2025年12月29日月曜日

『陽炎』の四つのブロック-『陽炎』草稿3[志村正彦LN376]


 『陽炎』の草稿によって、この歌をどう捉え直したらよいのか。今回はその点について考察したい。

 以前も紹介したが、志村正彦は『FAB BOOK』(角川マガジンズ 2010/06)で、『陽炎』の物語の枠組やモチーフについて貴重な発言をしている。再度この発言を取り上げたい。


僕の中で夢なのか現実なのかわかんないですけど、田舎の家の風景の中に少年期の僕がいて、その自分を見ている今の自分がいる、みたいな。そういう絵がなんかよく頭に浮かんだんですよね。それを参考にして書いたというか、そういう曲を書きたいなと思ってて、書いたのがこの曲なんです。


 つまり、〈少年期の僕〉という第一の自分、〈「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉という第二の自分、〈少年期の僕〉と〈その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉の両方を〈頭〉に浮かべている第三の自分、という三人の自分がいる。この三項による構造が『陽炎』の歌詞を構築している。


 『陽炎』で歌われる物語の世界は四つのブロックに分けられる。

 順番に、〈少年期の僕〉の〈残像〉を〈今の自分〉が想起する〈残像〉部分、〈少年期の僕〉の物語を語る部分、過去から現在へといたる〈出来事〉を〈今の自分〉が想起する部分、(この後で再び〈少年期の僕〉の物語の後半を語る部分が挿入される)、最後の「陽炎が揺れてる」の部分の四つである。それぞれを色分けして、『陽炎』完成版の歌詞を引用する。


  陽炎 (作詞・作曲:志村正彦)

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける


隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

陽炎が揺れてる


 『陽炎』は〈残像〉部分から始まる。

 〈あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ〉と過去を想起し、〈路地裏の僕がぼんやり見えたよ〉と〈路地裏の僕〉に焦点化したところから、〈次から次へと〉〈残像〉が浮かんでくる。そしてその〈残像〉が〈胸を締めつける〉。


 この〈残像〉部分の後で、〈少年期の僕〉の物語が語られる。

〈僕〉は〈隣のノッポに借りたバット〉と〈ちょっとのお小遣い〉を持って野球をするために小学校のグラウンドに行くが、途中で〈駄菓子屋〉で何を買うか悩んでいるうちに〈雨〉が降りはじめ、肩を落として家に帰ってくる。そのうち窓から手を出すと雨がやんでいることに気づいて、慌てて家を飛び出す。外では〈陽〉が照りつけて、遠くで〈陽炎〉が揺れている。

 「手を出して」「雨に気付いて」「家を飛び出して」「陽が照りつけて」というように、動詞の連用形に「て」という助詞が付加される形で繰り返されることで歯切れのいいリズムとなって、路地裏の物語、〈僕〉の残像がまさしく次から次へと想起されていく。

 しかし、その〈残像〉は〈胸を締めつける〉ものでもある。この感情の核には、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛惜の情があると考えてよいだろう。この哀惜の情が強く〈僕〉に迫ってくる。

 この〈残像〉部分の最後で〈僕〉が見ている〈陽炎〉はおそらく少年時代に実際に見たものだろう。その実景を回想として想起しているうちに、過去と現在との間の境界線がぼんやりしてきて、過去も現在も揺らめいて見える。過去と現在が混ざり合い、時間が揺れてくる。その時間の揺れのようなものを、現在の〈僕〉は〈陽炎が揺れてる〉と捉えたのではないだろうか。つまり、〈陽炎が揺れてる〉のを見つめている主体は、少年期の〈僕〉であり、現在の〈僕〉でもある。


 少年期の物語が終わった後で〈出来事〉部分が始まる。

 「出来事」部分では、〈今では〉と〈それでも〉、〈無くなったものも〉と〈あの人は〉、〈たくさんあるだろう〉と〈変わらず過ごしているだろう〉という対比が強調されている。この対比は過去と現在の時間の対比に基づいている。歌の主体の眼差しは〈無くなったもの〉と〈あの人〉に焦点化していくが、〈無くなったもの〉がどういうものか、〈あの人〉がどういう人であるかは分からない。作者志村にとっては特定のものであり特定の人であるのだろうが、聴き手にとっては不明のままである。

 この〈無くなったもの〉や〈あの人〉が具体的に語られなかったことが、〈出来事〉が〈僕を しめつける〉から〈胸を 締めつける〉へと書き直されたことの原因の一つになっているように考えられる。

          (この項続く)


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