黒板当番・五十嵐哲也氏の『環の国にて』(Life in the Rings of Saturn)は、2025年10月18日、ハタオリマチフェスティバルの初日に刊行された。
僕もこの日に「黒板当番」ブースで五十嵐氏から直接購入した。黒を基本とした色調とマットな手触りの紙質が洒落ていた。A5判のコンパクトな判型の全96頁に、見開きの右側の半分ほどに落ち着いた色調の黒板画の画像、左側に細やかなフォントで濃密な文章が配置されている。この書物自体が「作品」としての質感を有していた。
発行所はMOKUHON PRESS。山梨県韮崎市の本屋YOMUの出版レーベルで、BEEK DESIGNの土屋誠氏が主宰している。印刷所は個性的な本作りで知られる長野県松本市の藤原印刷。MOKUHON PRESSのサイトなどから購入できる。おそらく今年のハタフェスでも販売されることだろう。
『環の国にて』は、第1部「レア」20章、第2部「トコロボ」25章の全45章のストーリーから構成されている。それぞれのシーンが、五十嵐氏が描いて富士山駅のヤマナシハタオリトラベル mill shop で展示した黒板画に基づいている。どのようにしてこの作品を創造していったのか。彼自身による説明をここで紹介したい。
ひとつのSCENEの中では、まず黒板画を描き、完成させ、保存用に一眼レフで撮影し、照明の影響などによる明るさのムラを Photoshopでなくす画像修正作業を行います。それが完成するまでは、一文字も書くことはありません。画像の一連の作業が終わってから、はじめて文章を一気呵成に書き上げます。黒板画を描き、画像処理まで終わらせるあいだに書くべき言葉が頭の中で熟成されるのか、言葉を紡ぐ作業にそれほど多くの時間はかかりませんでした。絵を描くことに没頭することで脳のモードが変わるような感覚もあり、絵が完成してからでなければこれは書けなかっただろう、と何度も思った記憶があります。
〈絵を描くことに没頭することで脳のモードが変わる〉〈絵が完成してからでなければこれは書けなかった〉という文言が興味深い。これが創作の秘訣なのだろう。黒板画のイマージュが物語のテクストを生み出していく。このプロセスによって、五十嵐氏は黒板画と文章、イマージュとテクストを複合して相互に関係づける独創的なスタイルを編み出した。
2018年の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』は、山梨の織物工場で使われていた〈シャットル〉が、宇宙を旅する〈スペースシャットル〉となり、土星の衛星エンケラドスの氷の下の海に住む小さな生き物たち〈トコトコ〉に出会う物語だった。この物語には人は存在しなかった。2025年の『環の国にて』は、〈レア〉という若い女性を登場させ、〈トコロボ〉という不思議なロボットを発見することによって、エンケラドスの〈トコトコ〉と遭遇させる物語である。
地球・山梨と土星・エンケドラスという空間、ハタオリの技術という現実の要素。スペースシャットルの旅とトコトコとの遭遇、人間のレアとロボットのトコロボの交流という空想の要素。現実と空想の二つの要素を織り込んで創られたのが、五十嵐氏のこの二つの物語、「シャットル・サーガ」とでも呼べるシリーズ物語である。
『環の国にて』は、『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』にレアとトコロボという魅力的な人物・キャラクターを加えることによって、SF的な小説へと発展させていった。ストーリー自体はシンプルなのだが、ところどころに多様なモチーフを包み込むことによって、彩りのある豊かな作品になっている。詳細を語ることはネタバレになってしまうので、このブログでは印象深い二つのシーンに限定して二回に分けて述べてみたい。
今回は第1部レアのSCENE 2「千億の宝石の河」の場面である。
主人公のレアは若い女性。地球から遠く離れた土星の環の氷で作られた小さな街の世界〈環の国〉で生まれ育った。学校卒業後は環のフィールド調査チームに参加する予定だが、その前に氷塊を乗りこなす〈スライディング〉の技を使って旅に出る。レアは土星の輪をいろいろな角度から眺めているときに、ある不思議な感覚にとらわれる。この箇所の本文を引用したい。
そこでレアはふと、何かを感じて顔を上げた。誰かが、この環のどこかにいるような気がした。ほんの一瞬だったけれど、気配の残像のような感触が耳元にまとわりついていた。誰もいるはずがないのに、と冴しむよりも、懐かしい、という気持ちが湧き上がってきた。そう、この感覚は久しぶりだ。
レアは何かを感じとる。土星の環のどこかに誰かがいる。その気配だ。その残像の感触はある懐かしさを感じさせる。レアはあることを想起する。
小さなころに好きだった絵本の、環のなかに住む妖精の話。
旅人をびっくりさせたり、助けたりする気まぐれな氷の妖精が、環の氷のなかに身を潜め、誰かが来るのを待っている。そこへそっと気付かれないように通りかかり、こっちが先に妖精を見つけてあげる。そうすると妖精にかけられた魔法が解けて、二人はともだちになるのだ。
レアは小さい頃に環のなかに住む妖精の話の絵本が好きだった。氷の妖精と出会い、二人は友達になる。この絵本のモチーフが『環の国にて』全体の伏線ともなっている。入れ子型の構造でもある。
レアの土星の環の探索は、レアの記憶のなかの世界、無意識の世界への探究でもある。レアは自らの無意識を探るようにして、土星の環、エンケドラスの氷の世界の秘密を明らかにしていく。この冒険の物語が黒板画の繊細な画像と緻密なテクストによって綴られていく。
(この項続く)

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