2025年12月28日日曜日

草稿と完成版の差異-『陽炎』草稿2[志村正彦LN375]


 今回は、片寄明人氏のXの画像に掲載された『陽炎』草稿と『陽炎』完成版の差異について詳細に検討してみたい。

 まず、この草稿では歌詞のブロックごとにAからHまでの記号が振られていることが目につく。歌詞とメロディのブロック単位の区切りを示すのだろう。


 歌詞については表記レベルの違いがいくつかある。草稿の該当箇所に下線を引き、()内に完成版を赤字で記す。

あの街並 思い出した時(とき)に 何故だか浮かんだ

残像が 胸をし()めつける

きっと今では 無くなったものも沢山(たくさん)あるだろう


 語句の微細なレベルでは次の違いがある。

駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持ってく(行こう


 最大の違いは,前回述べた次の書き直しである。

出来事が 僕()をし()めつける  


 この草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、完成版では〈出来事が 胸を締めつける〉となっている。〈僕〉という字が消され、その下に〈胸〉という字が記されている。また、〈しめつける〉も〈締めつける〉と表記されている。

 以上指摘した差異はあるが、全体としてみればこの草稿は完成版の歌詞にかなり近いといえる。この草稿がプロデューサーの片寄明人に保管されていたということからも、この草稿は最終段階のものだったと推定できる。いったん書かれた〈僕〉が二重の×で消され、その下に〈胸〉と記されて、表現が修正されていることからも、最後の段階でこのように書き直されたのではないだろうか。あるいは歌入れの最終段階で修正された可能性もある。


 完成版の〈出来事が 胸を締めつける〉と草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、歌詞の意味の次元でどのように異なるかを考察したい。

 〈出来事が 胸を締めつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈胸〉になる。〈胸〉は身体の一部を指すが、通常は〈心〉や〈感情〉を指し示す。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情に働きかける。このフレーズ自体は基本として感情や情緒の表現として捉えられるだろう。ある種の叙情性を帯びているともいえる。

 それに対して、〈出来事が 僕をしめつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈僕〉になる。〈僕〉の一部としての〈胸〉ではなく、〈僕〉の全体としての〈僕〉が対象となる。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情だけでなく、〈僕〉の存在の全体に及んでくる。〈出来事〉の比重がより大きく、重くなっていると考えてもよい。

 〈出来事〉が歌の主体〈僕〉を締め付ける。〈出来事〉が〈僕〉に重くのしかかる。威圧する。〈出来事〉が〈僕〉を追い詰める。圧迫する。あるいは〈出来事〉が〈僕〉を拘束する。束縛する。〈出来事〉によって〈僕〉の閉塞感が強まり、〈僕〉の自由が奪われる。このような意味も生じてくるかもしれない。

 歌の主体〈僕〉にとっての〈出来事〉は、抗えないような何か、不穏とも感じられる何かに近いのかもしれない。この表現からは、〈僕〉の重い苦しみが伝わってくる。

 もちろん、〈胸を締めつける〉方も、〈胸〉というのが身体的な感覚でもあることから、単なる感情や感覚を超えて身体の領域にまで迫ってくるという解釈は可能だろう。どういうものかは分からないが、ある種の痛みや苦しみが身体を貫いていることは確かだろう。〈僕をしめつける〉になると、その痛みや苦しみが増して、強い不安感や切迫感にまで達すると捉えてもよい。〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部ではなく〈僕〉の存在の全体に強く作用する。


 志村正彦はアルバム『フジファブリック』の作品について「ROCKIN'ON JAPAN」2004年12月号のインタビュー記事でこう発言している。


考えすぎる性格なのか、常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べたり、いろいろな葛藤がありますね。基本的にそんなにポジティヴじゃないというか、子どもの頃からみんなと一緒にいて楽しんでいるようでうしろのほうでいろいろ考えている自分がいる感じがするんですよね。


 志村は『陽炎』の最終段階まで、〈出来事〉が締め付ける対象が〈僕〉なのか〈胸〉なのかについて模索していたのではないだろうか。彼には〈考えすぎる性格〉という自覚があり、〈常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べ〉ていろいろな葛藤をかかえた自分と向き合わざるをえなかった。

 『陽炎』の歌詞のなかでは、この〈出来事〉がどういうものでるかは語られていない。志村はそのことを隠した。しかし、その〈出来事〉が〈僕〉を締め付けるのか、〈胸〉を締め付けるのかという表現については考え抜いた。そのような過程がこの『陽炎』草稿から浮かんでくる。

     (この項続く)


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