスファクション』で終了した。20曲に及ぶ2時間の熱演だった。

 その時も、そしてこの文を書いている今も、強く印象に残る場面がある。

 終わり近くになって、シーナさんが前の方の客一人ひとりと握手していった。桜座はステージと客席の区別がない。一番前の「畳」の座布団の席から1メートル程の「土間」を隔てた向こう側のエリアが舞台なのだ。言うならば「境界線」がない空間だ。
 素晴らしいパフォーマンスの瞬間、歌い手と聴き手とがある種の「境界」を超えられるような場である。そのことに触発されたこともあるのだろうか。シーナさんは「夢」を持ち続けることの大切さも語ってくれた。そして全身でファンへの感謝を表しているように見えた。

 後ろの方に座っていた私はシーナさんの姿を眺めていただけだったが、その光景に強く心を動かされていた。一人ひとりに握手しながら歌い、言葉を投げかける姿はとても輝いていた。やわらかく優しい表情としなやかで強い意志。あの時、よく分からなかったが、単なるファンサービスではない、特別な何かを感じた。シーナさんは何かを伝えようとしているかのようだった。説明できないのだが、そのことを受けとめていた。

 シーナさんが逝去された今、そのことから遡行して、あのライブに特別な意義を見いだしているのではない。あの日の姿と言葉に過剰な意味づけをするのでもない。
 しかし、あの光景の《像》とシーナさんの《声》は、いつまでも響き続けるだろう。

 桜座のシーナ&ロケッツは、「ロック」を生きていた。

2015年2月23日月曜日

《声》と《再会》-フジファブリック武道館LIVE 6 [志村正彦LN101]

  今日2月23日は富士山の日。そのことに合わせたのかは分からないが、昨夜、日付が変わるとすぐに、「フジファブリック最新情報」メールが届いた。
 「GYAO!にて「フジファブリック 10th anniversary Live at 日本武道館 2014」特別編集版公開開始!」とあったので、早速クリック。深夜の故、オープニング、『桜の季節』『陽炎』と『卒業』だけを見て、今夜、残りを見終わった。

 ところどころに観客の映像が入る。その姿、姿に引き寄せられる。自分のいた位置とは異なるアングルで再体験することで、3ヶ月前の記憶が別の形でよみがえってくる。このエッセイで記憶を頼りにして記した『卒業』の背景映像もほぼその通りだったが、雲の流れと動きがよりダイナミックだったことに気づいた。
  3月15日までの配信(http://gyao.yahoo.co.jp/music-live/player/monthly02/fujifabric)ではあるが、誰もが無料でこの映像を見ることができるのは有り難い。

 ただし、あのライブで最も記憶に刻まれたシーンは欠けている。志村正彦の《声》が歌う『茜色の夕日』だ。もちろん、無料配信ですべてを流す必要はない。このシーンとの《再会》は、4月8日発売の『Live at 日本武道館』まで待つべきなのだろう。

 前回論じた《再会》のモチーフについて、この3週間の間考え続けてきたのだが、なかなか思考が展開できない。考えあぐねているところに、昨夜の映像配信で、あの日の武道館の《声》の感覚が再び強く迫ってきた。この感覚に導かれて、次のような断片が現れてきた。まとまりがないが、それを記してみたい。

 この世界には、すでにその主体が不在であるが、主体の不在を超えて有り続けるもの、残り続けるものが存在する。そのようにして有り続けるものとは、例えば、その不在となった主体がかつて表した言葉である。記憶された言葉。記載された言葉。印刷され、刊行された言葉。言葉は有り続ける。

 歌の場合、言葉だけでなく、《声》そのものが有り続ける。百年以上前から、録音や音盤制作という現代の技術によって、《声》が、その主体の不在を超えて、有り続けている。この《声》の現前は、それ以前とそれ以後で、歌の享受に決定的な変化をもたらした。あたりまえとなっているが、これは不可思議なことでもある。不在の主体の《声》は天使的な響きを持つ。

 さらに今日、映像技術の飛躍によって、不在の主体そのものの《像》が記録され、《像が有り続ける。記録された《言葉》、《声》、《像》。その主体が不在であるにもかかわらず、《言》や《声》や《像》は、主体の不在を超えて存在し続ける。少なくとも、《言》や《声》や《像》の受け手がいる限り。

 モニタやスクリーンの画面上にある《言葉》や《像》は、視覚的なもの、想像的なものとして、私たちに届いている。その経験にはどうしても視覚像という媒体、ある意味で回り道のような余計なものが差し挟まる。

 しかし、《声》は異なる。再現された《声》ではあるが、聴覚像という媒体には還元されることなく、限りなく直接的に、聴覚に入り込む。耳に、身体に届く。《声》は、不在の主体を、あたかもそこで歌っているかのように現前させる。ありのままにありありと。

 あの日の武道館で、演出や演奏やアレンジの次元を超えて、数分という短い時間ではあったが、志村正彦の《声》はその独自の存在のあり方で聴き手に届いた。

  私たちは、《声》の直接性によって、《声》の現前によって、不在の主体と再会することができたのかもしれない。

     (この項続く)

2015年2月2日月曜日

再会-フジファブリック武道館LIVE 5[志村正彦LN100]

 昨年11月28日開催のフジファブリック武道館LIVEから二月ほど経つ。このLIVEについてすでに4回ほど掲載したが、あと数回は書きたいことがあるので、今回から再開したい。

 武道館ライブの『茜色の夕日』『若者のすべて』『卒業』という三曲の流れ、『卒業』の背景の「空」の映像。あの時あの場において、『卒業』の一節「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」の《再会》の相手は、志村正彦その人を指し示していると、前回のLN99で考察した。

 歌詞で歌われる《再会》の相手を特定の人物に限定する必要はない。それは当然の前提だ。
 歌の言葉の中には余白の箇所がある。誰かを何かを指し示す機能しかない人称代名詞はその余白の最たるものだろう。歌い手にとって指し示す対象が明確であったとしても、聴き手にとってはそうではない。逆にそうだからこそ、聴き手はその対象を自由に想像できる余地がある。
 さらに、歌には、歌わないこと、歌えないこと、歌うのが難しいこと、歌うのを避けたいことなどが満ちている。これに関しても人称代名詞と同様のことが当てはまる。

 ある時ある所において、歌い手と聴き手との共同の場において、その現実の文脈の中で、歌の空白が埋められることもある。フジファブリックのデビュー10周年を記念する武道館LIVEは、そのような特別な時、特別な場だった。繰り返しになるが、あの時あの場において、《再会》の相手が志村正彦だということは暗黙の前提だった。たとえそれが無意識的なものであったとしても。
 武道館LIVEは、志村正彦の「成し遂げられなかった10年」を追悼するものでもあった。あのステージの「主役」は現メンバーだが、ステージの「不在の主役」は志村正彦だった。フジファブリックの歴史からすると必然的にそうなる。
 山内総一郎作詞の『卒業』の第2連をあらためて引く。

  ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
  それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう

 「ぼくら」は「薄化粧」の「空」の下で、歩き出す。「それぞれ道を歩けば」という《歩行》を重ねれば、「いつかまた会えるだろう」というと《再会》の時が訪れる。
 その一方で、この《歩行》は、『卒業』という題名と歌詞の全体が示しているように、《卒業》への歩み、「今ここ」という時と場から巣立ち、離れていくことでもある。
 第3連を引く。

  春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
  悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ

 「ぼくら」は、この場から「ぼくらの足跡」を消して行かねばならない。「悲しみ」は雨に流れて行かねばならない。痕跡の消去、感情の消失は、「それぞれ道を歩」くための象徴的行為だ。「いつかまた会えるだろう」という《再会》のための《卒業》は、「ぼくら」がいつか向き合わねばならなかった儀式だ。
 この文章を書いている今、あの武道館LIVEを振り返ると、デビュー10周年を数える2014年という時、武道館というロック音楽における象徴的な場で、フジファブリックの《卒業》の儀式が執りおこなわれたのだという印象が強い。
 現在のフジファブリックにとって、志村正彦との《再会》のための《卒業》は、志村正彦からの《卒業》であり、志村正彦への《卒業》でもある。志村正彦から/への《卒業》という二重性を持つだろう。

 《卒業》は、愛着のある場、慣れ親しんだ場、想い出の時、忘れられない時から離れていくことだ。大切な場、大切な時との別離、ある種の分離だ。その外的な分離が時を経て、心の内面にまで作用していくと、忘れること、《忘却》が訪れる。
 志村正彦には『記念写真』という作品(志村作詞・山内作曲、3rdアルバム『TEENAGER』収録、2008年1月リリース)がある。この歌の背景にあるのは《卒業》という出来事だろう。リフレインされる歌詞を引く。

  記念の写真 撮って 僕らは さよなら
  忘れられたなら その時はまた会える  

 「忘れる」こと、《忘却》の時が訪れること。それができたなら、「その時はまた会える」、《再会》が可能となる。志村正彦は、《忘却》と《再会》という、矛盾めいた予言のような言葉をこの歌詞に込めている。
 さらに時を遡りたい。この『記念写真』には、奥田民生作詞のユニコーン『すばらしい日々』(1993年4月、シングルリリース)が遠く彼方からこだましているように聞こえる。志村正彦が奥田から最も影響を受けたことはよく知られている。この歌もユニコーンの解散という《卒業》が背景となっているようだが、《忘却》と《再会》についての深くて逆説的でもある言葉を、奥田民生は日本語ロックの歌詞の世界に導入した。鍵となる一節を引用する。

  朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける 

 「君は僕を忘れる」、そのような《忘却》の時を経ることで、「君に会いに行ける」、《再会》が果たせる。複雑な感情が込められた《忘却》と《再会》のモチーフは、奥田から志村へと引き継がれた。『記念写真』そのものが志村の奥田に対するオマージュかもしれない。
 武道館LIVEのアンコールで初披露された山内総一郎作詞の『はじまりのうた』には次の一節がある。

  僕ら待つ未来へ歩き出せるなら
  同じ場所をまた見つけられるから
  その時はまた会いにいけるから

 《分離》や《忘却》というモチーフは消えかけているが、「その時はまた会いにいける」という《再会》というモチーフは貫かれている。『はじまりのうた』という題名が示すように、この《再会》は《出発》あるいは《再出発》を背景としている。曲調の明るさからしても、《未来》が志向されている。

 《卒業》という外的な出来事、《忘却》という内的な出来事は、主体とその客体、相手や対象との《分離》を意味している。その《分離》を経た上で《再会》が果たされる。あたかも《分離》が《再会》の条件であるかのように。そのモチーフが、奥田民生・ユニコーン、志村正彦・フジファブリック、そして山内総一郎・現在のフジファブリックとリレーされているかのようだ。意識的なものではなく、多分に無意識的なものかもしれないが。

 私たち志村正彦の聴き手にとって、《分離》と《再会》のモチーフの対象は、当然、志村正彦その人である。彼は『記念写真』の最後の節で「きっとこの写真を 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」と歌っている。私たち聴き手は自由で、ある意味では身勝手でもあるから、この「僕ら」という人称代名詞を、たとえば、聴き手と歌い手との間に結ばれる「僕ら」という共同性を示すものとして拡大解釈してしまうこともあるだろう。聴き手の欲望は際限がないが、歌は自由であり、それを許している。

 それにしても、「僕ら」は何故、「忘れられたなら」、「その時はまた会える」のだろうか。この問いに少しでも近づかなくてはならない。

        (この項続く)